「野生化」したまま社会人生活スタート
――就職活動はどのような感じでしたか?
加藤典洋氏: 僕は、2年留年し、6年かけて卒業したのですが、大学院も落ちたし、新潮社、筑摩書房など、就職試験も全部落ちました。1972年で石油ショックのため募集が少なかった。その中で出版社を受けたのですが、筑摩は最終面接まで行ったものの、最後、口論めいたものになってしまってダメでした。
僕は面接がだめなんですね。受かる学生はそういう顔をしている、落ちる学生はそういう顔をしているというけれども、僕のばあいは完全に、暗くて、反抗的で、後者の顔でした。最後、国の図書館を受けた時に、ヤケ半分で履歴書の運動歴というところに「弓道」って書いたんです。ウソではない。高校1年の時に3ヶ月だけ弓道部に入り、夏休み前にやめたんです。面接者のなかに弓道をやっている役員がいて「君は何流かね」という。「いや、高校1年の時に3ヶ月だけ弓道部にいたが全然当たらないので辞めました。それで何流か、覚えてません」っていったら、面接の面々が呵々と笑った。それが就活の面接で笑いをとれた唯一の場面で、それで就職できたわけです。
――国会図書館ではどのようなお仕事をされたのでしょうか?
加藤典洋氏: でも、やはり人間修養ができておらず、入った後にもいろいろと問題を起こし、6年間単純労働をやらされました。働きはじめたのが1972年の4月です。二ヶ月前に連合赤軍事件があった。これには心底、参りました。4月になっても、朝起きられなかった。遅刻も多く、今考えると半分位、いや半分以上は僕が悪かった気がしますね(笑)。最初に配属されたのは「現場」といわれるところでしたが、そこの課長がエリートで、呼び出されたら、休憩室みたいなところで、「君は国立大のいいところからきている。僕の後輩でもある。で、ここには大卒の人は少ないからそのつもりで」などという。ところが僕はというと、タバコを吸ってその話をふんふんと聞きながら、吸いさしを床に捨てては足で踏みつぶしているんです。4年間学生運動をしているうちに完全に野生化していた(笑)。課長の顔つきがみるみる変わって、あ、そうかと気づいたのですが、完全に僕のほうがおかしかったわけです。
カナダ行き、そして評論家デビュー
――国会図書館に在籍しながら、カナダに行かれていますね。
加藤典洋氏: 僕は6年単純労働に明け暮れて、ほかにも色々と悪い事情が重なり、もう日本にいたくないと思ったのです。それで、78年、カナダでの仕事の募集があったのに希望を出して、それから向こうに3年半位いました。フランス語系の大学の研究所に図書館を作る仕事です。82年に帰ってきてからは、僕がカナダにいる間に就任した館長が、人間的の幅のある人で、更正の機会を与えてくれました。帰国してからほどなく、調査局というところに移って、外国の新聞記事のうち、日本に紹介されない重要な記事を翻訳して国会議員の閲覧に供するという仕事についていました。書庫から何冊でも本を持ち出せるわ、時間はあるわで、以前の仕事に比べたら天国みたいなところでしたね。あいている時間に調べ物をして、せっせと文章を書くようになりました。
――どのような文章を書かれていたのでしょうか?
加藤典洋氏: 当時、早稲田文学の編集委員に友人がいた関係で、ある特集が企画されたときに、田中康夫について書かないかという話がきたのです。僕は日本にいなかったので全然知らなかったんですが、河出書房新社から出た『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになったうえ、日本の文学世界で袋だたきにあっていたらしい。でも読んでみたらなかなか面白い。評価しているのは、江藤淳くらい。あとは完全否定のヒステリー状況。その周りの反応が面白いと思って書いたら、長くなった。20枚のはずが、長くなり、一回では足らず、次にも続きを載せるかたちになる。でも終わらない。編集委員たちも、さすがに無名で早稲田とも関係のない書き手にこんなに誌面を提供できないと判断して、最後には掲載をしぶったのですが、一回目が少し新聞で評判になったのと、あと、学生アルバイトの編集実務担当のY君という人が、この原稿を面白がって実務的にカバーしてくれたのとで何とか、4ヶ月で三度掲載させてもらい、200枚弱の原稿を発表しました。これが「アメリカの影」という、あとで最初の本になったものの前半の論なんです。
――『アメリカの影』は出版デビュー作でもありますね。
加藤典洋氏: これを書き終わった時、アメリカ人の友人と、東大出版会のインド系の女性編集者の友人と三人で京都の鶴見俊輔さんに会いに行ったら、「こういうものを、もう1つ書いたら本になりますね」とほめてくださった。鶴見さんとはカナダで知り合ったのですが、このときはじめてほめられた。うれしかったですね。で、やる気になって、その後、もう一つ書いて、本にしたのが『アメリカの影』です。そのもう一つを書くのに、二年ほどかかりましたが。当時学生の『早稲田文学』編集担当Y君のサポートと、鶴見さんの督励が僕を書き手にさせてくれたと思います。恩人ですね。特にY君には足を向けて眠れない。Y君はいまは出版人ですが、依頼があれば必ず引きうけることにしてるんです。(笑)
著書一覧『 加藤典洋 』