良質な本を作るには「人」と「場所」が必要
文芸評論家の加藤典洋さんは、専門の現代文学をはじめ、社会思想、近現代史について、時として大きな議論を巻き起こす言論活動を展開。また、特撮映画やJ-POP等、サブカルチャーへの造詣も深く、その発言は常に注目の的となっています。加藤さんに、読書体験をはじめとした生い立ち、在学中に燃え盛った東大紛争のエピソード、評論活動を始められたきっかけ、そして電子書籍についてのお考えなどをお伺いしました。
人間が表現したものはすべて言論の対象
――早速ですが、お仕事の近況について伺えますか?
加藤典洋氏: 今は『新潮』に「有限性の方へ」という連載をしています。この二年半ほど考え続けている3.11以降の未来構想という大きな問題を扱った論考です。2年前、やはり雑誌連載をへて『村上春樹の短編を英語で読む』という本を出したのですが、ちょっと厚くなり過ぎた。値段も高くなってあまり売れなかった。それで今度は厚くない本にしましょうというので、編集者の人と話しあって足早なテンポで書いています。もう頭を使える期間もそれほど長くないでしょうから、仕事としてもこのあたりで最終コーナーに入るかなという気がある。来年で大学はやめます。今、やっている仕事で刺激を受ける人は見田宗介さん、あと柄谷行人さんの最近の仕事、ほかには吉本隆明さん、鶴見俊輔さん、かな。吉本さんの遺された仕事のことはつねに頭にあります。
――加藤さんの講義や言論活動は、文学だけではなく音楽や漫画などへの広がりがあります。これはどういった考えからでしょうか?
加藤典洋氏: 僕の大学でのゼミは文化表象一般、基本は何でもありです。昔の文学部の学生と違い、今だと音楽、映画、漫画などが好きな学生が多いです。すると考えなくとも、こうなる(笑)。全部人間によって表現されたという点では同じ。人間の手にかかるものなら何を扱ってもよいんです。
この間、音楽、Jpopの本をはじめて書いたのですが、これは大変でしたね。『耳をふさいで歌を聴く』っていう本です。小説や絵は1回見れば見た、読んだということになりますが、「音楽を聴く」というのは「何度も繰り返し聴くこと」なんですね。膨大な時間がかかります。それに音楽は、早回しができない(笑)。音楽の本質とは一体なんなのだろうと、いろいろと考えさせられました。
小学校で転校が5回、本が友達に
――加藤さんの幼少期についてお聞かせください。
加藤典洋氏: 幼少期? 弱ったな。プライヴェートな話になりますからね。子どもの時はいつもむっつりしていて、ムッソリーニと呼ばれていた(笑)。紙と鉛筆を与えておくと、いつも何か書いていつまでも一人で留守番をしている子どもだったようです。僕はいまも発音があまり良くないでしょう? 山形市の、教会付属の幼稚園の向かい側に住んでいたんですが、当時はベビーブームですごく子どもが多くてなんと入園試験がありました。で、僕は「さしすせそ」と「たちつてと」が上手く発音できなくて見事落第したんです。
そのまま小学校に進んだので、当初、世の中のしくみがわからなかったようです。最初に教室で給食費の集金のため並ばせられたとき、前の生徒が(お金を)「忘れた」というと怒られている、「家の都合で」というと怒られていないことに僕は気づいて、「家の都合で」と繰り返していたんです。そういうのが正しいと思ったんでしょう。さすがにおかしいと思った先生が私の兄を調べたらちゃんと支払っていた。次の日、皆の前で呼び出されて「ウソをついてはいけない」と公衆の面前でさんざん怒られました。これがトラウマになった。それから1年半くらい、教室では一言も話した記憶がありません。転校した後、別の学校で、さらに半年くらいしてから、はじめて自分から教室で手を挙げて発言をしたときのことをいまも覚えているんですよ。あげた手がふるえていましたね。
――お生まれは山形県ですね。
加藤典洋氏: 親が地方公務員だったので、僕は山形県内を小学校で5回、中学校で2回転校しています。はじめは小学2年の半ば位に初めて転校したしたのですが、教室の前に立って紹介される時の、緊張して嫌な感じはよく覚えていますね。一番の田舎に行ったのが小学校の6年の時の、尾花沢という雪が深いところ。女子サッカーの日本代表なでしこの佐々木則夫監督の出身地です。ここはすごかった。僕がいったのは、皇太子ご成婚という年で1959年です。町に一つある小学校で、その頃は生徒は皆坊主頭、学内で長髪の児童は僕一人でした。ガキ大将もいればいじめっ子もいる。友達もほとんどできなかった。その小学校6年の頃が生涯で一番本を読んだ時期かもしれません。
国語教師に「あなたが間違っている!」
――どのような本を読まれていたのでしょうか?
