学問で「世の中と向き合う」発想を持ち続けたい
鈴木亘さんは、社会保障を専門とする経済学者。年金や医療、生活保護などの持続可能性、制度設計について盛んに発言されています。鈴木さんの活動には常に、学術研究を実社会にどのように役立たせるかという視点があります。そして、専門分野の複雑な諸問題を一般に幅広く広めるための手段として、書籍の執筆を重視されています。鈴木さんに、学問と実践の関係、執筆にかける想いなどをお聞きしました。
芸能一家で、文学少年として育つ
――専門とされている学問分野についてお聞かせください。
鈴木亘氏: 経済学としては珍しいのですが、社会保障と社会福祉の経済学という分野です。年金で、誰が損なのか得なのか、いつまで財政がもつのか、といったことを計算して、シミュレーションしています。医療も介護も財政問題として大きいので、どう効率化できるかということを考えています。それから福祉、つまり生活保護などの分野で、ホームレスの問題もわりと長くやっています。保育も、待機児童をどうやって解消するかなどというような問題について、統計学や数学を使いつつ、フィールドスタディをやっています。経済学では本当に最近できた分野なんですが、今の日本では特に重要だと思っています。
――大阪市の特別顧問としても活動されていますが、もともと関西のご出身だそうですね。
鈴木亘氏: 生まれは神戸で、母親の実家が宝塚なので、幼少期は宝塚にいました。でも、逗子や船橋などの、関東地方に住んでいた期間の方が長いです。大学を卒業してからは、日銀の京都支店に配属になり、その後、大阪大学の大学院に行って、助教授になりました。関東と関西を行ったり来たりしていますから、関東弁、関西弁のバイリンガルです(笑)。今は大阪市の特別顧問としてあいりん地域の改革をやっていますが、その仕事の時は関西弁で、戻ると関東弁になります。
――幼少期はどのようなことに関心がありましたか?
鈴木亘氏: わりと本を読む子どもだった気がします。実は私の父が文学座の舞台監督で、母が前進座の女優、祖父は劇作家なんです。家の本棚にはギリシャ悲劇や、チェーホフや、シェークスピアなど、子どもが読みたがらないような本があって、それを手に取らざるを得ないところもありました。漫画はあまり買ってもらえなかったので、その環境もあって文学少年になっていったように思います。
――シェークスピアなどは、子どもが読むには難しい気もします。
鈴木亘氏: 当時は分からないなりに読んでいましたが、大人になってから読むと「ああ、こんなこと言ってたんだ」と思いました。最近、テネシー・ウィリアムズをベッドで読んだら、小学校ぐらいに読んだはずなんだけど、すごく新鮮で「こんなに面白かったかな」と感じました。
もう1つ本が好きになった理由に、ぜんそくがひどくて、1年間の3分の1ぐらい学校を休んでいたということもあると思います。呼吸が苦しくても、本を読んでいたら忘れられる。今はぜんそくについては「発作を起こしたらだめ」というのが医学の常識ですが、私の時代は逆で、発作を起こさない段階で医者に行ったら怒られたんです。夕方ぐらいからぜいぜいし始めて、朝まで耐えるために、本を読みながら起きていました。朝9時頃になって「医者に行ってもいいよね」と家族に聞いて病院に向かうのですが、着いた頃には良くなっていたりして、結局「なんで来たんだ?」などと言われたりしたこともあります。
「世の中の役に立つ学問」の発見
――高校は、渋谷教育学園幕張高校ですね。
鈴木亘氏: できたばかりの頃に入学したので、私は4期生です。サッカーの闘莉王が卒業した学校ですが、当時は新設校で名前を売らなきゃいけないので、特待生をたくさんとっていました。私は勉強の特待生だったんですが、スポーツ特待の生徒が多くて、サッカー部は、フォワード3人がブラジル人で、キーパーも監督もブラジル人。ポルトガル語で指示して、キーパーが蹴って、フォワード3人でパスし合ってゴール、という流ればかりで、あまり日本人は関係ない感じもありました(笑)。今では渋幕のお勉強の面での評判もずいぶんと良くなりましたが、その頃は別の高校に落ちて入学したという人ばかりでした。受験で落ちて、あまり注目されない学校に行って、勉強する動機がなくなってしまいました。「私は誰?」というようなアイデンティティ・クライシスになって、どんどん成績は下がる。「そもそもなぜ勉強しなきゃならないのだ」ということを考えて、その時期は色々な本を読みました。
――経済学を勉強したいというのは、その頃から頭にありましたか?
