子どもたちに、もっと数学の世界を広めたい
岡部 恒治さんは、北海道札幌市に生まれ、1969年、東京大学理学部数学科を卒業。東京大学大学院修士課程修了後、埼玉大学教授を経て、数学者として数学に関する著書を多数出されています。『考える力をつける数学の本』、『分数ができない大学生』、『マンガ・微積分入門』、『大人の算数』などが著名です。そんな岡部さんに、電子書籍について、本とのかかわりについてインタビューしました。
東大に受かったのは「運」が良かった?
――岡部さんは、北海道で高校生まで過ごされたそうですね。
岡部恒治氏: そうですね。札幌南高校を出て、すぐ東京に来たんですけれども。東大に受かったのは、運が良かったという風に思っています(笑)。僕が入った次の年、「岡部でも入れるんだ」って、無理と思われる生徒がどんどん受験して、みんなが散ってしまったといううわさがありまして。
――子どものころは、どんなお子さんだったんですか?
岡部恒治氏: いやあ、小学校のころは、算数は全然できなかったんです(笑)。算数が2だっていうのも、よく引き合いに出されます。ウチはそんな教育に熱心な家庭じゃなくて、とにかく子どもは商売のための人手としか見られていなかった。僕も含め10人兄弟がいるんだけれど、忙しい時は「全員働け」という(笑)、「働かざる者は食うべからず」っていう厳しい家庭でしたね。結局、僕は高校3年の夏休みの時も、ウチの八百屋の店で売るとうもろこしを毎日朝から晩までとうもろこしをゆでる釜の番をしていました。ものすごく売れたんですよ。本当に1日1000本以上売れたと思います。
――1日1000本ですか!?
岡部恒治氏: ええ。買いにくるのは近所の人とか地元の人ですね。東七丁目っていう当時の札幌の東のハズレのほうにいたんですけども、わざわざ中心部を通り過ぎて、西のほうからも、買いに来てくれた人もいました。結構評判でしたね。美味しくするコツがあったんです。秘伝のタレというか、大きい窯で煮ていたので、とうもろこしから出た汁がおいしくしてくれるのかなって思っていたんですけどね。
――やっぱり大きい鍋でやらないとなかなかその味は出ないんですね。
岡部恒治氏: うまくやるとすごく美味しくできたんです。「大通り公園で売っているものなんかよりずっと美味しい」って言って買いに来てくれましたね、20本30本って。だから夏休みなんて、本当に休む暇なく、釜から煮あがったとうもろこしを出したら、すぐ次のを入れてっていう感じで。でも受験よりかは「稼げ」ということだったんです。しょうがないので、勉強は釜ゆでをしながら、豆単語帳を覚えていました。だからね、ウチの子どもを見ていて感じるのは、スポイルされて、楽をすると、勉強でもハングリー精神が足りなくなるというように感じます。
この件に関して、尾木ママと言われる方が、『日本の論点』に「学力低下論者は小さいころから塾に通わされ、中高一貫に行った者ばかりのようであった」として、「学力低下論は強者の論理」と非難していたのは、全くのデタラメです。むしろ、「貧乏人の息子でも東大に行けるように普通の学校の授業を充実してほしい」というのが私たちの主張です。
算数は2、国語は5、計算が苦手な子どもだった
――岡部さんは小学生の時、算数が2だったんですか?