加藤典洋氏: まず貸本屋に行った。そこで漫画を借りました。圧倒的に白土三平ですね、あとつげ義春、さいとうたかを。みなその頃は無名でしたが、あっというまに独力で発見してしまいました。すごい、面白い! って。特に白土三平の『忍者武芸帳』を読んだ時には、こんなに面白い漫画があるのかと身体がふるえるくらいでした。1日10円の小遣いで、めぼしいものを全部読み、読むものがなくなったので、次に講談社の『少年少女世界文学全集』を借り出しました。1日で読み切らなくてはいけないので食事の時間も惜しんでほぼ毎日読んでいましたよ。いま考えれば、こちらは小学校の図書室にもあったと思うんですけれどねえ(笑)。それからテレビが入ってきて、読書熱が少しさめた。小学校6年の時にテレビで『鉄腕アトム』を見ました。このころ、『少年マガジン』、『少年サンデー』が創刊されました。
それ以前は、月刊誌の時代なんですよ。近くの本屋さんと知り合いになって、毎月、5日くらいだったかな、『少年』や『少年倶楽部』『少年画報』『冒険王』などの発売日の前日に、午後から本屋で、夕方入荷する雑誌を立ち読みしながら何時間も待ち構えているんです。心臓をどきどきさせて。その町の本屋さんの匂い。いまでも僕は興奮しますね、これをかぐと。そういうのが週刊誌の時代になって消えました。
――学校ではいかがでしたか?
加藤典洋氏: 例の貸本屋での少年少女世界文学全集読破のあとは、ひとかどの自信家になってしまったんでしょう、中学校のときなど、試験の答案返却の答えの説明なんかで教師の「正解」と自分の答えが違うと、自分のほうが正しいと思っているもんですからね。よく「違うと思う」なんて手を挙げてからんでいました。教師は困ったやつと思ったでしょうね。
東大仏文を志望した理由とは?
――中学校、高校でもかなり読書はされていたんでしょうか?
加藤典洋氏: 中学校の時に、『モンテ・クリスト伯』を読むつもりで図書室に行って、間違って『ジャン・クリストフ』を借りてしまいました。でも読んでいったら面白くてそれからロマン・ロランとかヘルマン・ヘッセを読むようになります(笑)。すべてこのデンで、僕はいつも独学なんです。高校二年のときに家で取っていた文芸雑誌に連載されていた大江健三郎の『日常生活の冒険』という伊丹十三をモデルにした長編小説の一部を読んだら、信じられないくらい素敵だった。こんなに日本の現代小説って面白いのかとまず大江さんの追っかけになりました。白土三平と同じで、個人的な大発見なのです。その後は、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』と、奥野健男という文芸評論家の『文学的制覇』というたまたま県立図書館で見つけた本が指南役になって、ドストエフスキー、ニーチェなど外国の小説家、書き手と、倉橋由美子、島尾敏雄など日本の現代小説家を乱読していきました。ヌーボーロマンなんかにも凝って、完全に腰の軽い新しがり屋さんだったんです。東大なんて考えもしなかったんですが、大江つながりで東大の仏文に行こうかとなった。
――受験勉強は相当大変だったのではないですか?
加藤典洋氏: 3年の時に家が山形から鶴岡にまた引っ越しました。官舎のすぐ近くが丸谷医院という丸谷才一さんの実家にあたる渋い病院でした。でもそのときは僕は山形に残って高校の近くに下宿したんです。そこがすぐに悪友たちのたまり場になりました。僕は喫煙しませんでしたが彼らの吸うタバコの煙が染みついて、母が掃除しにやってくるときは、大変でしたね(笑)。文芸部なんていうところに入っていて、三年の秋までへんなものを書いては雑誌を出していたんです。でもむろんちゃんと受験勉強はしましたよ。夏休みなんかも学校にいって廊下に机を出してやるんです。汗をかいて。で、12月くらいに下宿を引き払い、実家に帰り、3ヶ月間みっちり勉強して、運もあって、東大には受かりました。一時限目の国語の試験になんと大江健三郎の朝日新聞への寄稿文が出たんですよ。64年の東京オリンピックのことを書いた文章でしたけど僕は全部スクラップしていましたからね。(笑)芸ハ身ヲ助クで楽勝でした。
東大入学直後「ヒッピー」の洗礼
――東大では、どんな学生生活でしたか?
