教科書から漱石、鴎外が消えるのは残念
――昔読んでいた本と今読んでいる本で、変わったと感じられる部分はありますか?
橘木俊詔氏: やっぱり昔の文書を読むのが非常につらいというかね。明治時代、例えばさきほど出た永井荷風の本なんか読むとね、ちょっと日本語が違うじゃないですか。だからわれわれは昔の人の書いたのを読むのは苦労するなっていうのを感じます。江戸時代の本なんかもなかなか読みにくいですね。隔世の感がある。基本的な私の仕事のためには今の本さえ読めればいいんだけどね。時々古い本なんかを読むこともあると、スピードが完全に遅れてしまうっていうデメリットを感じる。これは古文の教育がおろそかになっていたのが理由かもしれませんけどね。中学校高校の時にもうちょっと古い言葉の古文を読む訓練をもっとしておけば良かったなと思います。段々今高等学校でも古文の比率が落ちているみたいですね。夏目漱石と森鴎外すらもう教科書にないといいますからね。今や文豪の小説が教科書から消えたというのは、古い人の作品を読まなくなったというのは残念ですけどね。
――確かに古文や旧仮名遣いの文章を読む機会はありませんね。
橘木俊詔氏: 現代語訳したものを読むか、もともとの彼らの書いた文章で読むかでやっぱり違いますよね。われわれが小学校中学校のころは、昔の文章で読めたから。今の生徒さんには無理でしょう。われわれのころは、まだ先生が教えてくれた。ただ明治時代の彼らが最初に書いた書体かどうかは分かりません。小学生にも分かるように書き直した書体だったかもしれませんけどね。そこはちょっと記憶がないですけどね。もうひとつ言えば、昔は文章にカタカナが多かったじゃないですか。明治時代とか。今やカタカナは外来語だけですね。ベースボールとかバスケットボールとかね。大正時代、戦争前の日本語もカタカナが多いですよね。ひらがなよりもカタカナの方が多かった。これやっぱり日々言語というのは変わるなっていうのを痛感しますね。
編集者は新しい書き手を発掘せよ
――本を買う時は、書店へ行かれたりするんですか?
橘木俊詔氏: やっぱり本屋で買いますね。新聞の宣伝を見て自分の欲しいと思った本は中身を見ずにもうタイトルから買います。タイトルが大事ですよね。
――先生の本のタイトルっていうのはどのようにして決められるんですか?
橘木俊詔氏: やっぱり編集者の方が慣れていますから、われわれ執筆者の方がタイトルを作るっていうことはあんまりないですね。中身は全部私が書きますけどね。タイトルは編集者の方が発言権があります。やっぱり彼らは営業のことを考えるからでしょう。私みたいにタイトルだけで買う読者もいるとなると、タイトルは大事ですよね。失敗することもありますけれど。編集者が、後で「この本はなんで売れなかったのか」という反省会をやった時、「私のタイトルが失敗でした」と、ちゃんと認める編集者もいますよ。
――編集者の役割っていうのはすごく大きいですね。出版不況といわれる中、これからの書籍や、編集者の役割はどのようなところにあると思いますか?
橘木俊詔氏: 編集者は、書き手をどうやって探すかということ。今は出版社の場合は、売れる本っていうのがプライオリティーになっているから、特定のベストセラー作家に集中する傾向があると思います。だから逆に言えば、あんまり名前は知られてないけれど皆に注目してもらえるような書き手をいかに見つけてくるかは、編集者の一番の腕前だと私は見ていますね。ベストセラー作家ってもう行列ができてるんじゃないですかね。
――さきほど自伝のお話もありましたが、先生にも様々な執筆の依頼があるようですね。
橘木俊詔氏: 私もたくさん本を出している方だと思います。幸か不幸か依頼が結構あるので書き続けていますけどね。でも基本的には学者ですから、何十万部とか百万部とかそんなのは絶対にありえない。発行部数は限られているけれど、社会に何らかのインパクトのある本を書ければわれわれの生きがいっていう感じはしますね。
貧困、格差社会。学術書が予想外のヒット
――先生の最近の著作で印象深いのは、格差や貧困の問題に言及された本です。2006年の『格差社会 何が問題なのか』(岩波新書)は幅広く議論を巻き起こしました。
橘木俊詔氏: 私の本の中で一番売れたのが『格差社会 何が問題なのか』なんですよ。もう20刷位いっていますからね。私は格差社会という言葉を言い出した1人です。もともと98年のころから言っていて、その後格差社会、格差社会といわれるようになって、小泉元首相が「格差社会で何が悪い」と言ったもんだから、『格差社会 何が問題なのか』で何が問題かいう答えを書いた感じなんです。小泉元首相がそういう発言をしてくれたから、格差社会とは何かということを一般の人も関心を持ったんじゃないですか。日本が格差社会になっていますよということを伝えたというメリットは多少なりともあったような気はしますね。もう一つ関連書として『日本の貧困研究』(東大出版会、浦川邦夫と共著)を同じ時期に出版しました。
