加藤典洋

Profile

1948年生まれ、山形県出身。 東京大学文学部仏文学科を卒業。国立国会図書館員、明治学院大学国際学部教授を経て、現職。 現代文学、文化表象、思想史、政治、歴史認識と幅広く発言する 1985年に『アメリカの影』(講談社)で著者デビュー、1997年『言語表現法講義』(岩波書店)で第10回新潮学芸賞、1998年『敗戦後論』で第9回伊藤整文学賞評論部門、2004年、『テクストから遠く離れて』と『小説の未来』で第7回桑原武夫学芸賞を受賞するなど、各種さまざまな賞を受賞している。 近著に『ふたつの講演――戦後思想の射程について』『3.11――死に神に突き飛ばされる』(岩波書店)など。

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良質な本を作るには「人」と「場所」が必要



文芸評論家の加藤典洋さんは、専門の現代文学をはじめ、社会思想、近現代史について、時として大きな議論を巻き起こす言論活動を展開。また、特撮映画やJ-POP等、サブカルチャーへの造詣も深く、その発言は常に注目の的となっています。加藤さんに、読書体験をはじめとした生い立ち、在学中に燃え盛った東大紛争のエピソード、評論活動を始められたきっかけ、そして電子書籍についてのお考えなどをお伺いしました。

人間が表現したものはすべて言論の対象



――早速ですが、お仕事の近況について伺えますか?


加藤典洋氏: 今は『新潮』に「有限性の方へ」という連載をしています。この二年半ほど考え続けている3.11以降の未来構想という大きな問題を扱った論考です。2年前、やはり雑誌連載をへて『村上春樹の短編を英語で読む』という本を出したのですが、ちょっと厚くなり過ぎた。値段も高くなってあまり売れなかった。それで今度は厚くない本にしましょうというので、編集者の人と話しあって足早なテンポで書いています。もう頭を使える期間もそれほど長くないでしょうから、仕事としてもこのあたりで最終コーナーに入るかなという気がある。来年で大学はやめます。今、やっている仕事で刺激を受ける人は見田宗介さん、あと柄谷行人さんの最近の仕事、ほかには吉本隆明さん、鶴見俊輔さん、かな。吉本さんの遺された仕事のことはつねに頭にあります。

――加藤さんの講義や言論活動は、文学だけではなく音楽や漫画などへの広がりがあります。これはどういった考えからでしょうか?


加藤典洋氏: 僕の大学でのゼミは文化表象一般、基本は何でもありです。昔の文学部の学生と違い、今だと音楽、映画、漫画などが好きな学生が多いです。すると考えなくとも、こうなる(笑)。全部人間によって表現されたという点では同じ。人間の手にかかるものなら何を扱ってもよいんです。
この間、音楽、Jpopの本をはじめて書いたのですが、これは大変でしたね。『耳をふさいで歌を聴く』っていう本です。小説や絵は1回見れば見た、読んだということになりますが、「音楽を聴く」というのは「何度も繰り返し聴くこと」なんですね。膨大な時間がかかります。それに音楽は、早回しができない(笑)。音楽の本質とは一体なんなのだろうと、いろいろと考えさせられました。

小学校で転校が5回、本が友達に


――加藤さんの幼少期についてお聞かせください。


加藤典洋氏: 幼少期? 弱ったな。プライヴェートな話になりますからね。子どもの時はいつもむっつりしていて、ムッソリーニと呼ばれていた(笑)。紙と鉛筆を与えておくと、いつも何か書いていつまでも一人で留守番をしている子どもだったようです。僕はいまも発音があまり良くないでしょう? 山形市の、教会付属の幼稚園の向かい側に住んでいたんですが、当時はベビーブームですごく子どもが多くてなんと入園試験がありました。で、僕は「さしすせそ」と「たちつてと」が上手く発音できなくて見事落第したんです。
そのまま小学校に進んだので、当初、世の中のしくみがわからなかったようです。最初に教室で給食費の集金のため並ばせられたとき、前の生徒が(お金を)「忘れた」というと怒られている、「家の都合で」というと怒られていないことに僕は気づいて、「家の都合で」と繰り返していたんです。そういうのが正しいと思ったんでしょう。さすがにおかしいと思った先生が私の兄を調べたらちゃんと支払っていた。次の日、皆の前で呼び出されて「ウソをついてはいけない」と公衆の面前でさんざん怒られました。これがトラウマになった。それから1年半くらい、教室では一言も話した記憶がありません。転校した後、別の学校で、さらに半年くらいしてから、はじめて自分から教室で手を挙げて発言をしたときのことをいまも覚えているんですよ。あげた手がふるえていましたね。

――お生まれは山形県ですね。


加藤典洋氏: 親が地方公務員だったので、僕は山形県内を小学校で5回、中学校で2回転校しています。はじめは小学2年の半ば位に初めて転校したしたのですが、教室の前に立って紹介される時の、緊張して嫌な感じはよく覚えていますね。一番の田舎に行ったのが小学校の6年の時の、尾花沢という雪が深いところ。女子サッカーの日本代表なでしこの佐々木則夫監督の出身地です。ここはすごかった。僕がいったのは、皇太子ご成婚という年で1959年です。町に一つある小学校で、その頃は生徒は皆坊主頭、学内で長髪の児童は僕一人でした。ガキ大将もいればいじめっ子もいる。友達もほとんどできなかった。その小学校6年の頃が生涯で一番本を読んだ時期かもしれません。

著書一覧『 加藤典洋

この著者のタグ: 『大学教授』 『アカデミック』 『仕組み』 『図書館』 『就活』 『学生運動』

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