厳格な母の教え「一人で生きていける力を」
――石渡さんは経営者の家庭で育ったわけですが、子どものころはどのような教育を受けていましたか?
石渡美奈氏: 中学に入るまでは特に母が厳しくて、特にあいさつにはうるさかったです。子どもらしく元気に気持ちのいいあいさつをしないと、やり直しをさせられる。例えば朝ボーッと「おはよう」と言うと、「元気よく『おはようございます』と言いなさい」とか、「いただきます」、「ごちそうさま」もそうでした。例えば改札で切符を切ってもらっても、「ありがとうございます」を言わないと叱られました。いつも手取り足取り厳しくしつけられていました。
生活のリズムにも厳しかった。学校から帰ったら夕ごはんまでピアノの練習をして、弾き方が悪いとピシッと手をたたかれたりして、夕ごはんの後は部屋に入ってお勉強。小学校のころは9時ぐらいには寝かされて、テレビもほとんど見せてもらえませんでした。
――そのころから将来は会社を継ぐという意識はありましたか?
石渡美奈氏: 小さな時から祖父母の家に行っていたので、物心ついた時にはうちが商売をやっているということはわかっていて、子どもながらに「私は一人っ子だから、私が継がないとやる人がいないな」と思っていました。ただ、親からは一度も「継ぐ、継がない」ということは言われたことはなかった。これもおそらく両親の教育方針で、無理して型にはめるのは本当の幸せではないと思っていたんだと思います。
母は薬剤師になってほしかったようです。何があっても食いっぱぐれがないだろうと(笑)。母がずっと言っていたのは、「女も手に仕事を持つべきで、何があっても一人で生きていける力をつけなさい」ということでした。あの時代にしては考え方が進んでいたように感じます。
――反抗期のようなものはありませんでしたか?
石渡美奈氏: それが、あまりないんです。無駄に反抗してもおっかなくて面倒臭いとか思ったのかもしれないですね(笑)。私が2歳とか3歳のころ、何かで私がだだをこねて、「そんなにだだをこねるんなら、ずっとそこに寝ていないさい」と言われて、私、本当にアスファルトの上に寝たらしいです。その時に、「この人に反抗しても無駄だな」と思ったのかもしれません。でも唯一反抗したのが体操教室ですね。教育ママだったので、色んなおけいこをやらせてもらっているんですが、体操教室だけは本当に嫌で、泣いて抵抗してなんとか辞めさせてもらいました。
お嬢さま学校と体育会で学んだこと
石渡美奈氏: 中学と高校は田園調布雙葉に通ったんですが、6時40分に電車に乗らないと8時15分の始業には間に合わなかった。父は、日本の経済が成長している時で、また飲料のお仕事なので、夜中まで仕事をして家に帰って来るのは明け方。父のライフサイクルと私のライフサイクルはもう完全に逆だったので、結局高校を出るまでは母と2人でいることが長い生活でした。それでも、母が父のことを悪く言うことは一切なかったので、特に疑問も持たず、そういうものだと思っていましたね。
――中学・高校ではどのような生徒でしたか?
石渡美奈氏: 田園調布雙葉という学校は、カトリックの教えに則ったとても厳格な学校です。制服はセーラー服で、セーラー服の角にいかりマークが刺しゅうされているんですけど、このいかりマークに髪の毛が届いたら結ぶという校則でした。もちろんパーマなんかもってのほかです(笑)。ソックスから何から何まで決められたものしか身につけることはできない。学校帰りの立ち寄りも絶対にダメで、見つかろうものなら始末書、親まで呼び出されました。でもいい意味で自主自立を教える学校でもあって、任せるところは生徒に任せる。生徒会なども、自分たちで企画をして、運営をしていく。文化祭にグループで発表したり、合唱コンクールをマネジメントするなど、いろいろな経験をしました。
だからお嬢さま学校なんですけれど、一般的に抱かれるイメージとは異なり、意外にたくましい女子が育ちます。今、経営者になって、田園調布雙葉で受けた教育が私のマネジメントベースになっていると感じることがいっぱいある。例えば雙葉の校訓は、「徳においては純真に 義務においては堅実に」なんですけれど、この教えこそまさに経営の精神そのものだと。社会貢献を言い表しているのはまさにこの言葉だと思います。だから母校は、実は良い経営者を育てる学校だったと、今にして思います。
――大学は立教に進まれますね。
