東大入学直後「ヒッピー」の洗礼
――東大では、どんな学生生活でしたか?
加藤典洋氏: 7月にビートルズが来た66年に入学しましたが、時代が沸騰していました。まずやったことは女の子と付きあうこと? その女友達がいろいろと面白いところを知っていて、新宿の風月堂というヒッピーのような人が集まる喫茶店に連れて行かれ、僕もマネして入り浸ることにしました。それで1年目は、その流れでそのままフーテンになりましたね(笑)。新宿2丁目の地下2階に「LSD」という店があり、地下一階は、「DADA」という店でした。でも、楽しかったのは、次の年までで、このあとは学生運動の時代になります。暗くなるんです。駒場から本郷キャンパスに移った時に、学生がネクタイをしているのを見て、甚大なショックを受けました。雰囲気が全然違う。これはオレの来るところじゃない、と直観的に思い、家にいってやって1年間の自主休学を決めました。一年ヤスみたい、留年させてくれと。その頃、今もつきあいのある日大芸術学部の友達が、問題を起こし、停学になってそのまま大学をやめたんです。つきあっていた彼女とそのまま駆け落ちして大阪の釜ヶ崎へ行って住んだ。詩人だったんですが、釜が崎に詩人のやっている喫茶店があったんです。そこで造船所などの日雇いの労働の仕事をしていた。そこに転がり込んで寄宿しました。とんでもない話ですねまったく。別の悪友と二人で、寄生して徒食。数ヶ月遊んでいたら、大学の自治会から呼び出しがかかり、帰ったら、ストライキだったんです。
――東大紛争ですね。
加藤典洋氏: 僕は名前だけ貸して自治会の委員をやっていて、その自治会は反日共系で、日共系の民青との主導権争いが大変だったんです。それが68年。それより先、67年の秋が第一次と第二次の羽田闘争の年ですが、それまで僕は、完全なノンポリ、反政治的人間です。文芸関係のサークルに入っていて、一方ではフーテンですから。デモもやらないし、マルクスも読まない。ただ、ひょんなことから大学の門の前でクラスメートの活動家に誘われ、断ったら、「いや、明日のはこれまでのぬるいのとは全然違うゾ」としつこく勧誘された。それが10・8の羽田闘争でした。
紛争の最前線に投げ出される
加藤典洋氏: 次の日の新聞で、装甲車が燃えている空からの俯瞰写真を見て、山崎博昭という京大の学生が死んだのを知り、大きなショックを受けました。で、翌月、その前日、エスペランティストの由比忠之進さんが佐藤訪米に抗議して首相官邸の前で焼身自殺を図ったというニュースなどが大学の構内を震撼させたこともあり、10・11の第二次羽田闘争というのに参加した。それが僕のはじめてのデモ参加ですが、とんでもない目に遭いました(笑)。
――紛争のまっただ中に、入っていったんですね。
加藤典洋氏: その時のデモは、今考えると自分が参加した中で一番くらい激しいデモだったんですが、何も知らずに前から5列目位のところに並ばされたんです。2列目くらいまでは歴戦の勇士の活動家、その後ろに何もわからないノンポリが10列位並べられて、羽田空港を目指した。少しわかった連中は、いつでも逃げられるように、その後方についているんです(笑)。羽田空港の近くに大鳥居駅があります。ちょうど山崎君が死んだ場所あたりに橋があって、その近くまで行くと機動隊が壁になっていました。機動隊とぶつかって、歴戦の勇士たちは闘っている。こちらは非力でまったくのノンポリですから、逃げようと思って後ろを見たら、誰もいない。後続の電車は連結をはずしていた。(笑)それでだいぶ離れたところからこちらに向けて石を投げてくるんです。非力な学生が投げるので機動隊まで届かない。僕ら生け贄用の学生たちに当たってしまう。活動家の友人に「逃げるぞ」といわれ、後をついて民家の茶の間のようなところを土足で駆け抜けて逃げるのですが、どこまでも警察の人が追ってくるんですね。なかなかあきらめてくれない。するとその友達が、「お前は先に行け」と言って、立ち小便をしだしました。その友達は地下足袋を履いていて、立ち小便姿をみると、土方のお兄ちゃんなんです。この友人は、土方仕事のアルバイトもしていた。警察もまさか活動家が地下足袋を履いてるとは思わない。
流れの外で考える
加藤典洋氏: 僕は結局、一度も捕まっていません。実は、親が警察官だったので、捕まるわけにはいかなかったんです。その頃、どこでも大学闘争というのがさかんで、地方の都市の警察署長などの家には、正月には若い機動隊員が何人も挨拶に来るんです。そういうところで、僕がヒッピーまがいのうさんくさい格好をして家でゴロゴロしている。ときに、目があうわけです。「こいつは東京の大学生で、学生運動のようなのをやっているらしい」とみんな知っている。こういう人はみんな同年代で、だいたい農家の次男、三男という人たちなんですよ。いたたまれず、あとは、帰らなくなりました。
――東大紛争は安田講堂の陥落でクライマックスを迎えますが、その時はどこにいらっしゃったんでしょうか?
加藤典洋氏: 安田講堂の時も、前日まで中にいたんです。当時、高校の先輩が東大文学部の自治会委員長をしていたのです。彼は革マル(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義)派で僕はノンセクトでしたから、普段はあわないのですが、その時たまたま階段ですれ違ったら、「君は親父さんが警察だろう、明日はどうもやばそうなのでレポにまわれ」といってくれた。レポというのは外で警察の動きを監視して、その都度報告する役目です。それで、安田講堂の日はたまたま外にいた。で、捕まらないですみました。
――当時、学生運動についてどのようにお感じになっていましたか?
加藤典洋氏: 機動隊が東大の学内に入って来た時に機動隊員に向かって学生が「お前ら小学校を出たのか」といったんです。僕はその後ろに立っていました。僕の父親もノンキャリアです。家が破産して学業を途中でやめて巡査からはじめています。全共闘なんていってもこんなものだな、自分も含めてみんなバカなやつらだ、と思いながら、そこにいました。まあ、どこでも孤立していたといってよいでしょう。寺山修司などもそのはずですが、僕の周辺の文芸評論家とか物書きには、けっこう警察官とか自衛官の子どもという人が多いんですね。その理由は少しわかる。こういう人間は、人と一緒には感じられない。それで、自分一人で、流れの外で考えるようになるんです。
著書一覧『 加藤典洋 』