加藤典洋氏: 7月にビートルズが来た66年に入学しましたが、時代が沸騰していました。まずやったことは女の子と付きあうこと? その女友達がいろいろと面白いところを知っていて、新宿の風月堂というヒッピーのような人が集まる喫茶店に連れて行かれ、僕もマネして入り浸ることにしました。それで1年目は、その流れでそのままフーテンになりましたね(笑)。新宿2丁目の地下2階に「LSD」という店があり、地下一階は、「DADA」という店でした。でも、楽しかったのは、次の年までで、このあとは学生運動の時代になります。暗くなるんです。駒場から本郷キャンパスに移った時に、学生がネクタイをしているのを見て、甚大なショックを受けました。雰囲気が全然違う。これはオレの来るところじゃない、と直観的に思い、家にいってやって1年間の自主休学を決めました。一年ヤスみたい、留年させてくれと。その頃、今もつきあいのある日大芸術学部の友達が、問題を起こし、停学になってそのまま大学をやめたんです。つきあっていた彼女とそのまま駆け落ちして大阪の釜ヶ崎へ行って住んだ。詩人だったんですが、釜が崎に詩人のやっている喫茶店があったんです。そこで造船所などの日雇いの労働の仕事をしていた。そこに転がり込んで寄宿しました。とんでもない話ですねまったく。別の悪友と二人で、寄生して徒食。数ヶ月遊んでいたら、大学の自治会から呼び出しがかかり、帰ったら、ストライキだったんです。
――東大紛争ですね。
加藤典洋氏: 僕は名前だけ貸して自治会の委員をやっていて、その自治会は反日共系で、日共系の民青との主導権争いが大変だったんです。それが68年。それより先、67年の秋が第一次と第二次の羽田闘争の年ですが、それまで僕は、完全なノンポリ、反政治的人間です。文芸関係のサークルに入っていて、一方ではフーテンですから。デモもやらないし、マルクスも読まない。ただ、ひょんなことから大学の門の前でクラスメートの活動家に誘われ、断ったら、「いや、明日のはこれまでのぬるいのとは全然違うゾ」としつこく勧誘された。それが10・8の羽田闘争でした。
紛争の最前線に投げ出される
加藤典洋氏: 次の日の新聞で、装甲車が燃えている空からの俯瞰写真を見て、山崎博昭という京大の学生が死んだのを知り、大きなショックを受けました。で、翌月、その前日、エスペランティストの由比忠之進さんが佐藤訪米に抗議して首相官邸の前で焼身自殺を図ったというニュースなどが大学の構内を震撼させたこともあり、10・11の第二次羽田闘争というのに参加した。それが僕のはじめてのデモ参加ですが、とんでもない目に遭いました(笑)。
――紛争のまっただ中に、入っていったんですね。
加藤典洋氏: その時のデモは、今考えると自分が参加した中で一番くらい激しいデモだったんですが、何も知らずに前から5列目位のところに並ばされたんです。2列目くらいまでは歴戦の勇士の活動家、その後ろに何もわからないノンポリが10列位並べられて、羽田空港を目指した。少しわかった連中は、いつでも逃げられるように、その後方についているんです(笑)。羽田空港の近くに大鳥居駅があります。ちょうど山崎君が死んだ場所あたりに橋があって、その近くまで行くと機動隊が壁になっていました。機動隊とぶつかって、歴戦の勇士たちは闘っている。こちらは非力でまったくのノンポリですから、逃げようと思って後ろを見たら、誰もいない。後続の電車は連結をはずしていた。(笑)それでだいぶ離れたところからこちらに向けて石を投げてくるんです。非力な学生が投げるので機動隊まで届かない。僕ら生け贄用の学生たちに当たってしまう。活動家の友人に「逃げるぞ」といわれ、後をついて民家の茶の間のようなところを土足で駆け抜けて逃げるのですが、どこまでも警察の人が追ってくるんですね。なかなかあきらめてくれない。するとその友達が、「お前は先に行け」と言って、立ち小便をしだしました。その友達は地下足袋を履いていて、立ち小便姿をみると、土方のお兄ちゃんなんです。この友人は、土方仕事のアルバイトもしていた。警察もまさか活動家が地下足袋を履いてるとは思わない。
