角川総一

Profile

1949年大阪生まれ。京都大学文学部を経て75年から86年にかけ公社債関連専門新聞社にて記者として働く。86年金融データシステムを設立、日本初の投資信託データベースを構築、運営。同時に各種雑誌、新聞、ラジオなどで金融・証券分野を中心とした経済評論家として活躍中。ファイナンシャル・プランナーや金融機関向けのセミナー講師なども務める。2011年からは経済金融の諸現象を図案化、視覚化するための方法を、オリジナルエコマップ、A3のペーパー1枚で世界経済が分かる図表等を使って展開している。趣味は楽器演奏と無目的なドライブと旅。バイオリンは30年、チェロ20年、そして2012年からはギターを始めた。

Book Information

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成長したいなら、「甘えん坊」になることを畏れない



角川総一さんは、債券に関する専門で活動後、独立。日本初の投資信託のデータベースを構築する等、金融商品に関する有用な情報を提供しています。また、作家・金融評論家として、マクロ経済や金融商品の動向等幅広いテーマを、一次データを縦横に駆使して解説する言論活動を展開しています。角川さんに、波乱万丈のキャリアについて存分に語っていただき、また電子によるデータ管理の有用性等についても伺いました。

バイオリン片手に、やりたい仕事をする


――会社経営、調査研究や執筆、講演等とお忙しそうですね。


角川総一氏: 最近は時間との競争の中でやって行かざるを得ないような仕事じゃなくて、もうちょっとロングタームでできるような仕事が増えてきました。自分自身の中から自発的にわいてきた、やってみたいと思うようなテーマがいくつかあるのだけど、それが今やっと手に着くような時期になって、ある意味では今の景気の低迷というのは喜びかと思ったりするんだけどね(笑)。僕はもちろんフリーで仕事はしてきたんだけれども、依頼仕事が多かったから、それがどんどん、自分が意図せざる状況で変わってきたというのは結果的にいいんじゃないかという気がします。でも、僕にとって一番やりたいことは楽器を演奏することなんですけれどね(笑)。

――どういった楽器を演奏されるんですか?


角川総一氏: バイオリンとチェロですね。バイオリンはね、幼稚園の時から気が付いたらやっていたんです。おやじが音楽好きで、本当は音楽関係の仕事をしたかったんだけれどもできなくて、公務員になりました。だから夢を僕に賭けたのかな。地方に講演で2、3日行くと、とにかく楽器に触りたくてしょうがなくなる。だから最近はカバンを持って行かずにバイオリンのケースの中に少量の書類を入れて持って行く。本当はチェロを持って行きたいんだけど、ちょっと持って行けないからね。

――講演の主催者の方も、バイオリンを見て驚かれるんじゃないですか?


角川総一氏: 「ちょっと変わったおっさんやな」って言いますね。

劣等感、家出…、京大合格までの紆余曲折


――経済やマーケット状況を分析されている角川さんですが、大学は文学部だそうですね。


角川総一氏: とりあえずモラトリアムで大学に行った方が働かなくてもいいなと。とにかく数II Aだか数II Bだかの最初のところでもう転んでしまっているから、理系は全部ダメ。かといって法律だったら、分厚いものを努力の塊になってやらなければいけない。これはたまらんなと。さらに経済は数字を使うからこれもダメ。消していったら文学しか残らない。文学作品を読んでいるかというと、せいぜい太宰治だとかその辺を読んでいただけ。でも文学、哲学、美学だとかに雰囲気的にあこがれていたんですね。要するに世の中で一番貴い学問は実学じゃなくて哲学だと。役に立たないようなのが一番貴いものであるという、青年特有の青さの中にいて、気が付いたら文学部に入っていたという感じですね。小学校、中学校の時は何の努力もしなくて、まあ何となく北野高校に入ったけれど、北野高校ってみんな頭いいやつばっかりで、急激に劣等意識が出ましたね。ラグビー部に入って勉強しなかったから、成績は550人のうち、3年の最初ぐらいまでは真ん中より下でした。

――そこから、京都大学に合格されるわけですよね。どのような勉強をされたのでしょうか?