鈴木亘氏: 自分の中ではっきりと決めていました。私は雰囲気だけでは勉強ができなくて、文科系で何か世の中の役に立てる分野はないかと考えた時に、経済学が私の琴線に触れたんです。日本評論社で『経済セミナー』、いわゆる『経セミ』という雑誌があって、それが経済学の最先端のことを読者に分かりやすく伝えていました。法律の人は『法セミ』、数学の人は『数セミ』。当時それが非常に良く売れていた時代で、『経セミ』で、経済学の世界の環境はわりと分かっていました。
――経済学の魅力とは?
鈴木亘氏: 経済学は価値観といったものがないんです。善悪は抜きにして、純粋に「どうしてこんなことが起きるのか」ということを考える学問です。例えば「貧困ビジネス」というものがあるとします。経済学は善悪ではなく、実際にもうかるからビジネスをやっているのだろうなどという、何か合理的な理由を考えるわけです。「貧困ビジネスでもうかる仕組み」を分析して、「ここを変えましょう」というのが経済学なんです。
両親の教え「人のためになる仕事を」
鈴木亘氏: よく言われる例えですが、生活保護の分野だと、例えば法律や社会学、あるいは福祉学でも、「お腹が空いた人がいたら魚をあげよう」というスタンスなんです。ところが、魚をあげると、もっと欲しいと言って自立できなくなってしまう。では経済学はどうアプローチするかというと、「魚をあげ続けるのではなく、魚の取り方を教えてあげる」という方法をとるのです。常識とはちょっと違うし、他の学者からは「愛がない」などと言われることもあります。しかし、そのシチュエーションで何が起きているかを冷静に理解しないと、結局助けられないのです。助けるための方法を科学的に分析するために、数学や統計学を駆使する学問で、理科系に近いところもありますが、高校生の時、そこに私はピンときたんです。
――世の中のために、という価値観がなぜ強かったのだと思われますか?
鈴木亘氏: 私の親たちが、昭和1桁の全共闘の世代だったということです。その世代は、「世のため、人のため」という価値観が強くて、政治も大好きで、テレビを観ながら「バカヤロー」などと言っている。そういった人たちから「仕事をするのであれば、人のためになりなさい」と聞かされて育ってきたのが、世の中のためにといった価値観につながったのかもしれません。親たちから薦められて読んだのは、司馬遼太郎などの歴史小説が多いんですが、幕末の時代の「自分が殺されても日本を変えなきゃいかん」といった信念に影響されたのだと思います。今から考えてみると、経済を選んだのも、中学校時代に寝る間も惜しんで読んでいた司馬遼太郎の影響なのかもしれません。坂本龍馬は、利害が対立している薩長や、幕府でも、経済によってつなげる。損得を考えれば、反対する思想の人でも手を結べる。でも、そういったことが実は世の中を動かしたのだ、という発想なのです。『坂の上の雲』などもそういったところがあるし、『菜の花の沖』という高田屋嘉兵衛の話もまさにそういう内容です。後年、司馬遼太郎の講演をCDで聞いて、彼は経済観念の強い人だと改めて思いました。司馬さんは江戸時代の流通経済のようなものが、合理的な精神を生んだということをはっきり語っていて、それはまさに経済学者の発想なのです。
「やっと経済学が勉強できる」
――上智大学に進学されたのはどういった理由からでしょうか?
鈴木亘氏: 経済学の良い先生はどこにいるかを調べると、岩田規久男先生という、今は日銀の副総裁をやっている先生が上智にいる、ということが分かりました。彼の本も何冊か読んでいたので、岩田先生を目指して上智に入ったという感じです。岩田規久男先生は最終的には学習院に移られて、私を学習院に呼んでくれた、ということでもつながりが深いです。八代尚宏先生がゼミの先生で、私は八代先生がOECDから帰ってきて最初の学生でした。この2人から受けた影響は、かなり大きいと思います。
――大学時代は勉強に専念するといった感じでしたか?
鈴木亘氏: もう「ホットスタート」といった感じでした。大学に入ると力尽きてしまう人もいますが、私の場合は「経済学をやろう」とずっと思っていたので、くだらない受験勉強が終わって、「やっと経済学が勉強できる」という感じでした。上智は教養と専門と分かれていないので、1、2年で経済学の全教科を取って、3年でやることがなくなったので、大学院の授業に出ていました。
私にとって大きかった出来事は、八代先生が当時は日本経済研究センターの主任研究員をしていたときに、私を手伝いに呼んでくださったことでした。日経センターというのはシンクタンクの中でも老舗で、色々な大学の先生が労働問題や都市問題など、様々なプロジェクトをやっていたので、私としては「日経センター大学」に通っていたようなものでした。大学時代から本も書けて、すごくラッキーでした。
――大学卒業後日本銀行に入られますが、それはどういった理由からでしたか?