――でも内容はかなり難しい本ですよね。いわゆる大衆向けではない。
橘木俊詔氏: これはもう大衆は狙ってはいないんですよね。学術書ですからね。中はものすごく難しいんですよ。もう数学だらけ。最初は日本語かもしれないけどもう後は数学やら統計やら。もうごりごりの専門書です。ところがこれは難しい本なのにかなり売れたんですよね。東大出版会もびっくりする程売れた。ごく最近の本でいえば同じ東大出版会から『働くための社会制度』(髙畑雄嗣と共著)というのを出して、学術書だから学者とか学生に読んでほしいんだけど、これはあんまり売れんかったですね。東大出版会は橘木は専門書を出しても売れるだろうと思ってたんだけれど駄目でした。柳の下にドジョウはいない。だから難しいですね。何が売れて、何が売れんかというのは。
――先生の著作から、格差社会や貧困といったテーマが一般にも知れ渡ることになりましたね。
橘木俊詔氏: 書いた当初はそんな意図は全くなかったですけどね。「日本は今貧富の格差が広がっているぞ」と、学者の仕事としてそういうことを世の中に問うたんですけどね。言ってみれば風が吹いたというかね。
成熟する日本。高度成長幻想を捨てよ
――先生ご自身の著作についてもう少し伺います。最近、先生は精神科医の香山リカさんと『ほどほどに豊かな社会』(ナカニシヤ出版)。先生と同じ同志社大学の浜矩子教授と『成熟ニッポン、もう経済成長はいらない』(朝日新聞出版)という本を出されました。両著とも、日本の経済状況の見立てと、経済成長という尺度の見直しが重要な論点となっていますが、そのあたりのお考えをあらためてお聞かせください。
橘木俊詔氏: 経済学は経済成長っていうのを第一に置くんですよ。非常に豊かさを強調するし、経済成長の高い方が良いという様なことをいうんだけど、私は日本みたいにある程度豊かになった社会であれば、がむしゃらに働いて経済成長を求めるよりも、自分の好きなことをやってね、そこそこ生きればいいんじゃないかいうのが信念ですね。もう経済成長はいいじゃないかと。ほどほどの生活ができて、自分の好きなことをやって、レジャーができる位のお金を稼いだらそれでいいじゃないかと。本が好きな人は本をじゃんじゃん読むし、スポーツ好きな人はスポーツをやるし。自分の好きなことに時間を費やしたらいいんじゃないかいう本を出版したんだけど、日本ではなかなかこの考えはまだ少数派ですね。やっぱり日本人は頑張れと。
中国にGDPが負けたから尖閣とか何とかであの国は日本に攻勢をかけてきている。日本も経済が強くならなければいかんというような方が多数派だと私は見ていますね。でも高度成長はもう無理だと思います。1%程度の経済成長率がやれれば日本は十分。なぜかというと少子高齢化じゃないですか。もう労働力が段々減ってくる社会で、人口が減っていけば購買力も減る。そうとなると、どうしても高い経済成長率は無理ですね。でも食えない経済だけは困ると。退歩は困る。要するにネガティブの成長率、マイナス1とか2っていう成長率はこれは生活水準が下がるということを意味するからね。これは困るけれど、まあプラス1%程度の経済成長率で十分ではないかっていうのがこの辺の私の意見なんですね。
新たなる執筆対象「スポーツと学歴」を探る
――今書かれている本や、これから取り上げたいテーマは何かありますか?
橘木俊詔氏: 私はもう経済学は十分にやったと思うんで、ひとつはスポーツですね。私、スポーツは好きなんですよ。フランス人はスポーツが大嫌いだけどね。スポーツに関する本を、最近書き終えました。
――スポーツですか。それは経済学的な観点から書かれているのですか?
橘木俊詔氏: そうですね。労働経済学が専攻ですからね。スポーツにおける学歴について書きました。学校というのは皆さんものすごい関心がある訳ですよ。だからスポーツの世界でどれだけ学歴が生きているか、なんで巨人に過去には慶応出身者、今では中央大出身者が多いかとかね。ラグビー、サッカーとか、どういう学校を出た人がどこに行っているかとか。例えば中日ドラゴンズは明治閥なんですよ。そういうことを一生懸命調べてきてね。
――そういえば先生は野球、特に阪神ファンとしても知られていますね。
橘木俊詔氏: 甲子園にもよく行きますよ。もう趣味だからね。趣味で本が書けるなんてありがたいと思ってね。でも半年くらいかかっています。やっぱり資料集めて調べなければいけないから。でも全然苦にならない。あっという間ですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 橘木俊詔 』