興味のあることはとことん研究し尽くす。
村上宣寛さんは日本を代表する心理学者です。愛媛県に生まれ、同志社大学を卒業後、京都大学大学院修士課程を修了。認知心理学、統計分析、性格測定が専門です。心理学に関する著作が多く、さらに趣味の登山、野宿などに関するものもあります。現在は富山大学で、人間発達科学部教授として教壇に立たれています。書き手としてもご活躍の村上さんに、読書について、また電子書籍についてもお伺いしました。
仕事の疲労回復目的で始めたハイキングが執筆につながる
――お仕事や今興味のあることについてお教えください。
村上宣寛氏: ちょうどアメリカのハイキングから帰ってきたところです。私の本にもアウトドア関係の本はたくさんあるんですが、そもそも特にハイキングが好きだったというわけではなく、頭を使う仕事なので、疲労回復のために運動する必要があったんです。そのうちに偶然PCTというアメリカのハイキングのメーリングリストに入りました。いろんな提案や議論がわき起こるのですが、みんな自分の体験でしか考えられないようでした。つまり、自分の場合はこうすれば上手く行ったという発言がほとんどです。他の人で上手く行く保証はありません。疑問に思って、論文データベースにアクセスすると、きちんとした実証的研究があります。それで、それは違うんではないかとか、下手な英語で発言していました。ハイキングの入門的内容に、そういう難しい議論を散りばめつつ、まとめたのが『ハイキング・ハンドブック』です。この本は全部、実証研究を元に書いているので、今までの常識を覆すようなびっくり仰天の話がたくさん載っています。例えば、「山に登る前にストレッチをするとけがの予防になる」というのは常識ですが、非常に多くの研究が行われていて、最新のメタ分析によると、「ストレッチしても全然けがの予防にはならない」という結論です。何を食べるか、何を着るか、荷物の適切な重さやメタボをどうやって防ぐか、といったことまで、最新の研究に準拠して執筆しました。ハイキングや登山関係者でも知らないことが多いと思います。ハイキングをやっている人で、データベースにアクセスして、実証研究のジャーナルまで読むという人はなかなかいないでしょう。この本は誰も書けないと思います。私は病的に凝り性なのです(笑)。
――アメリカのマニアックなハイカーの方とメーリングリストで議論されるんですね。
村上宣寛氏: ハイキングの英語での意味は、1泊とか数泊、それから1ヶ月から5ヶ月くらいのキャンプまでを含めた徒歩旅行なのです。日本のハイキングの意味は「日帰りで楽しい」感じで、野外で食事をするのがピクニックという感じでしょうか。本来、ハイキングにはかなり長期の山岳行動まで全部入っていて、マウンテニアリングはよじ登るという意味です。まあ、私が1番好きなのはピクニックですが。
アメリカのPCTのメーリングリストでは、大きな紙の本は持てないので、Androidなどの端末に入れて読むと言っていました。例えば、ジョン・ミューア(世界の国立公園の生みの親で有名なナチュラリスト)の著作を端末に入れて読んだり、朗読を聞いたりするそうです。ジョン・ミューアはアメリカでは超有名人ですが、日本の人は自然科学的なエッセイを好まないから、日本ではあまりメジャーではないかもしれません。
幼少の頃、記憶力が優れていた
――愛媛でお生まれになって堺で育ったとお聞きしましたが、どのようなお子さんでしたか。
村上宣寛氏: 3歳くらいの話ですが、父親が映画好きだった影響もあって、映画は大人の映画もすべて見ていて、俳優の名前は全部覚えていたそうです。また、私に絵本を1回読んで聞かせると、次にその絵本を開くと、そのページをすらすらと読み上げたという話があります。もちろん、文字は読めないので単に暗記していた訳です。親もびっくり仰天で、その後、50音表を書いた紙を天井に張り付けると、一人で、寝ころんで読み上げて覚えたそうです。親から聞いた話です。私自身は全く記憶がありませんが、今でもその能力は若干残っていて、興味のあることを誰かにインタビューすると、その時に書いたノートの走り書きなどをみれば、ほとんどそのまま再現することができます。それから、父親が商売をやっていて、どこにでも一緒に連れて行ったらしいので、早くから大人と接触していました。その影響か、小さい頃から人を見る目があったというか、直感的に他人が自分にとって良いか悪いかの判断を、3歳までにトレーニングしていたと思います。
――読書はお好きでしたか?
村上宣寛氏: 3歳くらいまで鹿児島などを転々としていましたが、父親の死後、母親が大阪に働きに出て、それからは母子家庭なので貧しかったです。小学校の時は、本を買える余裕がありませんでしたし、新聞もとっていませんでしたから、堺の図書館に通って図書館の本はほとんど読みました。図書館の本も当時はそれほどたくさんなかったので、小・中学校時代には地質学や、湯川さんの『中間子論』を読んでいました。中学校になってからも、中学校の図書館の本は大部分を読みました。どちらかというと、自然科学系統の本が好きだったと思います。
小学校の頃からアインシュタインに憧れていた。
――研究者としての道を歩もうと思ったのは、いつ頃からでしょうか?
村上宣寛氏: 小学校の時にアインシュタインの名前を知りました。自分には会社勤めは向いていないと思っていたのもあって、「アインシュタインは偉い科学者だ、自分もああいう人になりたいな」と思っていました。でも母1人子1人でしたし、経済的なことを考えると「とてもじゃないけれどなれないな」と思っていました。
――お母様は、教育に力をいれていらしたのでしょうか?
村上宣寛氏: 私の凝り性は生まれつきで、親の教育のせいではないと思っています。親は参考書くらいしか買ってくれませんでしたし、自分で自分を教育したという感じでしょうか。中学校2年の終わりくらいのことです。「受験勉強をやる」と言って、高校の受験科目の全科目の参考書を3年分買ってもらって、2、3ヶ月かけて順にやったんです。そうしたら、それまで学年の300番くらいだったのが、10番くらいになりました。それで先生はずいぶん褒めてくれました。ですが、数ヶ月の間ちょっと参考書を勉強しただけだし、成績は上がったけど、自分という人間は何も変わっていません。なんで先生はそんなに褒めてくれるのかが分からなくて、中学の先生に不信感を持ってしまいました。一応、成績がずば抜けていたので、三国丘という有名な高校に、先生が勝手に願書を出してしまいました。それで、三国丘に進学することになりました。三国丘は頭の良い子が集まる高校だったんですが、教科書に本当の事が書いてある保証はないし、本当か分からないのに勉強するのはバカバカしいと考えて、勉強は止めて、陸上部でひたすら走っていました(笑)。
――なぜ陸上部を選んだのでしょうか?
村上宣寛氏: 1人でやれるからです。もともと協調性がないので、チームワークが必要な競技は私にとって難しかった。でも体調をくずしてしまい、結局退部してしまいました。三国丘に入ると、また成績は300番くらいになってしまい、国語の成績が悪くて呼び出されたり、補習クラスに強制的に入れられたりしました。文学書を読んでないし、新聞も読んでない、ということもあって、当時、私は国語が苦手だったんです。でも、「遊んでいても国立大学くらいは入れるやろ」とも思っていました。理科系でしたけど、地学、化学、生物学、物理学は、いろいろ記憶することが多くて、とてもだめだと思い、結局、数学を選びました。実際、努力しないで、富山大学に合格しました。だれも富山大学なんて、どこにあるか、知らなかったですね。三国丘高校はレベルが高くて、私のクラスの10人くらいが京大に入ったんです。500人中400人は進学しました。今振り返ってみると恐ろしい高校でした。
著書一覧『 村上宣寛 』