高橋三千綱

Profile

1948年、大阪生まれ。作家・高野三郎の長男として生まれる。 テレビ、映画の子役、ラジオドラマの声優として活躍した小学生時代、各地を旅した高校時代など、濃密な少年時代を送る。 卒業後はサンフランシスコ州立大学英語学科創作コースへ入学するも、父が重病にかかり3年目に帰国。アメリカの滞在記『シスコで語ろう』を自費出版、その後スポーツ新聞記者などを経て、作家生活に入る。 「退屈しのぎ」で第17回群像新人文学賞、「九月の空」で芥川賞を受賞。自作の「真夜中のボクサー」で映画製作にもかかわる他、他多くの小説や漫画原作なども手がけている。最新作は『猫はときどき旅に出る』(集英社)。 9月中旬に3部作の第1作『黄金の鯉-大江戸剣聖一心斎』(双葉文庫)も出版される。現在、初の書き下ろし作品『ありがとう肝硬変・よろしく糖尿病』を執筆中。

Book Information

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創作はいつも「自由」へ拓けている



高橋三千綱さんは、1971年のデビューからジャンルにとらわれない作風で、長く第一線で活躍する小説家です。日々湧き上がる小説の構想に、自ら驚き、刺激を受けながら書き続ける高橋さんに、執筆の流儀、創作観などについて伺いました。また、文学者、編集者、ご自身が受賞した芥川賞など文学賞の変質についてのお考えも、力強く語っていただきました。

いつかは書ける、だから絶望しない


――早速ですが、普段の執筆のスタイルについてお聞かせください。


高橋三千綱氏: それほど決まってなくて、行き当たりばったりです。勤め人のように、時間を気にしなくていいですから、ゴルフの全英オープンがあれば終わりまで観て、それに合わせて起きます。ストレスもないですから、いわゆる「苦悩の文学者」ではない気がしますし、よく「文学者のイメージとは全然違いますね」などと言われます。

――どのような過程で原稿が出来上がっていくのでしょう?


高橋三千綱氏: まず頭の中で書いて、実際に原稿用紙に書くのはもっと後です。もやもやと出てきて、つまらないものは消えてしまうのですが、覚えているものもあります。推理作家が書く創作ノートのようなものを書くことはありませんので、内容もどんどん変わります。全然予期しない人物も出てくることもあって、作者自ら困ってしまうこともあります。物語が勝手に動いているから、夜が明けたら100枚くらい物語を作れてるな、などと思いながら酒を飲んでいるんだけれど、実際は全然書けてない(笑)。そういうことを繰り返しながら、放っておけばいつか書けてるよと思って、絶望はしません。

――執筆は手書きですか、それともパソコンを使われますか?


高橋三千綱氏: 両方使います。ただ、機械を使うと、1回人間以外のものが入ってくるわけで、そうすると、どこか米を食って小石に当たったような違和感があるので、今でも最初は手で書くことの方が多いです。頭で考えるというよりも、親指の関節に脳みそがある感じです。パソコンを使うと、頭に信号を入れなければいけないから時間が掛かる。慣れの問題かもしれませんが、回線の不都合でストレートに出てこないんです。

「DNA」が生み出す物語



高橋三千綱氏: 僕はつい最近まで入院していて、「入院して変わりましたか」と聞かれますが、やっぱり変わったと自分でも思います。35で胃を切った時には、「上手く生き延びた」くらいにしか思わなかったけれど、今回は年齢も年齢だったので、「人生は短いな、でも1人で生きていくのは長過ぎる」という気持ちになり、この感覚を小説にするにはどうしたらいいかなと思っていました。ちょうどその時に書いてたのが『猫はときどき旅に出る』の第3章で、退院して記憶喪失になったりしながらも書いたんですが、今書いてるのは、南極を小さな飛行機で飛ぶ話で、盗まれた皇帝ペンギンの子供を親に届けるという内容です。普通の人は、それとこれとどうつながるのと思うかもしれないですが、僕の中でははっきりつながっています。これから1人で生きる人生は長いから、そういう話が今の想いにふさわしいと思い、すぐに原稿用紙に書いたんです。



――書いたものは何度も見直しますか?