角川総一氏: その前に、僕もう大学に行くつもりはなくて、学校が嫌になって、高校3年の夏休みに家出したんです。「東京で文学修業するんだ」って、参考書を全部難波の天牛書店という古書店に売り払った。僕の場合、本を読む時には必ずボールペンを持って、書き入れながら読んでいくから、全然読んでないような参考書しか売れなかったけど、あの当時は今に比べてやっぱり中古本って高く売れたんですね。それで東京に行った。昭和42年、日本の経済が最高潮の時。まあ給料が年に10パーセント頑張らなくても上がった時代でしたね。でも僕は世間知らずだったんですね。。住所も身元引受人も何もなくても住み込みで働けると思っていたわけです。でも大阪弁でしゃべる、青っちょろいのがいきなり来ても雇ってくれるところなんかない。あちこち電話をして全部断られた。しょうがないから2、3日して帰ったら、おやじが「アホか、お前。とにかくこの3か月、4か月、死んだ気になって勉強しろ。それから文句言え」と言われて、そりゃそうやなと思って、それから生涯で一番勉強したんじゃないのかな。そうしたら一気に学校での順位が60番か70番ぐらいになりました。その位になると京大は大体、当確になる。その頃北野高校からの合格者は、東大が2、30人ぐらいで、100人ぐらいは京大。100人から120、130人が阪大や神大。あとは同志社だとか、立命館、関西学院だとかに入るわけです。550人のうちの東大と京大と阪大、神大で約半分ですね。それで、自分は京大に入ったわけです。

京都最後の「夜のバイオリン弾き」


―― 大学時代はどのような生活をされていましたか?


角川総一氏: とにかくおやじがけむたかったから、京都に下宿して、おやじに「とにかく入学金と授業料だけは払ってくれ。あとは全部自分でやるから、一切仕送り要らん」とタンカを切った。ただ、僕は1か月もしないうちに学校は全く行かなくなってしまいましたね。

――生活費を稼ぐためにどのような仕事をされたのですか?


角川総一氏: 新聞配達、牛乳配達、工員、家庭教師もしました。一番長かったのが、2年半ぐらいやっていた夜、ダンスホールのタンゴバンドでバイオリンを弾くアルバイトですね。大学には5年半いたけど、これじゃどうしようもないというので中退して、何か仕事をしなきゃいかんと、東京に来たんですね。

――東京ではまずどのようなお仕事をされたのでしょうか?


角川総一氏: 最初のスタートは材木の卸問屋の力仕事でしたね。その仕事と新聞配達をダブルでやっていたけれど、仕事をするなら、とにかくどんなに小さいところでもいいから出版社だとか、業界紙だとか、インクのにおい、活字のにおいがするような仕事をしたいなという風な感覚が漠然とあったんです。

出版業界に惹きつけた、「活字へのあこがれ」


――出版業界には昔から興味があったのですか?


角川総一氏: 日本人の悪い癖で、活字に対する信仰が厚すぎるなんていう言い方をよくするんだけども、僕なんかはその典型だと思いますね。小さいころに、しょっちゅう行っていた梅田の阪急百貨店の包装紙を見た時に、阪急百貨店っていう変哲もない企業が、こんな立派な印刷物を自分のためのオリジナルで作っているんだと思った。印刷物は、僕の目に見えるような会社が作れるようなものじゃないと思っていたんですね。そのころから印刷されたものに対してこの世のものならぬものというかな、貴いものであるというような感覚がずっとあった。印刷物、活字に対するあこがれみたいなのが、潜在意識で自分の中にあったんじゃないかなと思います。

――最初に出版の世界に入ったのはどのような会社からでしたか?


角川総一氏: 日常出版という社会教育関係の出版社に入ったんです。せいぜい10人ぐらいの小さな会社でしたね。新しく成人になった人間に成人式に配る、成人手帳を作っていました。僕は出版社だっていうことだけで、とにかくうれしかった。「出版社だったらおやじも喜んでくれるやろうな」と思ってね。「晴れて東京の出版社に入ったで」って言っても、おやじが全然喜んでくれない。名前も聞いたことのないような出版社だから、社会的には大したもんじゃないんだなということが、おやじの表情を見てわかりましたね。

「その程度の質問しかできないなら、出直してきて」


――その後債券に関する業界紙に入られますが、どういったきっかけでしたか?