流れの外で考える
加藤典洋氏: 僕は結局、一度も捕まっていません。実は、親が警察官だったので、捕まるわけにはいかなかったんです。その頃、どこでも大学闘争というのがさかんで、地方の都市の警察署長などの家には、正月には若い機動隊員が何人も挨拶に来るんです。そういうところで、僕がヒッピーまがいのうさんくさい格好をして家でゴロゴロしている。ときに、目があうわけです。「こいつは東京の大学生で、学生運動のようなのをやっているらしい」とみんな知っている。こういう人はみんな同年代で、だいたい農家の次男、三男という人たちなんですよ。いたたまれず、あとは、帰らなくなりました。
――東大紛争は安田講堂の陥落でクライマックスを迎えますが、その時はどこにいらっしゃったんでしょうか?
加藤典洋氏: 安田講堂の時も、前日まで中にいたんです。当時、高校の先輩が東大文学部の自治会委員長をしていたのです。彼は革マル(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義)派で僕はノンセクトでしたから、普段はあわないのですが、その時たまたま階段ですれ違ったら、「君は親父さんが警察だろう、明日はどうもやばそうなのでレポにまわれ」といってくれた。レポというのは外で警察の動きを監視して、その都度報告する役目です。それで、安田講堂の日はたまたま外にいた。で、捕まらないですみました。
――当時、学生運動についてどのようにお感じになっていましたか?
加藤典洋氏: 機動隊が東大の学内に入って来た時に機動隊員に向かって学生が「お前ら小学校を出たのか」といったんです。僕はその後ろに立っていました。僕の父親もノンキャリアです。家が破産して学業を途中でやめて巡査からはじめています。全共闘なんていってもこんなものだな、自分も含めてみんなバカなやつらだ、と思いながら、そこにいました。まあ、どこでも孤立していたといってよいでしょう。寺山修司などもそのはずですが、僕の周辺の文芸評論家とか物書きには、けっこう警察官とか自衛官の子どもという人が多いんですね。その理由は少しわかる。こういう人間は、人と一緒には感じられない。それで、自分一人で、流れの外で考えるようになるんです。
「野生化」したまま社会人生活スタート
――就職活動はどのような感じでしたか?
加藤典洋氏: 僕は、2年留年し、6年かけて卒業したのですが、大学院も落ちたし、新潮社、筑摩書房など、就職試験も全部落ちました。1972年で石油ショックのため募集が少なかった。その中で出版社を受けたのですが、筑摩は最終面接まで行ったものの、最後、口論めいたものになってしまってダメでした。
僕は面接がだめなんですね。受かる学生はそういう顔をしている、落ちる学生はそういう顔をしているというけれども、僕のばあいは完全に、暗くて、反抗的で、後者の顔でした。最後、国の図書館を受けた時に、ヤケ半分で履歴書の運動歴というところに「弓道」って書いたんです。ウソではない。高校1年の時に3ヶ月だけ弓道部に入り、夏休み前にやめたんです。面接者のなかに弓道をやっている役員がいて「君は何流かね」という。「いや、高校1年の時に3ヶ月だけ弓道部にいたが全然当たらないので辞めました。それで何流か、覚えてません」っていったら、面接の面々が呵々と笑った。それが就活の面接で笑いをとれた唯一の場面で、それで就職できたわけです。
――国会図書館ではどのようなお仕事をされたのでしょうか?