鈴木亘氏: 岩田先生が、その頃に日銀と「マネーサプライ論争」と呼ばれる『東洋経済』や『エコノミスト』で論争していたのを見ていたので「俺が日銀を変えてやろう」と思ったんです。私が上智に入学したのは90年で、バブルの崩壊した年ですが、まだその残り香もあって、「またバブルが来るんじゃないか」といったなんとなく明るい時代でした。卒業する94年になると「さすがにちょっとまずいね」という感じだったので、高校時代に経済に関心を持って以来、バブルと、その崩壊時の両方を私は見たのです。バブルとその崩壊の原因は色々とあるんですが、やっぱり外せないのは金融政策だと思います。経済学を単に研究するのではなくて、実践したいという気持ちも沸騰していましたので、「大学院に行きなさい」と先生に言われましたが、日銀に入ることに決めました。
日銀で感じた「組織の壁」
――日銀時代はどのようなお仕事をされていましたか?
鈴木亘氏: 4年いましたが、しょせんドン・キホーテだった気がします。日銀は巨大な組織で、100年経っても変わる素質がゼロというかんじでした。消費税を3%から5%に上げる時期に、私は景気予測の主任をやっていて、どう計算しても「景気は悪くなる」という結果が出るのだけれど、上司たちは「悪くならない」と言う。日銀の景気分析のチームには2チームあって、1つは、消費や投資とか設備投資など、コンポーネント毎に1人ずつエコノミストを配置して、それをまとめるといったAチーム。Bチームの方は、コンピューターで予測する方で、私はそっちにいました。人間は、鉛筆をなめつつ、景気が良くなるというシナリオを書けるんだけど、コンピューターでやっている方は人間を介さないから「どう考えても景気が悪くなる」という結論にしかならないから、「何を言ってるんだ」と思いました。
――日銀には「景気が悪くならない」という分析結果を出さなくてはならない、何かがあったのでしょうか?
鈴木亘氏: 金利を上げたかったんです。「円卓(まるたく)会議」で、理事会が金利を上げる時期を探っているという「天の声」が聞こえて、そっちの方向を描かざるを得なくなる。でも私の性格上それはできないので、上司の覚えが悪くなったりしたのだと思います。
もう1つ、私がいた調査統計局でやったのが、「バブル反省プロジェクト」。要するに、バブルが終わって景気が悪くなったことの総括で、上の方から「調査統計局が、やりなさい」という話があったのですが、誰もやらない。きちんと分析せずに「日銀は正しかった」などと言うと怒られるし、でも「日銀のせいです。この理事がこう言ったのが間違いです」と言ったら、それはそれで怒られるから、どっちに転んでも大やけどをすることが決まっていました。私はその時、京都支店から戻ってきたところで、何も分かっておらず、「鈴木君、やらないか?」と言われて、火中のくりを拾ってしまいました。2年くらいやって、ずいぶん苦しみましたがバブルが起きたのも、崩壊させたのも、「財務省も悪いけど、日銀も半分ぐらい悪い」というのが結論でした。でも、それを誰も認めたくないので、たなざらしになったのを見て、そういう煮え切らない組織にいてもしょうがないと思って辞めました。外から言った方がまだ言うことを聞くんじゃないか、という気持ちもありました。
役に立つ知識は、発信してこそ価値がある
――日銀を辞められてから、大阪大学の大学院に進まれますが、社会保障に関する研究を本格的に始められたのはその頃でしょうか?
鈴木亘氏: そうですね。金融やマクロ経済学を分析すれば、自分がやってきたことなので食いつなげるとは思ったのですが、その時に、日銀に潰されるだろうということを考えました。日銀を批判せざるを得ないから、前の上司たちを敵に回すことにもなるし、そういうのにうんざりした気分もありました。もう1つ思ったことは、この分野には多くの天才がいるので、「自分が1人出ていっても大したことはできないな」ということでした。そこで視野を広げてみると、社会保障の分野には先生もいないし、大学院生たちは見向きもしない。でも重要な問題が山積み、といった状態でした。
社会人を4年やっているので同期の大学院生達と世代が違うということも良かったと思います。経済学には「数学を使う奴がトップだ」という価値観があって、山頂の空気の薄いところで数学を使って生きてる連中がトップ。財政や金融がその次で、医療経済学に関しては、もはや経済学かどうかすら分からない。私は一度社会人になっているので、そもそもアウトサイダーのようなもので、そういった価値観は関係ないということも、ラッキーだったと思います。
――学術研究だけではなく、一般向けの書籍などで提言されるようになったのはどういった想いからでしょうか?