角川総一氏: 日常出版が経営不振で編集部員が5名いたうち僕を含め3人、切られたんです。切られた理由が、「運転免許を持ってないから営業に回せない」ということで(笑)。アルバイトで食いつないで、あちこち履歴書を出した。それで、「公社債新聞」っていう、元同盟通信の記者の方が作った、日本で初めての公社債の業界紙が茅場町にあって、そこが「財政・金融に興味ある若人来たれ」って取材記者の募集をしていたんです。公社債弘報社って発音しにくいなって思いながら電話して、17、8人受けて1人だけが通った。でも筆記試験もなくて、口頭試問だけ。社長が「角川君、君はどんな本を読むのかね」と言うから、「やっぱりロマン・ロランの『ジャンクリストフ』が、面白いですね」とか言うたら「おお、今の諸君でもそういうのを読むのかね」なんて言われて、それが決め手になって入ったようなもんでした。

――債券は株式等と比べてなじみが薄く、専門性も高いと思いますが、記者として苦労されたのはどういったところでしたか?




角川総一氏: 入った日に、編集担当常務から、「君には流通市場を担当してもらおうかな」と言われて、それで勉強しようと思って、茅場町の駅前の千代田書店で日経の『流通経済の手引』というロジスティックの本を買った。全然わからなかったんですね。有価証券には発行市場と流通市場があって、債券の流通市場、発行された債券がどういう風に流通しているか、金利がどういう風に動いているのか。ほかの預金金利だとか長期プライムレートだとかにどういう風に影響しているか。そういった流通市場について担当してくれと言われたにも関わらず、『流通経済の手引』を買った(笑)。公定歩合のコの字もわからなかったですね。例えば野村証券に行って「角川さん、悪いけど、その程度の質問しかできないんだったらもういっぺん勉強して出直して来て。時間が無駄だから」って何べんも言われましたね。だってなにを質問したらいいのかわからない。特に野村はその辺はハッキリしていた。相手を見て、どの程度までしゃべろうかっていうのはあるじゃないですか。でもね、しんどいという気持ちはなかったですね。証券会社や銀行、役所で知り合いになった人に丁寧に取材すればともかく教えてくれて、しかもわからなかったら本で調べられる。苦労しなかったと言ったらウソになるけども、どんどん自分が書けるようになってくるから、苦労を苦労と思わなかった。2、3か月経つと、もう先輩を追い抜いていく。それが楽しかった。その前に知的な仕事をほとんどしてなかったからマグマの力が蓄えられていたのかもしれないですね。

勉強に酒に、エネルギーを爆発させた時代


――今のお仕事にも続くような金融の知識が培われていったのですね。


角川総一氏: 1年ぐらい経った時に、連載記事を書き始めたんですね。僕は今、日本証券経済学会に入って活動しているんだけど、ある学者先生から、「あの時に角川さんが書いた解説記事、ああいうものがなかったら債券の流通市場の分析なんかとってもできなかった」って言われて嬉しかったですね。やっぱり集中してとにかくガーッとやる時期は、人間にとってどこかで必要ですね。その時はつらいと思わない。「僕、結構やれるよな」っていう実感があったですね。あの4、5年位が自分にとって一番大きなピークだったね。普通の人だったら努力しなくても頭が柔らかくて、どんどん入ってくる19、20歳とか、その頃に経済の勉強をする。僕は26歳くらいで、既に頭が下り坂になってから勉強したために、わからない人間の気持ちが多少なりともわかるようなところがあるんじゃないかなと思います。仕事頭の衰え始めた人間でもわかってもらうような説明が曲がりなりにもできるような下地を作ったんではないかと思います。

放浪の時代、「角川を捕まえろ」の号令が


――業界紙の記者としてキャリアを積みながら、会社を退職されたのはなぜでしょう?


角川総一氏: 会社勤めが下手でした。組織が苦手で、会社を辞めて沖縄に行ってしまったんです。そのあとにも北海道へ行ったりいろいろあったんだけど、東京で友達と飲む機会があって、冬だから神奈川か静岡かどこかにミカン農家に入ろうかと思って友達に話したら、僕が前にいた会社の編集担当常務が今度、新しい債券関係の業界紙を作るらしくて、「20世紀最後の専門紙を作る。角川が来たらとにかく捕まえろ」という命令が下っているからということで捕まって、新しく作った『日本債券新聞』というところの編集長をしばらくやらされた。でもやっぱり組織はなじまないなあと思って、それも2年半ぐらいで辞めたんですね。

投信選びに役立つデータが少なすぎる!