高橋三千綱氏: よく推敲で20回くらい書き直すなどと聞きますが、僕はそういうことはしなくて、最初から万年筆で書いていきます。若い頃によく編集者に「高橋君、君は才能だけで書いてるよ」などと言われました。でも、才能だけで書くのは当たり前で、努力なんてセンスのない奴らがやることで、何の意味もない。そんな外面の努力は、厚化粧や粉飾決算のようなものだと僕は思います。

――小説家の「才能」は一般の者からすると分かりにくいものがあります。


高橋三千綱氏: 例えば村上春樹は、『群像』で新人賞を取った時、僕は2、3年先に取っていましたから読んでいて、この人は売れると思いました。村上龍の校正原稿も読んでいて、「こいつら、俺とは全然違う才能だな」と思っていました。宇宙から送られてくるものは皆それぞれで、金星、土星あるいは海王星から送られたりと、内容もそれぞれ違うんです。地球に住んでる奴は皆エイリアンで、40億年前は単細胞のミドリムシのようなもので、そこに色々なゴミが結晶して、段々人間になってきた。例えば村上春樹ならばエイリアン4世とか(笑)、あるDNAを持っている人たちがいて、そのDNAからピンとくる。今、時代ものも書いているんですが、僕のDNAがボートだとしたら、乗ってくる奴がちょんまげを結っていて、江戸時代の話をしようといったように、DNAが書かせるのであって、僕が書いてるのではないのです。視覚的に物語が生まれてきて、絵描きだったら絵を描くのでしょうが、それと同様に僕は文章を書くわけです。

別荘、子役、裕福な少年時代


――高橋さんは大阪の有名な米問屋のお生まれだそうですね。


高橋三千綱氏: 米問屋でしたが、僕が生まれた時には戦争で焼けてました。生まれたところは豊中の普通の住宅街です。別荘がいくつかあったのですが、子どものために母親が奈良から大阪へ戻って、2、3歳までいました。家は広くて、トイレに行くのに、廊下を何度も曲がっていかなくてはならなくて、子供心に遠くて怖かったです。別荘の1つに六甲のホテルを買い取ったのがありましたが、僕が生まれたところも旅館のような感じでした。おじいさんが、おばあさんの体が悪いので、その度に山が良い、海が良いなどと住むところが変わっていたみたいです。鶏は飼ってましたし、相撲取りのタニマチで、うちに土俵作って巡業もやってました。

――お父様も作家として活躍されていましたね。


高橋三千綱氏: 親父はボンボンの生活が嫌で、関西学院という坊ちゃん大学から、途中で東京に出てきて早稲田に入って、自活すると言って、石川達三さんなどと文学をやり出したんです。おじいさんにしてみれば、子どもというのはたまにそういう熱が出るものであって、いずれは冷めて家を継ぐだろうと思ってたみたいで、実際その通りになりました。戦争があって、父親も家を手伝って、店が焼けたのをきっかけに、私たちを連れて上京しました。東京に来た時には、文学の姿勢を子どもに見せるために、貧乏なフリをしてわざと間借りしていたんです。

――東京では、子役や声優もされていたそうですね。


高橋三千綱氏: 毎週NHKに、阿佐ヶ谷から新橋まで通っていました。他の子たちが野球をやっていても僕は仕事に行ってるわけです。NHKに入ると、大人の世界、特殊な世界で、子役の女の子も、プロデューサーに擦り寄って「今度私に良い役をくださいね」などと言っている。男の中にも、こびの売り方は違うけれど、「肩をもませてください」などというのもいたりしました。僕はどちらかというと、いつも群れることなく1人でしたが、敵がいるわけでもないし、味方がいるわけでもありませんでした。
杉並では200人くらい選考会に出たのですが、NHKに出られるのは成績優秀な子に限られていて、各区に1人だけなんです。つまりNHKに通うことで成績が下がるような子は要らないということです。あと、夜遅くなった時でNHKからハイヤーを出せない場合、家が裕福な人は車で迎えに来られるから、自家用車のある人という条件もありました。でも、もうその頃は、うちは破産していた。NHKの番組では僕はよく主役をやらされ、台詞が多くて嫌になってしまって、これは向いてないって思いました。続けてくれと言われましたが、中学2年で辞めることにしました。

嫉妬深い人たちを目の当たりにした


――東京に来られてから、お父様が大きな借財を背負うことになったとお聞きしましたが、どのような経緯だったのでしょうか?


高橋三千綱氏: 小学校2年くらいの時に、父親が出版社のある友人の連帯保証人になって、会社が潰れて社長が逃げて、今で言うと40億円くらいの借金を被ったんです。その借金は、取り立てが厳しいですから、全部返したみたいです。それでそれまで住んでいた杉並の高台の家から、リアカーで引っ越しをしました。家に石を投げ込んだり、泥を投げ込んだりする連中がいましたから、その理由は私にも段々分かってきました。

――それは取り立ての人からの嫌がらせだったのでしょうか?


