金子達仁

Profile

1966年、神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部を卒業後、日本スポーツ企画出版社に入社。『スマッシュ』『サッカーダイジェスト』編集部勤務を経て、95年にフリーとなる。スペインに移住した96年、「叫び」「断層」が「Sports Graphic Number」に掲載され、その年の「ミズノ・スポーツライター賞」を受賞。97年には処女作「28年目のハーフタイム」が、一躍ベストセラーに。第二作「決戦前夜」もベストセラーとなり、稀代のノンフィクション作家として注目を浴びる。現在はサッカーに限らず、スポーツライター、ノンフィクション作家として活躍するほか、ラジオパーソナリティ、サッカー解説など多数メディアにも出演。08年からJFL所属のFC琉球のスーパーバイザーを務めるなど多方面で活躍している。

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「書く」という行為に強いこだわりはない


――執筆される場所にこだわりはありますか?


金子達仁氏: ないです。どこでも書きます。基本、雑誌社の人間で、月刊、隔週、週刊と全部やりましたが、屋外で記事を書くことも多いので、全く場所は選ばないです。でも、場所は選ばないけど、時間を選ぶ人間だと思っていましたね。

――「時間を選ぶ」とはどういうことでしょうか?


金子達仁氏: 夜12時まわらないと書けないと思いこんでいたんですけれども、子どもができて、それも壊れました(笑)。ちゃんと朝の9時ぐらいから書けるようになりました。

―― 金子さんは昔から文章を書くのが得意だったのですか?


金子達仁氏: 全くそんなことはないです。業界には大学でマスコミ研究会に入っていた人とかも多いですけど、それもない。実は「書く」っていう作業を面白いと思ったことは一度もないですし、書きたいと思って書いたことも一度もないんですよ。周りから書けって言われて仕方なくという感じです。もう本当に物書きとしてはあるまじき態度です(笑)。それに人が自分が書いたものを読んでいるっていうのを知ると、いたたまれなくなります。自分でも絶対に読み返さない。恥ずかしくて読めないんです。

――文章はあくまで表現の手段のひとつといった感じなのでしょうか?


金子達仁氏: テレビとかラジオでインタビューの仕事をやるのも楽しいですからね。しかもその後原稿を書かなくていいですから(笑)。人と会うことは好きですし、人が知らないことをのぞき見するのも好きなんですが、書くことにはこだわりのない人間です。本当に文章が好きな人、上手な方はほかにたくさんいらっしゃいますからね。

――スポーツ雑誌の出版社に就職されたのはなぜだったのでしょうか?


金子達仁氏: サッカーに人生をささげようと決めていましたから、サッカーにかかわれるならなんでもいいと思って、『サッカーダイジェスト』っていう雑誌を出している出版社に入った。ただそれだけなんです。卒業は1988年で、そのころはJリーグを作ろうという動きさえなくて、月刊誌でそのころの平均部数が2万部切って、廃刊寸前でしたね。

――88年といえば、日本の経済は上り調子の時ですね。


金子達仁氏: バブルど真ん中です。僕らの世代って、就職は「してやる」もんなんですよ。同期で証券会社に入ったやつなんか、4月入社で夏のボーナス150万とかもらっていました。僕も、就職はいつでもできるという考えがあったから、しばらく月給13万だけど、ダメだったらまた転職すればいいやっていう、なめた考えもあったんですよね。

――テニス専門誌の編集もされていますね。


金子達仁氏: サッカーの専門誌に書いていたんですが、サッカーに狂いすぎってことでテニスの専門誌に回されて、伊達公子さんを見たんです。あの時が自分から「書きたい」って思った最初で最後かもしれないですね。その時に彼女がすごく褒めてくれて、「俺っていけてる」と思って現在に至るというところです。書きたいからというより、褒めてもらえるし、みんなから求められているみたいなので書いてきたということですね。

サッカーが心のよりどころだった


――金子さんを夢中にさせたサッカーの出会いはいつでしたか?


