紙と電子がワンセットで売られるサービスに期待
――ところで、細谷さんご自身は、どんなデバイスが生き残るとお考えですか。
細谷功氏: iPadですね。1ユーザーとして、こうなったらいいなっていう単なるわがままを話すとですね(笑)。うちの本棚がなぜ溢れているかというと、単純に本そのものをとっておきたいというのが2、3割。あとは検索とか本書いたりするときに参考文献として読むかもしれない、と思ってとってあるのが6、7割くらいです。
もしも、「紙を買った時には、セットで電子が後でついてきます」というサービスがあると便利ですよね。クラウドなんかに置いといて、鍵はちゃんとかかっているんだけど、アクセスコードだけは買った人にだけもらえるとか。そういうのがあるとユーザー的にはすごくいいですよね。逆の発想で電子が全部あるんだったら、簡単製本キットみたいなものを作ってしまっても面白いですよね。
――実際本屋にあるらしいですよ。私はまだ実物拝見してないんですけど。
細谷功氏: 表紙とか装丁とかも全部自分でカスタマイズできるようにしちゃって、ハードカバーにするのかソフトカバーにするのかとか。デザインも5種類くらい作って、そこから選べるとかね。本当に高くするんだったら、金文字かなんか入れちゃうとか。
――できるとすごく面白いですよね。所有感が大事ですよね。電子化においても所有感がちゃんとあって、いつでもまた紙にできたりするようなサービスがあれば面白いですよね。
細谷功氏: 電子化によって何が変わるか、当たり前の話も含めてなんですけど、デメリットとしては、パラパラめくりができなくなる。
本をめくるという行動は、それこそパピルスの時代とかただの紙だったということを考えれば、人間のDNAに限りなく染みついているのではないかと思いますしね。インターフェイスがいつ統一されるのか、という所が、「本とはなにか?」という問題にかなり近いのかもしれないですね。だから、人間が知識なりを吸収するという行為は、この「めくる行為」と実は密接に脳の中で繋がっているのかもしれないですね。
――例えば、「葉っぱの中に何があるんだ?」と、探求するような行為に似ているのかもしれないですね。
細谷功氏: めくるとは、そういうことなのかもしれないですね。
雑誌の記事や本の章売りなど、文章のバラ売りがすすむ?
――話が変わりますが、例えば雑誌の場合、立ち読みで気に入ってもらえたとしても、買われずに終わっちゃう可能性も高いと思うんですが、電子化によってその場で買えたとしたら購買というのは増えると思いますか。
細谷功氏: いわゆるロングテール化だと思うんです。購入の頻度が増えるのは間違いないけど、その代り単価は下がる。掛け算した時にどっちにいくかというところだと思うんですね。今までは、雑誌という形で一つの不連続なポイントがあり、書籍という形で不連続なポイントがあった。
つまり、千円ちょっとの本を買うか、立ち読みで済ませるかという話だったのが、今度は連続的に変化しはじめています。例えばオムニバスの本とかがあるけども、あれは「この本には10人の著者が入っています」というものだったけれど、これをバラ売りできるような形ですかね。それぞれ、4、50ページのコンテンツで「○○さんが選者になりました」というだけで、それがプレミアムになるとか。
――誰が選んだ、泣ける話50冊みたいな感じでしょうか。
細谷功氏: そうそう、そういうやつですね。だからそうなると作り手としても4、50ページくらいのオムニバスコンテンツもいっぱい作るとかっていうのもありえるかな。思考力系の本とかだったら、単なる本ではなくて練習問題みたいなのをつけて、アプリにしてしまって『電柱何本あると思いますか?』って聞いたらば、電柱とは。みたいな話からはじまり、各国のいろんな電柱の絵が出て来るとか、電柱とはこういうポリシーで立ってますとか。マニアックな人にとってみるとこの間隔は風向きがどうで、この強さがどうで決まってますみたいな感じですかね。そういううんちくが色々出てくるとかね。まぁ、それはWebでやっている発想と同じですけどね。
今後は、1冊の本なり雑誌なりが、どこのポイントでも切れるようになってくるような気がします。つまり、立ち読みというのものだと、全く買わないか、全部一気に買うかのどちらかになってしまいます。だけど、一個一個の記事が買えるようになれば、立ち読みなんだけども、「まぁこの記事は買ってみようかな?」という人たちが出てくるんじゃないでしょうか。
――今は初めにある程度先にページ数が決まっていて、その中に記事を落とし込んでいく書き方が主流ですが、ページ数や文字数などの制約がなくなる可能性が高いということですね。仮に、本来伝えたいことが10ページで収まる場合、わざわざ長くかかなくてもいいし、その反対もありうるわけですね。
細谷功氏: そうですね。だから、著者として考えた場合、今までは単行本を想定して1冊200ページのものを書くか、5ページの雑誌連載を書くか、極端に言うとどちらかなわけじゃないですか。あるいは、2ページのブログを書くとか。そういう不連続のポイントだったものが、今後は50ページものでもよくなる。
今までだと学術論文のようなものなら、ひとつにつき20~30ページで、論文集みたいなもののなかに入っていることが多いんです。でも、「じゃあ、30ページの本を売ってますか?」というと、ほとんど売ってないですよね。本屋に並んでる本も、単行本であれば、200ページ位はある。
だから、今後は、もしかするともっと「薄い」本が多くなってくるかもしれないですね。20ページの本もあれば、30ページ、40ページ、50ページの本もある。だから、作る方にしてみても書籍のような本格的なものもあれば、ちょっと予告編みたいなものを「まず30ページ」というような形で出しておくこともできる。その30ページの後に、「全部のバージョンは来年ね」ということで。
本は映画館の映画同様、「時間をとってもらう」メディア
――とにかく細分化され、かつ物理的制約を受けずに様々なものがどんどん出てきそうですよね。ちなみに、今は読者カードやAmazonのレビューなどで読者の顔をある程度想像できると思うんですが、もっと読者の顔が見えた場合の書き手のスタイルに変化は生じますか。
細谷功氏: 多分、Webとかブロガーとかはそれを今やっていると思うので、だんだんそれに近づいていくのではないでしょうか。あと、もうひとつ思うのは、逆に「こういう構造が起きるが故に、ちょっとした不連続なところがあるんだ」ということにもこだわりたいかなというのがあります。
やっぱり、書籍の場合、当然50ページ100ページが必要になってくるので、「ブログのような普通のコンテンツとは違うんだ。短いものとは違うんだ」と思わせたいですね。テレビと映画の関係に似ていると思うんですけど、要するにテレビって短サイクルになっているわけですよね。お茶の間で簡単に観れて、チャンネルも簡単に変えられちゃう。ネットの世界もそうです。
ところが、一方、映画はちゃんと映画館に行きます。本も読者が本を取りだして「さあ読むぞ」といった瞬間に、この本は「この人の時間を占有します」という「宣言」をするわけですよ。テレビのように簡単にはチャンネルを変えられない。つまらなかったらすぐリモコンをおけばいいんだけども、電車の中でこうやって出してしまったら、そこそこつまんなくても降りるまで出したまま持ってるわけじゃないですか? そういう意味で「本は時間を占有する」という権利を得られるわけですよ。ネットだったらピッとクリックされたら終わりですから、チャンネルを変えられるのと全く同じですよね。
DVDが簡単に手に入っても、映画館にちゃんと行く人がいるっていうのは、映画として一つのストーリーを語ってほしいから。本としても、やっぱりある哲学とかストーリーを提供しない限り、チャンネルを変えられちゃうかなっていう気がするんですよね。逆に言うと、作り手としてはそれを意識する必要があるかな? という気はしています。