人生はすべてつながっている。悪いことはできない。
『片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術』『必要なものがスグに! とり出せる整理術!』『貯められない女のためのこんどこそ!貯める技術』などを書いた池田暁子さん。物が散乱して床が見えない「汚部屋」を、床が見える状態にしたり、必要な物が取り出せるようにするプロセスを紹介したりして読者の絶大な共感を呼びました。最新刊の『思ってたウツとちがう! 「新型ウツ」うちの夫の場合』でも全力投球。現在の池田さんはいかにして出来上がったかを、お伺いしました。
いい本をつくるために、いい素材でいたい。
――池田さんといえば、『片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術』で「汚部屋」という言葉を広めた方でもあります。私もそうですが、片づけが苦手な人は大いに共感して、ファンになるのだと思います。ご自身ではどうお感じですか?
池田暁子氏: How To 本形式にしたのは半ばシャレで、怖い物見たさで見てもらえればいいかと思い書きました。住んでみればわかりますが、何がどこにあるか全然わからないので、とても不便です。はさみやホッチキスなど、5、6本あることはわかっているんですが、どこにあるかが全然わからないから、またコンビニなどで買うはめになる、といったように、お金が減ってモノが増えるという繰り返しだったんです。
――ご自分の体験談に関する読者の反応はどのような感じでしたか?
池田暁子氏: それほど片づけが苦手な人がいるとは思っていなかったので、受け入れられたのには本当に驚きました。3、4人で話していても同じ悩みを持つ人はいないかもしれませんが、本の形になってたくさんの方に読まれると、同じようなことを共有できる人が出てくるんです。だからやっぱり本は、素晴らしいと思います。例えば2007年に出た本を、昨日買って読んでくださる人もいるということを考えると、本は時も越えてしまうのです。連載している愛媛新聞にも書いていますが、スペースの都合で本を捨てざるを得ないのが辛いです。体験を買ったと思って、なるべく手放すようにはしていますが、仕事柄なかなか難しいです。
――片づけのシリーズを書くに至った経緯はどのようなものだったのでしょうか?
池田暁子氏: 苦手なことを克服するようなシリーズを書かせていただきまして、片づけや整理、貯金と時間の使い方など、私自身が体験するものが、How To本として思いのほか読まれました。『片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術』の編集の方も片づけが苦手だったので、企画を通してくださいました。部屋を実際に片づける経緯を書いて、そのまとめを付けて本にしました。これが役に立つような人はそうはいないだろうと思っていたのですが、意外にも好評で、びっくりしました。それを見てまた別の人が声を掛けくださって、『必要なものがスグに! とり出せる整理術!』ができました。前の本が「床が出るまで」だったのに対して、次では「要る物がすぐ取り出せるようになるまで」について書きました。
――その時も片づけが苦手な編集者と仕事なさったのですか?
池田暁子氏: いえ、この時は得意な人だったので、編集の方の個性が本に反映されていると思います。テーマが自分の体験だと、客観的に見てくれる編集者は絶対に必要な存在で、1冊1冊はその編集の方とでなければできなかったものだと思っています。自分がいいと思って書いたことでも削られたりして出来上がるので、編集者が調理師だとすると、自分という書き手は素材か食材のように感じます。どちらかが欠けてもできないけれど、いい本をつくるためには自分がいい素材でいなければいけないと思っています。
根暗キャラから無意識の行動派へ。
――幼い頃から絵を描かれていたのですか?
池田暁子氏: 絵を描くことは好きでしたがマンガは描いたことがなくて、小学校の夏休みの宿題で絵本のようなものを1、2冊書いた程度です。創作にはあまり興味がなくて、目立ちたくないというのもあって、自分の思っていることを本に書くことに関しても、本当は怖いという気持ちがあります。でも、似顔絵は描いていた記憶があります。中学になると卒業文集にクラスの40人分の似顔絵を描いたり、吹奏楽部の先輩を送る文集に似顔絵を描いたりはしました。当時はマンガよりは絵の方が好きだった気がします。
――その後神戸大学に進まれますが、どういった理由からでしょうか?
池田暁子氏: 絵を勉強しておこうと思ったんですが、当時、松山には美術の予備校がなくて、美大に入るのも大変だし、普通の大学に進むことにしました。でも、就職活動をする段階になって、一般企業に勤めても、絵の道で活躍している人を見て、私はうらやましいと思い続けるだろうということに気がついたのです。でもそれでは絶対にダメだと思って、一度トライした上で諦めようと考えました。良くも悪くも正直なのだと、編集者にも言われます。
――昔から思った通りに行動される方なんですか?
池田暁子氏: 中学生ぐらいの時期には、「笑っていいとも」に根暗を競い合う人々がたくさん出ていたので、私も根暗キャラを2年ぐらい演じていたんです。でも結局つまらなくなって、楽しそうにしている子やクラスのカーストの上位の人たちを観察していたら、意外と思ったことを言っていることに気付いたので、その場で誰かの顔色を窺って調子を合わせるよりも、私も思ったことを言っていこう、と決めたんです。それから眼鏡をコンタクトレンズに変えたこともあって、中3か高1で、意外とこの世も捨てたもんじゃないと思うようになりました。
――その後筑波大学の芸術専門学群に入学されましたね。
池田暁子氏: 筑波に入って学内にある寮に住みながら、そこからセツ・モードセミナーというアートスクールにも通い始めたんです。でもよく考えたら、バス代が月に3万ぐらいかかっていることに気付いたので、寮を出て東京に住んでセツ・モードセミナーに通うことにしました。その頃に進学塾の講師の仕事も始めて、小中学生に文系科目を教える仕事を5年やりました。
塾講師の5年目に、塾で週4日働きながらバンタンキャリアスクール(現バンタンデザイン研究所)という学校の週2日のDTPのコースに通うようになりました。説明会で、「講師からアルバイトをもらう人もいる」と聞いたので、それが目当てでした。本で勉強して、一通りできるようになってから入学し、一番前に座って課題をこなしていたら、声が掛かって手伝いをするようになったので、目的を達成したと感じました。普通は、アルバイトをくれると言われても真に受けないのかもしれません。
――すいぶん戦略的に行動されているように見えますが、ご自分では意識しておられますか?
池田暁子氏: 無意識です。その後、秋に編プロに応募したら受かって、社長から「年明けに連絡します」と言われたので塾を辞めたのに、2月末になっても連絡がなく、直接会社に事情を聞きに行ったんです。そうしたら社長がいて、その場ですぐ採用になり働くようになりました。私は、運は異常にいいのです。バンタンに行ったのも、ちょうどページレイアウトがパソコンでできるようになったDTPシステムに移行する頃で、たまたま買った『ケイコとマナブ』でDTPのことを知って無料説明会に行ったら、「アルバイトをもらえる人もいます」と言われて通うことにしたわけですから、運がいいのだと私は思っています。
著書一覧『 池田暁子 』