自分に限界を作らず、「面白いこと」に身を委ねていく
スポーツライターの金子達仁さんは、サッカーを中心に様々なスポーツを取材し、執筆はもちろんテレビ出演などで幅広く活躍しています。また、沖縄のサッカークラブチーム「FC琉球」のスーパーバイザーを務め、ライターとして培った見識をチーム運営に生かしています。先ごろお子さまが誕生し、私生活のみならず仕事にも大きな変化があったという金子さんにお話を伺いました。
子育てで「劇的な変化」が起こっている
――早速ですが、近況を伺えますか?
金子達仁氏: ひたすら子育てです。仕事を放り出して、子育てに没頭しております。
――ご誕生からどれくらいになりますか?
金子達仁氏: 4ヶ月ぐらいです。
――お子さまが生まれてから、やはり心境の変化は大きいですか?
金子達仁氏: もう全面的に変わりましたよね。僕の中の男というか、オスは死にました。もうキャバクラへ行きたいとか合コンに行きたいとか、そういう欲求はゼロ。こんなに弱くって無防備な子どもが家にいると思うと、もう遊んでいる場合じゃないですよね。自分の中に子どもをかわいいと思う気持ちがあるなんて思っていなかったんでビックリしました。前は犬を3匹飼って溺愛していたんですけど、決定的に気づかされたのは「犬は笑わない」ってことです。人間は笑いますからね。
――ではお好きなマージャンも?
金子達仁氏: マージャンを覚えてからの人生において、今が1番やっていないと思います。もう半年以上やっていない。パチンコも行っていないですしね。
――生活のリズムもすっかり変わりましたか?
金子達仁氏: そうですね。うちはミルクと母乳混合なんで、ミルクを3時間おきにあげているんです。おなかが減ると泣きますから、昼夜問わず。まさか、こんなに自分が寝不足に耐えられるとも思っていなかったです。普段の格好も赤ちゃんを抱っこしやすいようにジャージです。この前、久しぶりに先輩や後輩たちと飲んだんですけど、「なんだ、その高校体育会のような服装のダサさ、その目の鋭さのなさは」って言われましたね。
――書かれる文章にも変化が出てきたりもするのでしょうか?
金子達仁氏: 今までは自分の趣味でやっていましたからね。まあ、「辛口ライター」って言われていたころには戻れないでしょう。かつての僕を知る人からは「なんだあいつは」って言われてもしょうがないなぁと思うぐらい、自分の中で劇的な変化が起こっています。昔の僕の書いたものが好きだった人には、ごめんなさいと言うしかないです(笑)。
ガラケーと親指変換、「機械とは相性が悪い」
――本を読むことに関しては変化がありましたか?
金子達仁氏: 読書は相変わらず週3~4冊ぐらいは読んでいます。僕は出張がありますから。今日も沖縄から帰ってきたんですけれども、飛行機で2時間半ですから文庫本1冊、行き帰りで2冊は読めます。あとは日常で1冊か2冊。それで週3~4冊っていうペースですね。
――本はどこで買われていますか?
金子達仁氏: 基本、羽田空港か東京駅の本屋さんでポップを見て買います。
――電子書籍は利用されていますか?
金子達仁氏: そもそも、iPad系を一切持っていないので使ったことがないですね。携帯も、ご覧いただいて、一目瞭然なんですけど、いまだにガラケーです(笑)。
――スマートフォンを使わないことに何かこだわりがあるんですか?
金子達仁氏: 買ったはいいけど、面倒くさくてイヤになっちゃったんです。かける時に暗証番号を押すっていう、あの手間がイヤになって2日でやめました。まあ、要するに機械系が全くダメなんですね。
――勝手なイメージかもしれませんが、ちょっと意外です。
金子達仁氏: 機械とは相性も悪くて、初めて買ったビデオデッキはベータでしたし、ワープロは富士通の親指変換っていうので覚えちゃって、パソコンへの移行は著しく遅れました。実はいまだに親指変換しか使えないんです。富士通自体が親指変換キーボード自体をなかったことにしているのに(笑)。青山にある専門店がほそぼそハンドメイドで作ってくれているので、それを3つ4つ買い置きして使っています。
――では親指変換の生産が完全に終了したら…
金子達仁氏: そうなったら廃業です(笑)。「今から韓国語で原稿書け」って言われるぐらいつらいかもしれない。でも僕らの世代では、親指変換が日本語をキーボードで打つには一番だと言われていて、出版社のほとんどは親指変換のワープロから入っているんですよ。どんどん世の中が変わっていったので仕方なく転向して行きましたけど、僕は転向できなかった。21世紀の共産党支持者みたいな感じですね(笑)。
「書く」という行為に強いこだわりはない
――執筆される場所にこだわりはありますか?