鈴木亘氏: アカデミックな世界には、いっぱい知恵がありますが、ギルド社会なので外に出そうという気はあまりないと思います。仲間内だけで難しいことをやって喜んでいて、なぜ役に立つ知恵を外に出さないのかとずっと疑問に思っていました。大学時代の先生たちも、経済学を実践するというタイプだったこともあります。財務省の言いなりではない選択肢を用意して、新書など、高校生が分かるような感じで書かないと意味がない。学者としての業績にはなりませんし、出世したければ世の中と向き合わないほうがいいのかもしれませんが、私はそれでは意味がないと思っています。
――財政の問題は、世代間などで利害が衝突することも多いですね。
鈴木亘氏: 今回消費税を上げても、社会保障に全部使うことになりますから財政再建にはなりません。でも高齢者の負担を上げると言ったら「大反対だ」と大騒ぎになります。財政危機は絶対起きると思いますが、高齢者たちなど、いま既得権を持って「補助金よこせ」と言っている人たちも譲らなければならないのです。高齢者と若者の利害対立は特に深刻ですが、保険料が上がることに反対している人たちも、払える人が払ってくれないと、あなたの孫たちがどういうことになるか、ということを理解すれば「申し訳ないな」と思うでしょう。「来年から保険料の自己負担が上がるよ」と言ったら誰でも嫌だと思うので、その背景をちゃんと説明してあげないといけないのです。
「デジタルで考える人」の出現
――電子書籍はお使いになっていますか?
鈴木亘氏: はやりものが好きなので、Kindleは真っ先に買いました。大きいのから小さいのまで、色々と持っていますが、だんだん使わなくなったというのが正直なところです。
――使わなくなってしまった原因はどこにあるのでしょうか?
鈴木亘氏: 腰を据えて考えるためには、書き込みまくって、後で読み返したり、読んだところにすぐ戻ったりできるから、最初に触れるものは紙がいいんです。電子は便利だけど、アクセス感もないし、血肉にならないというか、なんとなく頭に入ってこない。ただ、一度読んだことがあるものを、たくさん持てて、常にレファレンスできるというのは便利だと思います。私は本を持って歩く人間で、大学の時は「移動図書館」や「通信兵」などと呼ばれていました(笑)。若い頃はそれで良いのですが、40歳を超えると辛くなってくる。大阪や海外も良く行くので、旅行に行く時はKindleを持っていきます。学者ですから論文をたくさん読むのですが、論文のほとんどは電子化されているので、関心がありそうな論文を大量にダウンロードしておいて、必要な情報だけを抜きとったものなどを、飛行機や新幹線の中で読めるので、便利でいいですね。
今は「紙か電子か」というモデルになっていますが、セットにしてもいいんじゃないかなと私は思っています。紙を買うと電子版も500円などで付いてくるとすごく助かります。日経新聞の電子版を取っている人は、紙の新聞も毎朝開くけど、細かいことは電車の中でスマホで詳しく読んでいます。そういった使い分けが、電子書籍でできると便利なんじゃないかなと思います。
――教育の現場でも電子書籍によって変化がありましたか?
鈴木亘氏: スタンフォード大学などでは新入生にKindleが配られていて、教科書はもうすでに電子版です。授業のスタイルも、動画などを使ってリンクして、日本よりもはるかに進んでます。私は、ミシガン大学に1年いたんですが、パソコン1つ持っていたら、どこでも勉強できるという素晴らしい環境でした。デジタルネイティブは紙を介在しないので、おそらくこれからそういう世界になっていくのだと思います。
私にも似た経験があって、私が大学に入った頃に表計算ソフトが出て、すぐ飛びついて使っていたんです。LotusからExcelに移っていった時代ですが、私の先生たち、あるいは銀行の上司たちは、紙と電卓で「不良債権はこれぐらいになってるんじゃないか」と考える。そろばんを使っている人もいて「よく鈴木君はパソコンの前でものが考えられるな」などと言われていました。最初のアクセスがそうだったから、ものを考える時は表計算の上で考えて、ソフトがなくても、発想自体が表計算の形で頭に浮かぶのです。今は色々なプログラムがあるから、今の人はもっとすごいんでしょうね。
情報の質を担保する「セレクション」を
――電子技術で大量の情報が発信されるようになりましたが、今後の課題はどのようなところにあると思いますか?
