田中和彦

Profile

1958年大分県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、リクルートに入社。人事課長を経て、広報室課長を担当。その後、 「週刊ビーイング」、「就職ジャーナル」など4誌の編集長を歴任。98年に、ギャガ・コミュニケーションズへ入社し、映画プロデューサーへ転身。その後、04年にはキネマ旬報社の代表取締役専務へ就任する。現在は独立し、株式会社プラネットファイブの代表取締役を務めている。今までに2万人以上の面接を行ってきた人材コンサルタントとして活躍する一方で、コンテンツ(映画・出版)プロデューサーとしても活動中。著書に『42歳からのルール』『課長の時間術』など。

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寄り道や回り道したとしても、仕事には無駄なことはひとつもない



広告の世界を目指したものの、人事課での仕事からキャリアをスタートし、そこからさまざまな職業での経験をすべて「今」につなげ、現在は人材コンサルタント、映画・出版のコンテンツプロデューサーとして活躍されている田中和彦氏。雑誌編集長、映画プロデューサーという経歴にはどのような人生の変移があったのか、さらに本や映画に対する原体験までお話を伺いました。

新聞に映画プロデューサー募集の記事を見て、自分で応募した


――近況と現在の取り組みについて、簡単にご紹介いただいてもよろしいですか?


田中和彦氏: 今、主に3つの柱で仕事をしています。ひとつは研修の講師や講演会での「話す・伝える仕事」。もうひとつは創る仕事ですね。映画のプロデュースをしたりとか、あとは出版のプロデュースしたりする仕事。それから3つ目が執筆ですね。本を書いたり新聞にコラムを書いたりしています。

――もう既にご自著でも書かれていると思いますが、もともとはリクルートにいらっしゃったんですよね?


田中和彦氏: はい。リクルートに入ろうと思った理由はコピーライターになりたかったから。僕が大学生の時は、糸井重里さんなど、スターのコピーライターの方が世の中に現れて、西武百貨店が「おいしい生活」という広告を作っていた。「広告っていうのはモノを売るためのものだけじゃなくて、文化も作るんだ」という時代で、それで広告の世界に身を投じようと思いました。リクルートも求人広告でしたけれども、広告を扱っているからコピーライターを希望して入社したんです。けれども、最初の配属は人事部人事課で、自分の思惑とは違った。ただ、そこでマネージャー向けの新任管理職研修や新入社員向けの研修を担当したんです。その経験が今に生きています。

スタートが人事だったのですが、たまたま「リクルート事件」が起きて、その時に広報室に異動になってマスコミ対応の仕事をして、次に社内報の編集を担当したんです。20代に人事の仕事をやったというのと、広報室での編集の仕事がうまく組み合わさって『週刊ビーイング』という転職情報誌の編集部に異動になりました。

――面白いですね。


田中和彦氏: そこで副編集長をやり、編集長になりました。リクルートでは『就職ジャーナル』や『週刊ビーイング』、自分が提案した『ザッピィ』という音楽の情報誌も担当しました。昔から映画が好きで、そのころはリクルートの中で映画の事業みたいなものに取り組めたらといいなという風に思っていましたね。そうこうしていた時にちょうど朝日新聞の求人欄で小さいギャガ・コミュニケーションズ(現・ギャガ)の映画プロデューサー募集の記事を見つけたんです。

――有名な映画配給会社ですね。


田中和彦氏: 本当に小さな記事だったんです。普段だったら『週刊ビーイング』に載ってなくて新聞に載っている広告は、営業部に電話をして「広告を取れ」と尻を叩く立場なんですけど。その時は「『ビーイング』に載ってなきゃいいな」と思っていました。『ビーイング』に載っていると、やっぱり編集長である自分が応募するというのは読者の利益を奪うことになりますから、気持ち的にはできない。でも、たまたま『ビーイング』に載ってなくて新聞だけだったんです。そこに30~40歳位まで、未経験者可ってあったのでチャンスだなと思って応募したんですね。そこから映画の世界でのキャリアがスタートしたという形です。

40歳を区切りに本当に自分のしたい仕事をやりたかった


――その面接で即日採用されたのですか?