金子達仁氏: ないです。どこでも書きます。基本、雑誌社の人間で、月刊、隔週、週刊と全部やりましたが、屋外で記事を書くことも多いので、全く場所は選ばないです。でも、場所は選ばないけど、時間を選ぶ人間だと思っていましたね。
――「時間を選ぶ」とはどういうことでしょうか?
金子達仁氏: 夜12時まわらないと書けないと思いこんでいたんですけれども、子どもができて、それも壊れました(笑)。ちゃんと朝の9時ぐらいから書けるようになりました。
―― 金子さんは昔から文章を書くのが得意だったのですか?
金子達仁氏: 全くそんなことはないです。業界には大学でマスコミ研究会に入っていた人とかも多いですけど、それもない。実は「書く」っていう作業を面白いと思ったことは一度もないですし、書きたいと思って書いたことも一度もないんですよ。周りから書けって言われて仕方なくという感じです。もう本当に物書きとしてはあるまじき態度です(笑)。それに人が自分が書いたものを読んでいるっていうのを知ると、いたたまれなくなります。自分でも絶対に読み返さない。恥ずかしくて読めないんです。
――文章はあくまで表現の手段のひとつといった感じなのでしょうか?
金子達仁氏: テレビとかラジオでインタビューの仕事をやるのも楽しいですからね。しかもその後原稿を書かなくていいですから(笑)。人と会うことは好きですし、人が知らないことをのぞき見するのも好きなんですが、書くことにはこだわりのない人間です。本当に文章が好きな人、上手な方はほかにたくさんいらっしゃいますからね。
――スポーツ雑誌の出版社に就職されたのはなぜだったのでしょうか?
金子達仁氏: サッカーに人生をささげようと決めていましたから、サッカーにかかわれるならなんでもいいと思って、『サッカーダイジェスト』っていう雑誌を出している出版社に入った。ただそれだけなんです。卒業は1988年で、そのころはJリーグを作ろうという動きさえなくて、月刊誌でそのころの平均部数が2万部切って、廃刊寸前でしたね。
――88年といえば、日本の経済は上り調子の時ですね。
金子達仁氏: バブルど真ん中です。僕らの世代って、就職は「してやる」もんなんですよ。同期で証券会社に入ったやつなんか、4月入社で夏のボーナス150万とかもらっていました。僕も、就職はいつでもできるという考えがあったから、しばらく月給13万だけど、ダメだったらまた転職すればいいやっていう、なめた考えもあったんですよね。
――テニス専門誌の編集もされていますね。
金子達仁氏: サッカーの専門誌に書いていたんですが、サッカーに狂いすぎってことでテニスの専門誌に回されて、伊達公子さんを見たんです。あの時が自分から「書きたい」って思った最初で最後かもしれないですね。その時に彼女がすごく褒めてくれて、「俺っていけてる」と思って現在に至るというところです。書きたいからというより、褒めてもらえるし、みんなから求められているみたいなので書いてきたということですね。
サッカーが心のよりどころだった
――金子さんを夢中にさせたサッカーの出会いはいつでしたか?
金子達仁氏: 中1ですね。小学校6年生の途中まで神戸に住んでいたんですが、その時はサッカーはやっていなかった。6年生の3学期から横浜に住んで、横浜の中学校に進んだんですが、親から「絶対運動部に入らなきゃダメ」と言われたんですね。隣の家に住んでいたのが中学校のサッカー部のキャプテンで、そのころ校内暴力が激しい時代ですから、「あ、このお兄ちゃんがキャプテンをやっている部活に入ればいじめられない」っていう極めて消極的な理由でサッカー部に入ったんです。楽しくないし、才能もないし、サッカーにひかれるものはなかったんですけれども、1年生の終わりにそのサッカー部がつぶされることになったんですよ。僕が行っていた中学校ってたぶん横浜市で一番校庭が狭い中学校だったんですが、バレー部が全国大会3位になったのでバレーコートを拡張しようという動きが出たんです。しかもサッカー部の顧問が情けない人で、それをあっさりと承諾してしまって、つぶされることになっちゃったんですね。それでサッカーがそんなに好きでもなかったのに、がぜんサッカー愛が燃え上がって、同級生とクラブチームを作ることになった。怖い先輩もいない、球拾いもしなくていい、なにより試合に出られる環境で、めちゃくちゃサッカーにはまったんですね。
――学校の勉強は得意でしたか?