岡部恒治氏: そう。算数は2だったけど、国語だけはずっと5だったんです。小学校から一貫してね。高校2年の時に、「東大模試」っていうのがあって、2年の段階で国語が100番以内に入っちゃってね。国語は自信があった。中学校の先生がかわいがってくれて、「漢字とかそういうものは、後でもできる。今は本を読むことをよくやったほうがいい」と教えてくださった。それで毎週図書館へ通って本を抱え込んで来て、それを読んだんです。中学2年の時は、『戦争と平和』を全部読んだんですけれども、子どもだから、「何でこんなバカなことをやっているんだろう」と思っていた(笑)。とにかく読むことが大事だといわれて読んでいたけれど、そのときは、たくさん本を読むことの意味がわかってなかったんです。ただ、なんとなく、「読んだ!」っていう充実感はありましたね(笑)。
――中学2年生で読むというと、すごい達成感ですよね。
岡部恒治氏: 当時の岩波文庫は旧漢字なんですよ。最初それを読むのも大変でした。読めない漢字がいっぱいあって、今なら、パソコンとか何かでなんとかできるんだろうけど、家が八百屋だったので、そういう漢字を引く辞書もなかったんです。でも、いい勉強になりましたよ。なんとなく前後の関係から、「これはこうだな」と読めるようになって、わからないものを読む非常にいい勉強になりました。1番上の兄はバリバリの文系で、2番目の国語が苦手な兄に、「国語がわからなかったら、難しい落語の本でもいいから、読みにくい本を読んで勉強すればいいんだ」って言っていましたしね。それから中学校の先生に、とにかく本をいっぱい読んで、連続にどんどん乱読しろと言われて、本当に乱読をしました。1週間に3冊ぐらい必ず読むようにしていました。あの経験はすごく役に立ちましたね。今でも、例えば本を書く時にも、すごく自分でも役に立っていると思いますよ。書くのが全然苦じゃないですからね。
高校3年の時、「南高新聞」のたった一人の執筆者だった
――岡部さんの本は、普通の数学書と違って、すごく読みやすいというか、語りかけるように話してくださるような読み物が多いですね。
岡部恒治氏: 有難うございます。実は、高校の時は生徒会の役員をやって、新聞会が潰れていたのを再建したんです(笑)。それで新聞会の南高新聞というのを一人で全部書いていました。それが大きいかもしれません。
――普通チームで作りますね。
岡部恒治氏: その高校はみんな3年ぐらいになると勉強しなきゃと言うんで、なかなか活動が大変で、それで新聞会が潰れたんです。僕、受験に関しては2年の時にだいたい大丈夫だと思ったので、3年になるとやることがなくなったんです。2年の国語がよかったんだけど、当時、一番苦手だったのは社会で、「覚えりゃどうってことないや」ってことになって。それで覚えるのは、とにかく高校の試験前の3ヶ月でやろうと決めていたんですよ。記憶系は全然ダメだったんですね。英数国だけなら、2年のころから合格圏内に入ったけど、社会がね、年号を覚えたりするのはすごく苦手だったから、それは直前にやったほうがいいって決めたんです。その入試の直前に1日何百個ずつ年号を覚えたんですね。
――今、お話をお伺いする限りでは、ご兄弟、みなさん大学に進まれているんじゃないですか?
岡部恒治氏: 男は、長男は家をついで八百屋をやっていますけれど、ほかの4人の男は全員進学しましたね。
八百屋の手伝いから逃げたいがために「東大」へ進学を決めた
――岡部さんは大学に行くこと自体は許されたんですね。
岡部恒治氏: ただ、北大なんかに行くと、お盆とかお正月の忙しい時期に、図書館で勉強していても呼び出しに来るんですよ。長男がね、長靴のままドタドタドタって入ってきて、「おぉ~い、ツネハル!」とかって呼び出される。それがイヤで、逃げるとしたら東京しかないというんで東大に進んだんです(笑)もう本当に逃げなんですよね。
――それで東京大学に入られたんですね。
岡部恒治氏: 最初は北大へ行こうと思ったんだけど、ある日、バスで一緒になったどこかのおじさんに、「行くんなら東大にしな」って言われて、まあそういうものかと思って。それで東大なら、北海道を出るのを許してくれるらしいとなってね。だから大学は東大しか受けなかったんですよ。入試の時はね。あと、予備校の願書を用意していて、落ちたらそこを受けるんだって。わりと背水の陣でね(笑)。
――それで東大の理学部の数学科ですよね?数学者になろうというのはその時から思っていたんですか?
岡部恒治氏: 実はそうではない(笑)。お話したように、国語のほうが得意で。そういう感じは最初は全然していなかったんです。ただ、色々とそういう高校の生徒会活動なんかをやっていると、マセたのがいるんですよね。そのマセたのが、「バートランド・ラッセルをうち負かさなきゃ」とか言って、それならやっぱり数理的論理をやらなきゃダメだなっていう話になって。じゃあ、数学をやって、数理的論理学をやって対抗しようという話になっちゃったんです。
――そこに数学者でありノーベル文学賞を受賞したバートランド・ラッセルが出てくるわけですね(笑)。
岡部恒治氏: 最初はバートランド・ラッセルを倒すっていきがっていたけど、だんだんバートランド・ラッセルはなかなかいいやつじゃないかと思うようになったんですね(笑)。あと、東大に逃げたのは、さっきも言いましたが、八百屋の手伝いがすごくイヤだったからです。何がイヤだったかって言うとね、同級生の女の子が買いに来る時がありますよね。近所に、すごくきれいな女の子がいて、そういう子が買いにくるわけだよね。向こうはわりとちゃんとした格好をして来るのに、こちらは八百屋のための汚れた格好だし。そういうのが恥ずかしかったですね。
著書一覧『 岡部恒治 』