――その後いよいよ独立されるわけですね。


角川総一氏: その新聞にあんまり広告が入らなかったんですね。しょうがないから広告が入るスペースに解説記事を書き始めた。それで、「ああ、俺も結構チュートリアルなことも書けるんだな」ということになって独立したんですね。債券投資研究センターっていうのを作って債券の分析関係の本を4冊自費出版で出したんです。有限会社栗山書院っていう版元を勝手に作って(笑)。これ全部ウソなんです。法人でもなんでもない。債券の売買手法の細かいテクニックとか、利回りの基本概念だとかね。次は850ページの『債券金融総合辞典』っていう、箱入り、金箔入り、角丸、レザックの1冊3千円の本を1万冊刷った。各段に全部脚注入りのものでした。パソコンもワープロもない。手書きで何千枚も原稿を書いて、総計800万円かかりましたね。その本は当時の大手証券4社の人間が認めてくれて、そこそこ買ってくれたんだけど、でもやっぱり1万部作ったらいけませんね。営業なんかできないのにね。でも四千冊位売れたんです。山一證券に300冊売れたし。86年くらいから業界の雑誌や寄稿を頼まれたりして、文筆生活に入りました。最初に単行本を出してくれたのは明日香出版なんだけれど、社長は大阪出身の人で北野高校の二部なんですね。で、営業担当の人は京大でどっちも縁があった。それで自費出版本の在庫を一式全部でたしか50万円で買ってもらったんです。だからその後、明日香出版の名前で奥付をはって売っていましたね。

――角川さんといえば、日本初といわれる投資信託のデータベースを作り上げた業績で知られています。投信に関する仕事はどのように始められたのでしょうか?


角川総一氏: 僕が最初に市販されている雑誌で書かせてもらったのが『マネージャパン』という、2、3年前に休刊したマネー雑誌で、投資信託の話を10ページぐらい書かせてもらったんです。その時は僕、投資信託について全く知らなかった。でもフリーになったら、頼まれたらとにかく受けよう、と思っていたから、1か月半位投資信託について猛烈に勉強したんです。でもどの投信がいいかということを書きたかったから、あちこち行って個別ファンドごとのの過去の成績について調べたらデータが実におそまつだったんですね。野村とか山一とか、その辺の大手の投信会社でも、「この投資信託は運用してから3年ですけど、1年以上前のデータはありません」って言う。買う時は過去のパフォーマンスがどうだったかって分析的に見た上で買うんじゃないかと思ったけれど、投信にはそういうことをお客さんが求めるようなカルチャーがなかったわけです。野村では野村の投資信託会社でやっているものしか売ってない縦割り構造だから、横断的に比較するという必要性がなかったというのはあるんだけれど、少なくともマネー雑誌で書く上では、どこの会社のファンドがいいと具体的に説得するためのデータをきちっとそろえた上で作らなきゃいけないでしょう。その当時パソコンも何もなかったからコクヨのグラフ用紙を買ってきて、デザインやってる人に聞いて、曲線が描ける中に針金が入った定規を買ってきて、グラフを作ったんです。それが投信のデータを扱い始めた最初ですね。

――執筆する時に必要な情報がないことが、データベースを作るきっかけにもなったのですね。


角川総一氏: 株券や債券はちゃんとデータベースがあるけれど、投信は全くゼロだから作り始めたんです。ちょうど、ビジネスで使えるMacintoshが出てきたので、無理して2台買ったんです。120万だった。その頃はもう何だかんだ言いながら雑誌などの連載を15本ぐらい持っていたんですね。

データベースは電子に限る、「一覧性」を追求せよ


――角川さんは電子書籍は使われていますか?