金子達仁氏: 中1ですね。小学校6年生の途中まで神戸に住んでいたんですが、その時はサッカーはやっていなかった。6年生の3学期から横浜に住んで、横浜の中学校に進んだんですが、親から「絶対運動部に入らなきゃダメ」と言われたんですね。隣の家に住んでいたのが中学校のサッカー部のキャプテンで、そのころ校内暴力が激しい時代ですから、「あ、このお兄ちゃんがキャプテンをやっている部活に入ればいじめられない」っていう極めて消極的な理由でサッカー部に入ったんです。楽しくないし、才能もないし、サッカーにひかれるものはなかったんですけれども、1年生の終わりにそのサッカー部がつぶされることになったんですよ。僕が行っていた中学校ってたぶん横浜市で一番校庭が狭い中学校だったんですが、バレー部が全国大会3位になったのでバレーコートを拡張しようという動きが出たんです。しかもサッカー部の顧問が情けない人で、それをあっさりと承諾してしまって、つぶされることになっちゃったんですね。それでサッカーがそんなに好きでもなかったのに、がぜんサッカー愛が燃え上がって、同級生とクラブチームを作ることになった。怖い先輩もいない、球拾いもしなくていい、なにより試合に出られる環境で、めちゃくちゃサッカーにはまったんですね。

――学校の勉強は得意でしたか?


金子達仁氏: 自分では優秀だと思っていたんですけど、横浜と神戸って授業のカリキュラムが違っているんですね。神戸では「賢い金子君」で、「お前灘中行くんやろ?」「いやいや、受験とか考えたことありませんわ」とか言っていたのが、横浜に来たら神戸でまだやっていない内容がすでに終わっている。人生で初めて勉強がわからなくてパニックになって、あっという間に成績が落っこちたんですよ。それを中学に入っても立て直すことができなかった。僕には弟と妹がいるんですが、学歴的に非常に優秀なんです。弟は横浜に行った時は小学校1、2年生で、洗礼を浴びることなくすくすくと育ち、神奈川の栄光学園というところに入り、東大法学部に行った。で、妹は医者になった。弟が4つ下だったんで、僕が就職したのと、あいつが東大に入ったのが一緒なんですよ。



で、親せきが、おめでとう会をやってくれるっていうので行ったら、全員弟に「おめでとう」って行きましたから(笑)。僕はアディダスも嫌いなんです。プーマはルドルフ・ダスラー、アディダスはアドルフ・ダスラーの兄弟が作って、アディダスが弟なんです。弟の方がでかいってことで、ひたすらアディダスを憎悪していました(笑)。今は笑えますけど、20代、30代のころって、弟と妹の存在が僕にとってはほとんどタブーでしたね。

――横浜への転居が人格形成に決定的な影響を与えたわけですね。


金子達仁氏: そのころ思っていたのが、「学校が変わったのは親の転勤で、俺のせいじゃない。俺は優秀なのに、親がばかだから、親が会社員だからこんな目にあっている」ということでした。同時に、そのころのワールドカップで、僕にとってのスーパースターは78年のマリオ・ケンペスなんですけれど、マリオ・ケンペスがやっている熱狂的なサッカーの世界がある一方で、この国では芝生は茶色くて、日本リーグに1500人しか入れない。これは日本がばかだからだと。つまり自分の人生のうまくいかなさと日本サッカーの当時の不遇さをダブらせて、より入れ込んだところもありましたね。でも今考えると、これってオウムの論理と一緒なんです。「自分は優秀なのに、社会が間違っている。だから社会を破壊しなければ」と。オウムの信者たちがよく読んでいたといわれる、平井和正さんとかも、僕はなめるように読んでいましたから。サッカーがなかったら、僕、鉄板でオウムだったと思います。すべてサッカーのおかげですよね。

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この著者のタグ: 『スポーツ』 『ライター』 『子ども』 『表現』 『子育て』 『手段』 『サッカー』

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