金子達仁氏: 自分では優秀だと思っていたんですけど、横浜と神戸って授業のカリキュラムが違っているんですね。神戸では「賢い金子君」で、「お前灘中行くんやろ?」「いやいや、受験とか考えたことありませんわ」とか言っていたのが、横浜に来たら神戸でまだやっていない内容がすでに終わっている。人生で初めて勉強がわからなくてパニックになって、あっという間に成績が落っこちたんですよ。それを中学に入っても立て直すことができなかった。僕には弟と妹がいるんですが、学歴的に非常に優秀なんです。弟は横浜に行った時は小学校1、2年生で、洗礼を浴びることなくすくすくと育ち、神奈川の栄光学園というところに入り、東大法学部に行った。で、妹は医者になった。弟が4つ下だったんで、僕が就職したのと、あいつが東大に入ったのが一緒なんですよ。
で、親せきが、おめでとう会をやってくれるっていうので行ったら、全員弟に「おめでとう」って行きましたから(笑)。僕はアディダスも嫌いなんです。プーマはルドルフ・ダスラー、アディダスはアドルフ・ダスラーの兄弟が作って、アディダスが弟なんです。弟の方がでかいってことで、ひたすらアディダスを憎悪していました(笑)。今は笑えますけど、20代、30代のころって、弟と妹の存在が僕にとってはほとんどタブーでしたね。
――横浜への転居が人格形成に決定的な影響を与えたわけですね。
金子達仁氏: そのころ思っていたのが、「学校が変わったのは親の転勤で、俺のせいじゃない。俺は優秀なのに、親がばかだから、親が会社員だからこんな目にあっている」ということでした。同時に、そのころのワールドカップで、僕にとってのスーパースターは78年のマリオ・ケンペスなんですけれど、マリオ・ケンペスがやっている熱狂的なサッカーの世界がある一方で、この国では芝生は茶色くて、日本リーグに1500人しか入れない。これは日本がばかだからだと。つまり自分の人生のうまくいかなさと日本サッカーの当時の不遇さをダブらせて、より入れ込んだところもありましたね。でも今考えると、これってオウムの論理と一緒なんです。「自分は優秀なのに、社会が間違っている。だから社会を破壊しなければ」と。オウムの信者たちがよく読んでいたといわれる、平井和正さんとかも、僕はなめるように読んでいましたから。サッカーがなかったら、僕、鉄板でオウムだったと思います。すべてサッカーのおかげですよね。
テレビでしゃべることになるとは夢にも思わなかった
――Jリーグも開幕して、サッカーのライターとして一躍注目されることになりましたね。
金子達仁氏: 大学を卒業した段階では、日本にJリーグができるなんて思っていないですから「俺は誰からも注目されないけど、面白いサッカーの世界でほそぼそと生きていくんだろうな」っていう覚悟はありました。自分程度の人間が何をやったって、東大法学部とは勝負のしようがないですから。自分が好きな道に逃げ込んだ。それが今、スポーツノンフィクションが売れて、スポーツライターが金になるって思ってもらえるようになったのはちょっと信じられないような気もします。
――それまでになかったこととして、金子さんはテレビの実況席で解説するライターであるということが挙げられますね。
金子達仁氏: 僕が会社に入った当時も、時々ワールドカップやトヨタカップが日本で放送されていましたけど、解説をするのは100%、元日本代表選手かセルジオ越後だったわけです。ですからまさか自分もそこでしゃべるようになるとは夢にも思わなかった。今スポーツライターがサッカーの試合でしゃべるのはごくごく当たり前になりましたが、プロ野球の解説は今もみんなプロですからね。
――確かに野球界に金子さんのような方はいませんね。そう考えると、スポーツ界で誰も行っていなかったことをされているのですね。
金子達仁氏: ただ自分で語り出した時点で、終わりだと思うんですよね。目標がなくなって、後ろを振り返るしかなくなったら「俺が作ったんだ」って自慢を垂れながら生きて行こうと思いますけど(笑)。
――ところで、ひとつ気になっていたのですが、金子さんは解説のお立場でも肩書が「ゲスト」となっていますね。何か理由があるのでしょうか?
金子達仁氏: ちっちゃなこだわりなんです。スポーツって、娯楽だと思っているんですよ。「解説」、「解いて説明する」必要はない。教育テレビっぽいじゃないですか。それがすごく嫌いなんですね。それに解説というと、どうしてもサッカーコーチとかサッカーマニアに対してしゃべりたがる傾向があるじゃないですか。松木安太郎さんを除いてですが(笑)。やっぱりサッカーは娯楽だと思っていますから、僕も楽しむし、ご覧になっている方も楽しんだり突っ込んだり、一緒に騒ぎましょうっていう感覚なんですね。
――注目が増すに連れて、書かれたことや話されたことへの批判も増えるのではないですか?