高橋三千綱氏: お金を返してからもありました。一般庶民とはそういうもので、何の関係もないのに、嫉妬するものなんです。姉は美人で頭も良かったし、そういう子どもに対する嫉妬もあったかもしれません。「落ちぶれてざまぁみろ」という感じだったと思います。それを見て、人は1日で裏表がここまで変わるのかと思いました。男は、嫉妬というよりもストレートにいじめ抜く。運動靴なども皆に盗まれたりして、運動会で履く靴は配給でもらったんです。それを母親たちがうわさをしていて、呼び止められて、「それ学校から配給でもらったやつよね」と聞かれたので「そうです」と答えたら「あそこはもう落ちぶれたのよ」などと話すわけです。女というのはそういうものかと思いました。

日本中を旅して、アメリカへ


――小学生の頃から日本中を旅行されていたそうですが、その時のことをお聞かせください。


高橋三千綱氏: 小学校6年の時に、何気なく大島1周に行って、帰って来るつもりだったのですが、側にいた高校生が、「これから伊豆半島に行くんだ」と言うんです。僕も伊豆半島は行ったことがないから、行ってみようと思ってついていくと、温泉で芸者と一緒にちんとんしゃんなどとやってる奴が大島で会った奴だったりと、色々な大人と出会うわけです。1人旅は、ずっと1人でいるのではなく、適当に協力者を見つけるのが1番良いということが分かりました(笑)。その後も休みの度に日本中を旅行して、高校1年の時は東北と北海道に1ヶ月以上いました。

――旅に駆り立てられるものがあったのでしょうか?


高橋三千綱氏: 小田実さんの『何でも見てやろう』を中学生の時に読んで、影響を受けました。彼も大阪で弁護士の息子だったし、思い描いてる生活と似てるなと思いました。旅に行けば、なんか発見できるんじゃないかと思っていましたし、将来は世界各国で、色々な国の言葉で書くフリーのジャーナリストになるのが1番良いなと思ったんです。日本を旅したのは、外国で生活しようと思っていたから、その前に日本を見ておかなければいけないと思ったからです。



――その後は、アメリカのサンフランシスコ州立大学に留学されますね。


高橋三千綱氏: 僕が行った創作コースはジャーナリスト養成機関で、日本にはまだなかった。アメリカではニューヨーク大学とミシガン大学とサンフランシスコ大学にあって、そこで頑張ろうというのは全然なかったんですが、とりあえずその学科だったら申し込む理由はあると思ったんです。

――留学されるまでには苦労はありましたか?


高橋三千綱氏: 経済的な裏付けが1番大変でした。私費留学生ですから「親は金持ちなのか」とアメリカ大使館で聞かれるわけですが、金はないから、ダメだと言われる。それで日本にいる不動産屋の人から預金残高の証明書をもらってきて、「この人が自分のスポンサーです」とアメリカ大使館に持って行ったのです。不動産屋にはただ残高証明が欲しいと言っただけだったので、そのことは知らなかったと思います。アメリカに着いてからは、州にエアフォースがあって、将校など偉い人は、乗っている車が違うのですぐ分かるから、その人が奥さんと車から降りた時に、「何か力になってください」と頼みに行くんです。びっくりしていましたが、「こういうところを訪ねたらどうか」などと、色々紹介をしてくれました。

再販する予定がないなら安価で電子に


――高橋さんは、電子書籍は利用されていますか?


高橋三千綱氏: 最近、電子書籍を買いました。そんなに安くなかったですが、便利ですね。入院する時に、時代小説や古典が2000冊入っているのを持って行きました。夜でも見られるから便利でした。

――電子書籍で読むことには抵抗はありませんか?


高橋三千綱氏: あんまりものに拘らないので、抵抗は全然ありません。古いものを大事にすることも、コレクションなども全然ありませんし、何か良いものがあったら使います。良いものはすぐ分かりますし、これダメだな、廃れるなというのも分かります。

――電子書籍の将来はどうお考えですか?


