「教育」が反抗から研究の対象に
――小笠原さんは子どものころはどういったお子さんでしたか?
小笠原喜康氏: 私の子どものころは、『鉄腕アトム』、お茶の水博士の時代で、私も理科が好きでした。小学校3年生から高校3年生まで、理科クラブで実験ばっかりやっていたバリバリの理系です。高校時代は、現代国語は赤点ばかりで、40点以上取ったことはないと思います。
――それは意外ですね。
小笠原喜康氏: 私は、ひねた子どもでした。覚えているのが、私は放送部だったのですが、放送部に入ったのは脱脂粉乳が飲みたくないから、それと校長先生の長い話を聞くのが嫌だからでした。放送部なら脱脂粉乳を放送室の窓から捨てられるし、校長先生の話はマイクを設置してから後ろに下がっていればいいので聞かなくて済む。嫌な子どもでしょう(笑)。
高校時代は、学校に反発して、自分の気に入っている先生でなければあいさつもしないような生徒でした。それで2年生の時、あらゆる勉強を止めてテストを名前だけ書いて白紙で出しました。そうしたら365人中360番で、なぜ360番なのか先生に聞いたら、出さないやつが5人いて、私は一応提出しているから360番ということでしたね(笑)。
――教育学に進まれたのはどのようなきっかけなのでしょうか?
小笠原喜康氏: 高校のころ勉強しなくてクラブ活動、生徒会活動しかしていなかったので、入れる大学がなかった。就職しようと思ったけれど、就職先も良いのがなくて、先生に相談したら「お前でも行けるところあるぞ」と言って北海道教大に行きました。北海道教大は、1年生から好きな研究室に行ける大学だったので、化学研究室に行ってみたら、高校時代にやってきたことばっかりやっていたので、こりゃダメだと思ってやめたんです。それで、根本的にものを考えてみようと考えて教育学科に行きました。それで、教育大で教育学科に来たんだから教育研究をしてみようということで、研究室に行ったところ、今もずっと付き合っている先生とお会いして、人生を間違った(笑)。大学には、2単位足りなくて留年して、結局5年いました。大学時代は勉強よりも映画ばっかり作っていて、8ミリから始めて、デンスケっていう5キロ以上あるビデオの最初のタイプを担いで撮っていました。
デカルトのように「簡単」な文章を
――論文の書き方について本を出そうと思われたきっかけは何だったのでしょうか?
小笠原喜康氏: 昔から北海道に本がなかったから、東京まで出てきて、本屋とか国会図書館に通った記憶があって、もうちょっと合理的な方法がないのかをずっと思っていた。それに、論文の書き方、「てにをは」とか引用の仕方なんて誰も教えてくれないでしょう。それで、私の長く付き合っている先生に頼んだら、4人くらいに教えてくれたんです。その先生の組んでくれたやり方を見て、これはいいなぁと思って、まねをして段々詰めていったものを、教師になってから学生に毎年配っていたら、それを見たほかの大学の院生から、「本を書いてくれ」と言われました。彼女が私にそう言わなかったら、きっと書かなかったと思います。
――論文を書く方法として最も伝えたいことは何だったのでしょうか?
小笠原喜康氏: 人間は頭で考えているのではなくて目で考えます。人間は頭が悪くて、ものを外側に出して、目で見てからしか考えることができない。でも、それによって複雑な思考ができる様になった。そして外部に出すためには形式が必要になります。形式と言うと皆さんばかにされますけど、形式によって思考が作られる。だから、まず形式から入りましょうという話です。私の本には、「論文とは何か」ということは、書かないことに決めた。それは人それぞれ答えが違うからです。ただし、わかりやすい文章の書き方は絶対にあります。誰もがわかる文章を書かないと話にならないから、わかりやすいレポートを書きましょうということを書いています。
――誰でも読むことができる形式を持った文章が蓄積されることで、知の世界ができあがっていくんですね。
小笠原喜康氏: 例えば、デカルトは皆さん難しいって思っているかもしれませんが、読んでみたら、めちゃくちゃ簡単です。デカルトの偉いところは日常語で書いているところで、「われ思う、ゆえにわれあり」は、まさに近代の宣言ですよね。キリスト教から離れて、人間中心でいくんだ、って宣言したわけです。当時はガリレオの裁判とかがあって、いろいろな人が処刑されていて、彼もキリスト教はダメですよとは言えない。だから神は確実に存在すると言いながら、実は人間を宣言している。それが、読むとありありとわかる。『方法序説』なんて薄いですし、若い人にもぜひ読んでほしいですね。
著書一覧『 小笠原喜康 』