加藤典洋氏: でも、やはり人間修養ができておらず、入った後にもいろいろと問題を起こし、6年間単純労働をやらされました。働きはじめたのが1972年の4月です。二ヶ月前に連合赤軍事件があった。これには心底、参りました。4月になっても、朝起きられなかった。遅刻も多く、今考えると半分位、いや半分以上は僕が悪かった気がしますね(笑)。最初に配属されたのは「現場」といわれるところでしたが、そこの課長がエリートで、呼び出されたら、休憩室みたいなところで、「君は国立大のいいところからきている。僕の後輩でもある。で、ここには大卒の人は少ないからそのつもりで」などという。ところが僕はというと、タバコを吸ってその話をふんふんと聞きながら、吸いさしを床に捨てては足で踏みつぶしているんです。4年間学生運動をしているうちに完全に野生化していた(笑)。課長の顔つきがみるみる変わって、あ、そうかと気づいたのですが、完全に僕のほうがおかしかったわけです。
カナダ行き、そして評論家デビュー
――国会図書館に在籍しながら、カナダに行かれていますね。
加藤典洋氏: 僕は6年単純労働に明け暮れて、ほかにも色々と悪い事情が重なり、もう日本にいたくないと思ったのです。それで、78年、カナダでの仕事の募集があったのに希望を出して、それから向こうに3年半位いました。フランス語系の大学の研究所に図書館を作る仕事です。82年に帰ってきてからは、僕がカナダにいる間に就任した館長が、人間的の幅のある人で、更正の機会を与えてくれました。帰国してからほどなく、調査局というところに移って、外国の新聞記事のうち、日本に紹介されない重要な記事を翻訳して国会議員の閲覧に供するという仕事についていました。書庫から何冊でも本を持ち出せるわ、時間はあるわで、以前の仕事に比べたら天国みたいなところでしたね。あいている時間に調べ物をして、せっせと文章を書くようになりました。
――どのような文章を書かれていたのでしょうか?
加藤典洋氏: 当時、早稲田文学の編集委員に友人がいた関係で、ある特集が企画されたときに、田中康夫について書かないかという話がきたのです。僕は日本にいなかったので全然知らなかったんですが、河出書房新社から出た『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになったうえ、日本の文学世界で袋だたきにあっていたらしい。でも読んでみたらなかなか面白い。評価しているのは、江藤淳くらい。あとは完全否定のヒステリー状況。その周りの反応が面白いと思って書いたら、長くなった。20枚のはずが、長くなり、一回では足らず、次にも続きを載せるかたちになる。でも終わらない。編集委員たちも、さすがに無名で早稲田とも関係のない書き手にこんなに誌面を提供できないと判断して、最後には掲載をしぶったのですが、一回目が少し新聞で評判になったのと、あと、学生アルバイトの編集実務担当のY君という人が、この原稿を面白がって実務的にカバーしてくれたのとで何とか、4ヶ月で三度掲載させてもらい、200枚弱の原稿を発表しました。これが「アメリカの影」という、あとで最初の本になったものの前半の論なんです。
――『アメリカの影』は出版デビュー作でもありますね。
加藤典洋氏: これを書き終わった時、アメリカ人の友人と、東大出版会のインド系の女性編集者の友人と三人で京都の鶴見俊輔さんに会いに行ったら、「こういうものを、もう1つ書いたら本になりますね」とほめてくださった。鶴見さんとはカナダで知り合ったのですが、このときはじめてほめられた。うれしかったですね。で、やる気になって、その後、もう一つ書いて、本にしたのが『アメリカの影』です。そのもう一つを書くのに、二年ほどかかりましたが。当時学生の『早稲田文学』編集担当Y君のサポートと、鶴見さんの督励が僕を書き手にさせてくれたと思います。恩人ですね。特にY君には足を向けて眠れない。Y君はいまは出版人ですが、依頼があれば必ず引きうけることにしてるんです。(笑)
書き手はピッチャー、編集者はキャッチャー
――加藤さんは電子書籍は利用されていますか?
加藤典洋氏: 僕のよいところは軽薄な新しがり屋で、ガジェット好きなところでしょう(笑)。電子書籍も読んでいますし、何にでも手を出すほうです。学生にはiPadを使っている人が多いのでそれをあてにしてゼミノートという少部数の週刊誌を編集し、電子媒体で配布してもいます。富士通のScansnapは2つ持っていて、電子化もやっています。ただ、Kindleなんかがそうですが、持って歩くには良いけど、ページが変わってしまうので論文には使えない。引用の頁指示ができません。まだ本格的に使うところまでいかず、試用期間が長く続いている状況です。
――電子書籍が普及していくことについて、何かお考えはありますか?