金子達仁氏: はじめはサッカーダイジェスト時代、当時26歳くらいかな。オフト監督の指揮をダメだと書いたことがあったんですが、その時に、「何様だ」っていう意見がものすごい数来ました。でも賛否両論にさらされるのは慣れていますし、耐性は普通の人よりあると思います。それに、賛否両論なくして、オピニオンを出す意味はないと思っているんですね。賛成ですっていう意見であれば、ただ手を挙げるだけでいいじゃないですか。
アジアのパワーを沖縄に取り込む
――さて、金子さんの新しい試みとして、沖縄のクラブチーム「FC琉球」のスーパーバイザーをされていますね。
金子達仁氏: はい。FC琉球のフロントとして昨日は沖縄に行って試合を見て、監督とちょっと酒を飲んで、これからどうしようか、というような話をしてきました。
――これからのチームの課題はどういったところにありますか?
金子達仁氏: 今は3部リーグですから、全く無名の存在ですけれども、公開前のヤフー株Yahoo!株だと思っていただければ(笑)。もちろんJFLのチームはJ2に上がるのが夢ですし、J2のチームはJ1に上がるのが夢ですけど、僕らはまず、日本一の人気チームにしたい。そのためにはどうしたらいいかっていうのを逆算して色々やっていこうと思っています。
――よろしければ、その方法を少し教えていただけますか?
金子達仁氏: 日本の金だけで勝負すると、レッズやガンバにはかなわないので、アジアのお金を引っ張ってこようとしているんですね。Jリーグって、全部日本の企業に運営されているじゃないですか。でも、沖縄には地場産業がないですから、絶対に勝負できない。なので、海外の資本を入れる。例えば、三浦知良がイタリアに行ったおかげで、日本人がイタリアのサッカーを見るようになった。今まで日本でプレーしたことのないアジアの選手を日本に連れてきて、そのアジアのお金と感心を引っ張ることをやっていこうと思っています。地方のチームが日本国内で40億、50億を集められるわけがないんですが、日本の経済は停滞してもアジアの経済は上がっていきますから、それを根こそぎ頂いちゃおうかなと。強いチームにするにはまず資金が必要ですから。GDPで中国に抜かれて3位になりましたが、インドのお金とか人口を引っ張ってきたら、中国の13億人をはるかにしのぐマーケットができます。不景気だからダメだっていう空気が、サッカー界にもものすごくあるんです。Jリーグができたころだって、経済的なバブルは終わっていたわけですが、サッカー界が感じている景気、勢いは今と比べて100:1ぐらいな感じがするんですよ。誰一人大物を連れて来ないですから。そこもぶっ壊したいですよね。その可能性は沖縄にだけあると思います。
沖縄には世界的クラブチームの土壌がある
――沖縄にその可能性を見いだした、要因はどういったことですか?
金子達仁氏: 僕はプロスポーツが成功する一番の要因は、地域に対するロイヤリティーとか熱狂だと思っています。沖縄は高校野球の視聴率が90%を超える県で、しかも沖縄の人口が130万人で、那覇から半径20km圏内に80万人、人口密度は横浜市より上なんです。この人たちが一気に熱狂する。宮里藍ちゃんが勝つと、空港に垂れ幕が出ますし、内地ではほとんど誰も関心を持っていないですけど、bjBJリーグっていうバスケットのプロリーグの沖縄チームが非常に強くて、勝つ度に新聞の一面です。もし、Jリーグで勝つ沖縄を演出できた時にはえらいことになる。
僕はバルセロナに住んでいましたけれども、バルセロナの熱狂なんか勝負にならないぐらい沖縄は熱いです。それから、ほかの地方では、地元は盛り上がっても日本のニュースになることはないと思うんですよ。沖縄くらい地方都市の中で、良くも悪くも全国紙の新聞の1面を飾っている県ってないと思うんですよね。その関心を生かしたいと思います。沖縄からの移民はハワイにもたくさんいるし、南米にもたくさんいるので、その人たちをも熱狂させて、あこがれるチームにしていきたいですね。
――金子さんご自身の、クラブチームに携わられることの目的やモチベーションはどういったことですか?
金子達仁氏: 単純に、面白そうだからとしか言いようがないですね。基本的に物書きは口先番長なわけじゃないですか。無責任な立場からえらそうなことを言って、外れても知らんぷりという部分はあるんです。でも信念を持って正しいと思って言っていることもいっぱいあるわけです。これまで、「こうすれば強くなる」とか、「だからダメなんだ」って色々書いてきましたから、それがウソかホントか、口先番長じゃないところを証明したかったというところも自分の中ではあります。でも基本はやっぱり、面白そうだからですよ(笑)。
――最後に、金子さんが今までにないジャンルを作り、新しいことにチャレンジし続けてこられたのはなぜだと思いますか?
金子達仁氏: 陳腐な言い方になるけど、「Impossible is nothing」ってことなんだろうと思います。不可能なことなんて何もない。アディダスのCMのコピーでしたけど(笑)。一番いけないのは自分で限界を決めちゃうことなんだなっていうのは思いますね。面白いことには素直に身を委ねようというのが、40歳半ばになって確信を持てるようになってきました。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 金子達仁 』