角川総一氏: ついこの間タブレットを買ったので、早速僕が出している2本の電子本のほかいくつかの電子本を買った。でもスマホで本を読む気にはあんまりならないですね。情報って複数のものが同時に見えるという一覧性があることによって初めて付加価値が出てくる。その点タブレットの普及で電子本は一気に読者が増えるでしょうね。僕は昔から「壁画の時代」っていう言い方をしているんだけど、中世時代には絵がとにかく大きい。あるいは仏教画でもそうなんだけど、要するにブッダが生まれてから死ぬまでがギューッて詰められてあるわけです。あるいはキリストが死ぬ時の絵に、動物が描いてある。それがどういう表情をしているかとか、全体の中において、これとこれの関係がどうなってるかというような、それぞれの情報の関係性が瞬間的に把握できるような状態でなければ付加価値を持たない。残像が残る間に次を認識するっていう感覚。そのためにはスマートフォンじゃダメなんです。

――ある程度のディスプレーの大きさと解像度が必要なんですね。


角川総一氏: 枠が小さくなってくればなるほど、多分、人の呼吸が浅くなっているんじゃないかという気がします。顕微鏡を見る時には息をこらして見るでしょう。タブレットなら、息が楽ですね。ちっちゃなスマホは精神健康上良くないんじゃないかな。

――電子書籍はどのように使えば有用でしょうか?


角川総一氏: 本の中にはいっぺん読んで終わりという本と、いつでもそばに置いておきたいものがある。僕の座右に置く本の典型は、運指法が記されたバイオリンの本やエクセル関数のガイドブックですね。僕の書いている本の中にも大きく分けて2つある。半ば辞書的な役割を狙った「日経新聞の歩き方」なんていうのは座右に置いておいてほしい。そういう本については電子書籍はものすごくいいと思います。経済データ集が総務省から出ているんだけれど、無料でPDFで落とせるわけです。データの類はいつ参照するかわからないから座右に置いておきたい。いわゆるデータベース的なものはやっぱり絶対、電子に限ります。

イディオム辞典、文字ベースのデータベース


――今後の著作についての構想を教えていただけますか?


角川総一氏: いくつかの軸はあるんだけど、経済の良質な辞書を出したいですね。単語レベルの辞書じゃなくてイディオム集。だってみんな経済がわからないということは、経済について述べられた文章がわからないということでしょう。例えば「TPPの参加によって日本の農業のコストが上がらざるを得ない」とか、「円高で日本の長期金利が若干下がる」「日本のインフレで円安圧力がかかる」とかというフレーズがあったらね、言葉一つ一つは難しい言葉じゃないにもかかわらずわからない。なにがわからないかと言ったら、その行間に沈んでいる意味、関連性がわからないわけです。だから僕は経済イディオム辞典を作る準備をしています。文字があって、単語があり、その次にイディオムがあり、コンテキスト、短文があり、それで初めて長文がわかるわけでしょう?単語の辞典はあるけどイディオム辞典がないわけですよ。フレーズになるとわからないようなものを集める。それからWEBクリエを利用して常に最新のデータが反映される経済グラフ集の電子本を計画中です。僕はそれほど高度なことはできないから、初級から中級位の、為替に関する章とか、マクロ経済の章とか、学習する前の自分と学習した後の自分とが明らかに違うんだということが確認できるものにしたいですね。数字ベースでのデータベースじゃなくて、文字ベースでのデータベースというものを作っていけると思っています。

――最後に、今仕事に悩んだり、成長したいと考えているビジネスマンの方々に、アドバイス、メッセージをお願いします。




角川総一氏: 今の若い人はもっと甘えてもいいと思います。先輩っていうのはどこかで甘えてくれることを期待しているんです。「あいつ、あそこまで僕を頼って甘えてくれるからちょっと教えなきゃいかんな」とか。いい意味で甘える人間でなきゃ伸びない。わからなかったら途中でギブアップして、「ちょっと頼みますわ」って言ったらいいんです。何が何でも最後まで「自分で責任持って調べなきゃいけない」とか、「人に聞いたらいけない」とか、それはダメだと思いますね。自分の経験からいうと、たくさんの人と付き合って色んなことを教わったというのは、何ものにも代えがたいですね。それがなかったら今の自分はないです。だから、いい意味での甘えん坊になったらいいと思いますよ。

取材場所:日本出版クラブ会館

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 角川総一

この著者のタグ: 『経済』 『働き方』 『出版業界』 『音楽』 『取材』 『独立』 『知識』 『活字』 『勉強』 『楽器』 『苦労』 『甘えん坊』

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