加藤典洋氏: 電子書籍で読むという読み方が広まっていくのは良いと思いますが、どう考えても紙媒体は消えないでしょう。今の状態は、紙媒体と電子媒体が重なっていますが、2つあることから新しい価値が出てこないまま、しょうがなく2階建てになっている。そういう消極的な二極体制、ダブルスタンダードのまま、お金と時間だけがかかっている状況です。これがまずい。紙と電子が両方あっていい。その両方があることのメリットをもっと積極的に追求し、この二極体制をもっとスマートに作り上げる方向をめざしてはどうでしょうかね。
――紙と電子が両方あることのメリットには、どういったことがあるでしょうか?
加藤典洋氏: パピルスの時代からグーテンベルグの時代へと、書き言葉は紙媒体にずっと載っていました。それが今度、モニターに映る電子文字に変わりました。でも、媒体が変わると文章を読むスキルと感受性も変わってくるものです。例えば、日本では明治以前に、黙読という読み方は存在しなかった。素読といって文字というのはまず意味を考えずに読み上げるものだった。それで、明治生れのおじいさんが新聞を読む時に口を動かすのを、孫が不思議なものを見るように見るという光景が大正期になって生まれました。孫のほうは、黙読世代なので、音読するおじいさんが珍しいわけですね。だけど、素読がなくなると、それによって失われるものも出てきて、それが新しい読み方を作りだす。音読、朗読会というのがそうでしょう。いま、詩の朗読の可能性が別なふうに追求されはじめているのは、活字が今度電子活字に席巻されるという新しい世代交代が再び起こってきていることと、実は関係があるのだろうと僕は見ています。活字と写真、音声、映像の組み合わせの感受性などでも、若い世代では明らかに違いはじめています。そういうなかで、本が、紙媒体として、その特色をますます発揮する方向と、電子化されて新しく生まれてくる可能性を発揮する領域と、二極分解してきます。その二極分解を、楽しまないといけない。それは、漁場を作りだす潮目のようなもののはずです。異質なもの同士の交通の空間ですからね。そういうなかで、完全に紙から電子に変わっていくべきだとか、いや紙のままでいるべきだとかという主張を聞いてごらんなさい。とてもマッチョに聞こえるでしょう? ともに古いからです。話を聞いていて、ブックスキャンという会社のやろうとしていることも、ほんとうは両方をめざすということだろうと思うんです。紙で読むものと、モニターで読むものと二つ媒体を用意できる。本が本当に機能するためには別の形も取れる、「王の二つの身体」ではないけれど、本も、「二つの身体をもつ」ようになりましたよ、ということだと思うんです。
――電子書籍によって本作りの形態、編集者と書き手の関係も変わっていくでしょうか?
加藤典洋氏: 編集者はやっぱり大事です。関係が変わるとしたら、両者の関係が深くなるように変わるといいと思いますね。変わるか、変わらないかではない、深くなるように変わるにはどうすべきか、と考えるほうがよいんです。僕なんてものを書きはじめた頃は、編集者はみんな年上で上から目線でいってくるのでよくぶつかって喧嘩したものです。そうさせてもらえたことがとてもありがたかった。自分が年上になってくると若い編集者が何も言わなくなってくるので、非常にさびしい。でも、電子媒体のことでは、僕などより若い人のほうが、よくわかっているはずですね。そこに対等な新しい協同作業の可能性がある。だから、対等感覚をもち、しかも、紙媒体での当方の経験にそれなりにしっかりとリスペクトを払ってくれる、そういう新しいセンスの編集者が出てくるとありがたいです。
僕が、この年になって一番選ぶのは編集者ですね。出版社でも、出版の条件でもないです。先に述べた音楽の本など、編集者との関係だけでできたようなものです。でもその編集者との関係を保障するのは日本のシステムのなかでは出版社です。「人」とのつきあいが第一で、それを支える「場所」があることが次に大事です。
僕は、編集者はキャッチャーだと思うんです。キャッチャーがよくなかったら、よいピッチングはできない。よければ実力以上のピッチングができます。でもこれからの編集者は、僕のように60過ぎの書き手のばあい、みんな自分よりは若い。若いことのメリットが電子の領域にはある。そこに、紙と電子の共生と、協同の可能性があるんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうかね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 加藤典洋 』