石渡美奈氏: 女子大に行くか共学に行くかの選択になって、共学の立教を選びました。それで、スキーのクラブに入ったんです。中学、高校が遠かったために朝練とか夕方遅くまで練習のある運動部に入れなかったというのが1つ心残りで、学生時代にしかできない経験を大学時代で経験しなかったら、もう二度と経験できないと思った。スキーは趣味で行っていて楽しいと思いました。高校の先輩もいらしたので立教大学アルンダー基礎スキークラブに入りました。
でも、これがまたとんでもないクラブだった。一応サークルなんですけど、実態は体育会です。学生スキー岩岳という有名な全国大会がありますが、オリンピック選手になるような人がいる日体大とか北大を差し置いて全国3位に輝く先輩とかがいたクラブです。入部を決めた後に「うわあ、えらいこっちゃ」と思いました。週3回トレーニング、15時から17時が陸上トレーニングで、その後は先輩たちと一緒に飲みに行かなきゃいけない。1年生は怒られて正座させられても、正座が終わった後、誰よりも早く着替えてお店に行って飲み物を頼んで先輩を待つ。夏は山にこもって1週間、トレーニングで、冬は12月の半ばに山に入って、試験の時にチョロっと帰ってくるのみで、3月まで山を転々と移動する生活。滑走日数70日とか80日、3月25日に車山で大会が終わるまではずっと山生活といった感じでした。
「逃げている自分」はごまかせない
――厳しい環境から逃げたいと思われたことはありませんでしたか?
石渡美奈氏: 思いました。ずっと脱走したかった。でも、父が自分の学生時代に燃焼しきれなかったことが、後悔だったと言ってくれました。娘に同じ思いをさせたくないからと言って止めるわけです。女子部員が少なかったこともあって、同期も退部を止めてくれた。でも反逆児だったので、練習を一生懸命しなくて、みんながどんどんうまくなっていくのに落ちこぼれていって、みじめで仕方がなかった。
ずっと優等生コースで来て、初めて自分が劣等生になる経験を味わった。でも、それを乗り越えようとはしないで、意固地になってどんどん心を閉ざしていきました。滑りを見ればわかるんです。後傾になっている。つまり気持ちが逃げている。逃げている自分が嫌だなと思いながら3年間が終わってしまった。そして引退を迎えました。同期はスキー検定の1級とか準指(スキー準指導員資格)を取っているんですが、私はその時点で何と2級すら取れていなかった。うちのクラブの基準では、2級は、初心者でも1年生の2月位までには取れる。それぐらいうまくなる部なのに、私は練習をしなかったから2級が取れないままでした。それが悔しくて、4年生の4月に一人で山に行って、アルバイトでお世話になっていた戸狩のスキー学校の先生にお願いして検定会を開いていただいて、2級を一人で取りました。
――大学時代のスキーから学んだことはどういったことでしょうか?
石渡美奈氏: 自分から逃げるとつらい、みじめな思いをするということです。それが誰のせいでもない、自分のせいだっていうことを誰よりも自分が一番知っている。それが苦しくてたまらなかった。だから、経営の道に入る時に何があっても自分から逃げないって決めました。実際、会社(ホッピービバレッジ)に入った後、大変なことだらけですが、すべてのことにきちんと正面から向き合えるようになったのは、学生時代のサークルでの体験があったからかもしれません。やはり、自分自身にはごまかせない。悔いの残らぬよう徹底してやり抜こうと思っています。
われわれのクラブはもともとOB会がしっかりしていたんですけど、SNSができてからより仲良くなって、「そろそろスキーに来たら?」と言われます。本当は行きたい。でも怖くて、その前にどこかでこっそり練習しようと思っています。これで皆と一緒に滑れたら、悔いはすべて清算されるような気がします。まだまだ一緒に雪上に立つ勇気が持てないのがちょっとダメですね。
――石渡さんにとって「壁」とは避けるものではないのですね。
石渡美奈氏: 自分から壁に突進しているような気がします。簡単に行ける道を知っていても、壁のある方を選ばないと気が済まないと言うか…。そうしないと成長できないと思うからです。私のことをよく知っていた人から「君は泣きながら成長する人だね」と言われたことがあります。壁に向き合って、乗り越えられなくて悩んで、どうすればよいのか、両親であったり先輩であったり師匠だったり、大学院に通ってみたり。教えていただきながら、1つ1つを全身全霊で受け止めて、学んで、血肉にしている感じです。でも全然まだまだです。本当にまだ実績のない新米社長ですから。
著書一覧『 石渡美奈 』