国語教師に「あなたが間違っている!」
――どのような本を読まれていたのでしょうか?
加藤典洋氏: まず貸本屋に行った。そこで漫画を借りました。圧倒的に白土三平ですね、あとつげ義春、さいとうたかを。みなその頃は無名でしたが、あっというまに独力で発見してしまいました。すごい、面白い! って。特に白土三平の『忍者武芸帳』を読んだ時には、こんなに面白い漫画があるのかと身体がふるえるくらいでした。1日10円の小遣いで、めぼしいものを全部読み、読むものがなくなったので、次に講談社の『少年少女世界文学全集』を借り出しました。1日で読み切らなくてはいけないので食事の時間も惜しんでほぼ毎日読んでいましたよ。いま考えれば、こちらは小学校の図書室にもあったと思うんですけれどねえ(笑)。それからテレビが入ってきて、読書熱が少しさめた。小学校6年の時にテレビで『鉄腕アトム』を見ました。このころ、『少年マガジン』、『少年サンデー』が創刊されました。
それ以前は、月刊誌の時代なんですよ。近くの本屋さんと知り合いになって、毎月、5日くらいだったかな、『少年』や『少年倶楽部』『少年画報』『冒険王』などの発売日の前日に、午後から本屋で、夕方入荷する雑誌を立ち読みしながら何時間も待ち構えているんです。心臓をどきどきさせて。その町の本屋さんの匂い。いまでも僕は興奮しますね、これをかぐと。そういうのが週刊誌の時代になって消えました。
――学校ではいかがでしたか?
加藤典洋氏: 例の貸本屋での少年少女世界文学全集読破のあとは、ひとかどの自信家になってしまったんでしょう、中学校のときなど、試験の答案返却の答えの説明なんかで教師の「正解」と自分の答えが違うと、自分のほうが正しいと思っているもんですからね。よく「違うと思う」なんて手を挙げてからんでいました。教師は困ったやつと思ったでしょうね。
東大仏文を志望した理由とは?
――中学校、高校でもかなり読書はされていたんでしょうか?
加藤典洋氏: 中学校の時に、『モンテ・クリスト伯』を読むつもりで図書室に行って、間違って『ジャン・クリストフ』を借りてしまいました。でも読んでいったら面白くてそれからロマン・ロランとかヘルマン・ヘッセを読むようになります(笑)。すべてこのデンで、僕はいつも独学なんです。高校二年のときに家で取っていた文芸雑誌に連載されていた大江健三郎の『日常生活の冒険』という伊丹十三をモデルにした長編小説の一部を読んだら、信じられないくらい素敵だった。こんなに日本の現代小説って面白いのかとまず大江さんの追っかけになりました。白土三平と同じで、個人的な大発見なのです。その後は、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』と、奥野健男という文芸評論家の『文学的制覇』というたまたま県立図書館で見つけた本が指南役になって、ドストエフスキー、ニーチェなど外国の小説家、書き手と、倉橋由美子、島尾敏雄など日本の現代小説家を乱読していきました。ヌーボーロマンなんかにも凝って、完全に腰の軽い新しがり屋さんだったんです。東大なんて考えもしなかったんですが、大江つながりで東大の仏文に行こうかとなった。
――受験勉強は相当大変だったのではないですか?
加藤典洋氏: 3年の時に家が山形から鶴岡にまた引っ越しました。官舎のすぐ近くが丸谷医院という丸谷才一さんの実家にあたる渋い病院でした。でもそのときは僕は山形に残って高校の近くに下宿したんです。そこがすぐに悪友たちのたまり場になりました。僕は喫煙しませんでしたが彼らの吸うタバコの煙が染みついて、母が掃除しにやってくるときは、大変でしたね(笑)。文芸部なんていうところに入っていて、三年の秋までへんなものを書いては雑誌を出していたんです。でもむろんちゃんと受験勉強はしましたよ。夏休みなんかも学校にいって廊下に机を出してやるんです。汗をかいて。で、12月くらいに下宿を引き払い、実家に帰り、3ヶ月間みっちり勉強して、運もあって、東大には受かりました。一時限目の国語の試験になんと大江健三郎の朝日新聞への寄稿文が出たんですよ。64年の東京オリンピックのことを書いた文章でしたけど僕は全部スクラップしていましたからね。(笑)芸ハ身ヲ助クで楽勝でした。
著書一覧『 加藤典洋 』