鈴木亘氏: データを得ることのコストが安くなって、ほとんどがタダだから、お金がかかると誰も読んでくれない。情報を生み出すことで稼ぐのが、相当難しくなるんじゃないかなと思います。単価が安くなれば数で稼ぐしかないわけですが、私たちがやっているような分野は、知りたいと思う人はそれほどいないので、ベネフィットが低くなります。情報を出すことのコストも低くなって、情報が拡散するという意味ではすごくいいことなんだけれど、難しいビジネスモデルになっていくと思います。私は「もうタダでもいい」と思ってやっているところもあります。ブログなどのように「知ってほしいからやる」という動機でしか情報が出てこなくなってしまうでしょう。
それともう1つは、質が分からないことです。本当にうそ八百といったものも世の中にたくさん出回ります。私の分野を見ると、本当にゴミのような情報ばかりで読む価値がない。特に、最近は生活保護の本が多いんですが、ろくでもないのがたくさん並んでいます。本ですらそういう状況なので、ネットとなると目も当てられない混乱状態になっています。それが将来どうなっていくのか、ということにはすごく関心があります。
――しっかり分析された良い情報を、見つけ出すにはどうすればよいのでしょうか?
鈴木亘氏: クオリティをセレクションするとか、格付けすることをやらないと、本当に必要な情報にすらたどりつけない。出版の役割には、一種そういうところがあって、昔の編集者にはものの分かった人が多いので、著者を選んだ時点で相当クオリティをチェックしていたと思います。編集者が色々な意見を言って、新人を育ててくれたりするから、出た時点で本はわりと価値があるものになっていました。
電子書籍でも、格付けのようなものができて、いい本しか薦めないとか、いい本の最初の1章ぐらいをタダで提供してくれるとか、そういうビジネスになるのかなという気はします。紙の本の場合は、「この書店に行くといい本が並べてある」ということがあって、例えば経済学でも、東大の生協は、だいたいこれを読まなきゃいけないという本をそろえています。そういうモデルがあるといいと思います。
学問も実践も、「欲張り」に追求
――今後の展望をお聞かせください。
鈴木亘氏: まず、今一番力を入れているのは、大阪のあいりん地域の改革です。ここはホームレスが多くて、生活保護の割合も4割になる大貧困地区です。世界中のスラム地域の改革は追い出してしまうといった「クリアランス」でした。例えばニューヨークにソーホーというおしゃれな地域がありますが、あそこはもともとホームレスたちが住んでいたところだったんですが、放水車でみんなを追い出して、新しい街を作るということが「再生」なんです。でも、私がやっているのは、まずホームレスたちに仕事を創り出すことです。例えば不法投棄の処理とか、分別回収とか、地域の見回りなど、環境美化を仕事としてもらって、彼らが賃金を得て、ホームレスをしないでドヤに入ったり、シェルターに入ったり、ステップアップしていく形の再生を考えています。ホームレスたちは、お互いに仲が悪いことも多く、行政と地元の人たちとの仲も悪いなどといった相互不信がありますので、その間をつなぐような、小さな坂本龍馬のようなことをやっています。また同和の問題など、100年話し合っても解決しないことを、経済の観点でつなぐということにも努めています。
――経済学を世の中のために活かす、まさに学生時代からの想いが結実しているのですね。
鈴木亘氏: 本当に高校の時に考えていたようなことをやっている感じがします。純粋な学者では発想できない形で、経済を活用したいという野心が私にはあります。そして、そのような問題について、分かりやすいメッセージを発して、分かってもらうこと。「こうしなさい」じゃなくて、「こういう仕組みになっていて、こういう状況になっていて、いろいろ問題でしょ?だから、私はこうしたらいいと思う」という形でアプローチしていきたいと思います。
その一方で、本業は学者なので、学者のギルドの中で、100年後に役に立つかもしれないことを考えなければといけないと思っています。学者としての仕事は、社会保障の問題を色々と難しくする政治過程について、学術的に最先端のことができるのではないかと思っています。まだ40代なので、あと10年ぐらいはいろいろな仕事ができるだろうと、かなり欲張りなことを考えています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 鈴木亘 』