田中和彦氏: いきなり社長面接で、社長は「なんで『ビーイング』の編集長が面接に来たんだろう」って最初は首をかしげていたんですけど、僕の映画に対する思いとか、40歳というところを区切りに本当に自分のやりたい仕事をしたいんだということをお伝えして、そこで話が盛り上がったんです。「じゃあ次は役員に会ってもらうから」ということで、役員と顔合わせっていう感じでぽんぽんっと決まって、映画の世界に入ることができた。

そこから映画をプロデュースしたり、宣伝の仕事を担当しました。『バトル・ロワイアル』の映画化を深作健太さんというメインのプロデューサーの方から相談されて、「やりましょう」って話になりました。最初は幹事会社という製作委員会の取りまとめの役割だったんですが、結果的には幹事会社を降りたんです。映画を作っていく過程の中で社内で、「反社会的な映画なんじゃないか」という話になって。僕はちゃんと役員会でどういう映画かって説明していたつもりなんですけどね。世の中が盛り上がれば盛り上がる程、社内的にあれはやらない方がいいんじゃないかみたいな話になった。最終的には幹事会社は東映さんにお願いしたんです。その件も含めてギャガは製作事業を撤退しようということになり、仕掛かっていた作品などを中止した責任もあったので、会社を辞めたんです。

――次はどのようなお仕事をされたんですか?


田中和彦氏: 『DIRECTOR’S MAGAZINE』という雑誌の編集長をやっていました。映画業界やテレビ業界の監督やディレクターを取材する広報誌でした。その間にギャガがキネマ旬報社を買って傘下に収めたんです。あるときギャガの社長から電話があって、「キネマ旬報社を任せられる人を誰か知らないか」と言われて、「だったら僕はだめですか」と言ったんです。それでもう1回社長から声がかかって、キネマ旬報社を担当するようになりました。その時に初めて出版社という、自分が本を作って出す立場になったんです。情報誌の編集長もやり、出版社で本を出すっていう立場もあり、取材される立場もあり、取材する立場も経験した。そういうたくさんの経験をして今の自分があるんですね。

寄り道をしたり回り道もしたけれど、結果的にすべてが一本道になっていた


――さまざまなお仕事をご経験されていらっしゃるんですね。


田中和彦氏: 人事の仕事をしていた時には、「本当に自分のやりたい道からそれているな」という思いがすごく強くて。その後も色々あって、寄り道や回り道していたんですけれども、今振り返ると、結果的にはすべてが一本道になっていた。振り返ると大きな太い道なんだっていう風に思えるんです。「人生には無駄なことはひとつもない」という気持ちがすごくしましたね。人事の仕事も広報の仕事も一生懸命やってよかったと思います。ギャガを辞めて失業者になった時に英会話学校に通ったりして、自分の生き方を見直す機会もありましたが、そんなこともすべて今につながっている。

――社会人になる前は映画はたくさんご覧になってましたか?


田中和彦氏: 社会人になったのが82年で、80年代はあんまり見てないですね。学生の時は年に100本とか200本を見てたのに、がたんと減りました。ただ30歳以降は社会人としてのペースもつかめてきたので、少しずつ増えていった気がします。

――最初の映画体験というのはいくつ位の時だったんですか?


田中和彦氏: 小学生の頃で、最初にワクワクした映画は『レッド・サン』という映画なんです。三船敏郎、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンという当時の日仏米の三大スターが競演した時代劇なんです。侍がアメリカに渡って大統領に宝刀を献上する時に襲撃されて宝刀が盗まれて、三船敏郎がそれを奪い返しに行くっていう物語です。子どもながらに「映画って面白いな」と思いましたね。

著書一覧『 田中和彦

この著者のタグ: 『映画』 『生き方』 『働き方』 『紙』 『広告』 『編集長』 『コピーライター』 『きっかけ』 『転職』 『文化』 『プロデュース』

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