高橋三千綱氏: 本次第ではないでしょうか。漱石などだったら、著作権が50年で、そこで上手く話し合いがつけば自由に使えますよね。出版社は再販する予定がないなら、カラオケだって1曲1円50銭くらいですから、1冊1円くらいで出してしまえばいいじゃないかと僕は思います。古本屋にもない本に光を当てれば、今よりももっと読んでもらえると思いますから、作家がOKしているのだったら、どんどん出せるでしょう。カラオケのように、「何年版チップ」などを入れ替えればいいのだから、それに機械が伴ってくればいいわけで、僕はそういう日がくるのを待っています。

――紙の本はどうなっていくでしょうか?


高橋三千綱氏: 今、古い本の復刻版を持っていますが、こういうものは手作りの味があります。「これが良い」と言うのは、趣味の問題ですから、論説することではないと思います。美しい本を、深夜お酒を飲みながら見るのが好きな人もいるわけですから、紙は愛好家がいる限りなくなりません。つまり、読者の取捨選択の範囲が広がるということです。新聞などは、一方的で、自分たちへの批評がなくて、誰かの発表だけですから、一番遅れているというか、ダメになっていくのではないかと思います。

言葉に命をかける作家がいない


――小説の世界も、最近は変化がおこっていると感じますか?


高橋三千綱氏: 今は仲良しクラブです。僕もいくつかの賞の選考員をやっていましたが、時間的にもったいないので、今は頼まれてもやりません。作者のうちは、やっぱり書くことに粘っていようと思っていますので、選考する側になるのは、自分が書かなくなってからでいいと思っています。最近の小説は、ゲームの延長のように感じますので、それはそういう人たち同士でやってればいいんじゃないかと思います。選考などに巻き込まれたりするのはごめんだから、俺はもう結構です。100人いたら100人の歴史もあるし性格もありますので、十把一絡げに言っているわけではありませんが、芥川賞も直木賞も、最近の受賞者が女性なのは時間に余裕がある人だからです。女の子で、暇だから家に帰ると勉強ばかりするのと同様に、小説を書くのも暇だからやっている。汗だくでパート4つくらい掛け持ちしなければいけなかったら、書いている暇はないでしょうし、昔は妹などを背中に背負いながら家の手伝いしている子もいました。時間が余っているから小説を書くわけなので、空想の世界が女子高生時代と変わってない。最近の芥川賞の受賞作を読んだ感想は、「これは男を手玉に取るのが上手いという意味の性悪だな」とそれだけでした。文学仲間から、そういう見方は言わない方がいいと言われますが。

――その原因はどこにあるとお考えでしょうか?


高橋三千綱氏: 読み手がいなくなったので、出版社が自分たちの新人賞を作って、取らせてもうけようとする。僕たちの年齢になると分かるんだけれど、出版社は新人を求めます。新人の方が元手が掛からないし、賞を取ったら、明らかにその時は売れますから、もうけが大きい。だから、数字の上がる人に賞が行くのはしょうがないです。

――高橋さんが芥川賞などを受賞された頃とははっきり異なりますか?


高橋三千綱氏: そうですね。中上(健次)とか僕とか津島佑子さんなどの頃がギリギリではないでしょうか。同人雑誌で散々鍛えて、新しいものが入ってくるのが嫌な老人たちが作っている厚い殻を破っていかないといけないから、それを文章力で破ろうと試みるわけです。そうすると自然に文章に力がこもってきます。今は同人雑誌自体も減っているけれど、同人から作家が出てこない。それは、言葉に命をかけるのではなく、ちょっと遊んでみようかなという風に書いているからで、読み手もそういう思いで読まないと、がっかりする。あと、芥川賞でも別の業種の人が入ってくることもありますが、例えば商社の人が書いたものがあると、作家なんて商社のことを知らないから、驚いて受賞させたりもしますが、文章の表現力は水準以下のような気がします。

野望を持つ編集者を求む



高橋三千綱氏: 出版社の人はサラリーマンですから、考えることに逸脱したものはないです。大手出版社の人事部長が、「お前の若い頃のような個性的な奴はもういないよ」などと言うので、僕は「いないんじゃなくて、お前が採ってないだけだ」と言いました。人事部長はそれを否定していましたが、やはり優等生っぽい、人事部長の範囲で収まる人間を入れています。我々フリーの人間とは無関係な話なのですが、こちらも本を自分で出すわけにいきませんので、組織を利用しなくてはいけません。100人のうち3人くらいは変わった人もいるから、そういう人を見つけるのも書き手としてのテクニックの1つだと思います。

――高橋さんにとって理想の編集者はどういった方でしょうか?


高橋三千綱氏: 出版社の人たちは、自分が優秀だと勘違いをしている人が多いんです。確かに適度に優秀だった人たちが入社してくるのですが、その人の中の決められた範囲の中で人を見たり、作品を読んだりしますので、そういう勘違いは困るんです。自分を変えなくてはいけないということはたくさんあるのに、頑固になり過ぎて狭くなってしまったり、あるいは無理に分かったフリをして若者に迎合する小説を出したりします。これからの編集者は、プロデューサー感覚がもっと重要になると僕は思いますので、自腹を切ってまで本を出すといった気持ちがあるかどうかが大切になるのではないでしょうか。
古い人の中には、学校では全然ダメだったんだけれど、本を読むのは好きだというのが結構いたのですが、今は、「別に本なんか読まなくてもいいけれど、良い大学を出てないとダメよ」という人が増えた気がします。出版社を希望する学生も、少なくなってきた。ただ単に少ないというだけではなくて、自分が編集者になって「これはと思う作品を世の中に出したい」という野望を持って入る人自体が少なくなりましたし、また会社もそういう野望がない人を求めています。

――それはいつごろからなのでしょうか?


高橋三千綱氏: 平成の頭の頃に、何でも出せば売れたという時代があったんですが、その時代の人たちが今40半ばで、編集長クラスなんです。流通が盛んだったから、なんでも出せて、文庫本などは読者が平気で駅のゴミ箱に捨てる時代でしたので、「ちゃんと自分の責任で本を出す」「こいつの作品を何がなんでも出すんだ」などと、根性決めて出した経験がないのです。

「違う部屋」をノックしてほしい



高橋三千綱氏: 編集者というのはだいたい2年毎に異動するといったように、人事異動が多いんです。そうすると、今までにしてた話が全部ご破算になってしまうのです。

――作家専属の編集者のような方はいないのでしょうか?


高橋三千綱氏: いません。売れてる人は別ですが、売れてる作家は2、30人くらいしかいませんし、村上春樹は別格ですが、たいていエンターテインメントの分野です。担当者が変わると、次からもう1回始まるか、あるいは途切れるか。全然違う人が出てきて、「編集長の方針でこういうものはうちでは扱わないことになりました」などということもあります。

――編集者と作家の関係性も変わったのでしょうか?


高橋三千綱氏: 変わりました。もう全てがメールになって、打ち合わせでも会うことが少ないです。昔は密に話して、今でもそういうことたまにありますが、お酒を飲む人たちもいなくなったので、昔とは何か違います。作家も飲まないし、自腹を切って旅館で執筆するという人もいなくなりました。

――作家に対して要望や意見を言う編集者も少なくなりましたか?


高橋三千綱氏: 「高橋さんがこういうもの書くんだったら是非読ませてもらいたい」とか、「今までと違う主人公で読みたい」「中年男と女子大生の恋愛ものを読みたい」などと、言ってくれたら考えるのですが、「なんでもいいから書いてくれ」というのは1番困ります。何かしらノックをしてくれたら、こういうドアがあったのかとか、こういう部屋があったのかなどと、自分も気付かないようなものが出てきます。そのきっかけが欲しいです。

創ることの面白さは、普通ではない


――今後の作品の展望をお聞かせください。


高橋三千綱氏: 長い間やってて、書き下ろしは1冊もないのですが、初めての書き下ろしを今やっていて、病気をテーマにしたユーモア小説です。病気はなんとなく辛気くさいものなので、ユーモアにしないとバカバカしくて書けないです。もう1つは連作で、できれば3、4ヶ月に1回、100枚書こうと思っています。『渡り鳥は星を頼りに夜を飛ぶ』というタイトルです。でも、内容的に渡り鳥は全く出てきません(笑)。



――最後に、高橋さんにとって「書く」とは、どういう行為でしょうか?


高橋三千綱氏: 自由への扉です。創作、創ることというのは受験勉強と全く違って、学校では絶対に学べないことです。学校の勉強は、ただ答えが出ているもの、先人がやったものを記憶するというだけです。創作は、先人がやったものはヒントにはしても、あくまで新しいものを作るので、何があるか、どんな世界が出てくるか分からないわけですから、すごく開放されます。ゲームの面白さとは全く違って、普通の面白さではない。今書いているものも、こういう文体で書けるのか、ということが分からないまま書いていますから、面白いです。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 高橋三千綱

この著者のタグ: 『旅』 『海外』 『考え方』 『留学』 『経験』 『小説家』 『創作』

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