村上宣寛

Profile

1950年、愛媛県生まれ。京都大学大学院修了。日本でも数少ない包括的な心理テストの教科書『臨床心理アセスメントハンドブック』の著者。認知心理学、統計分析、性格判定に関するプログラム開発等が専門。その他の著書に『心理学で何がわかるか』(ちくま新書)、『心理テストはウソでした 受けたみんなが馬鹿を見た』(日経BP社/講談社+α)、『IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実』(日経BP社)、『性格のパワー』(日経BP社)、『野宿大全 究極のアウトドアへの招待』(三一書房)、『主要5因子性格検査ハンドブック 改訂版』(共著。学芸図書)、『ハイキング・ハンドブック』(新曜社)等がある。

Book Information

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興味のあることはとことん研究し尽くす。



村上宣寛さんは日本を代表する心理学者です。愛媛県に生まれ、同志社大学を卒業後、京都大学大学院修士課程を修了。認知心理学、統計分析、性格測定が専門です。心理学に関する著作が多く、さらに趣味の登山、野宿などに関するものもあります。現在は富山大学で、人間発達科学部教授として教壇に立たれています。書き手としてもご活躍の村上さんに、読書について、また電子書籍についてもお伺いしました。

仕事の疲労回復目的で始めたハイキングが執筆につながる


――お仕事や今興味のあることについてお教えください。


村上宣寛氏: ちょうどアメリカのハイキングから帰ってきたところです。私の本にもアウトドア関係の本はたくさんあるんですが、そもそも特にハイキングが好きだったというわけではなく、頭を使う仕事なので、疲労回復のために運動する必要があったんです。そのうちに偶然PCTというアメリカのハイキングのメーリングリストに入りました。いろんな提案や議論がわき起こるのですが、みんな自分の体験でしか考えられないようでした。つまり、自分の場合はこうすれば上手く行ったという発言がほとんどです。他の人で上手く行く保証はありません。疑問に思って、論文データベースにアクセスすると、きちんとした実証的研究があります。それで、それは違うんではないかとか、下手な英語で発言していました。ハイキングの入門的内容に、そういう難しい議論を散りばめつつ、まとめたのが『ハイキング・ハンドブック』です。この本は全部、実証研究を元に書いているので、今までの常識を覆すようなびっくり仰天の話がたくさん載っています。例えば、「山に登る前にストレッチをするとけがの予防になる」というのは常識ですが、非常に多くの研究が行われていて、最新のメタ分析によると、「ストレッチしても全然けがの予防にはならない」という結論です。何を食べるか、何を着るか、荷物の適切な重さやメタボをどうやって防ぐか、といったことまで、最新の研究に準拠して執筆しました。ハイキングや登山関係者でも知らないことが多いと思います。ハイキングをやっている人で、データベースにアクセスして、実証研究のジャーナルまで読むという人はなかなかいないでしょう。この本は誰も書けないと思います。私は病的に凝り性なのです(笑)。

――アメリカのマニアックなハイカーの方とメーリングリストで議論されるんですね。


村上宣寛氏: ハイキングの英語での意味は、1泊とか数泊、それから1ヶ月から5ヶ月くらいのキャンプまでを含めた徒歩旅行なのです。日本のハイキングの意味は「日帰りで楽しい」感じで、野外で食事をするのがピクニックという感じでしょうか。本来、ハイキングにはかなり長期の山岳行動まで全部入っていて、マウンテニアリングはよじ登るという意味です。まあ、私が1番好きなのはピクニックですが。

アメリカのPCTのメーリングリストでは、大きな紙の本は持てないので、Androidなどの端末に入れて読むと言っていました。例えば、ジョン・ミューア(世界の国立公園の生みの親で有名なナチュラリスト)の著作を端末に入れて読んだり、朗読を聞いたりするそうです。ジョン・ミューアはアメリカでは超有名人ですが、日本の人は自然科学的なエッセイを好まないから、日本ではあまりメジャーではないかもしれません。

幼少の頃、記憶力が優れていた


――愛媛でお生まれになって堺で育ったとお聞きしましたが、どのようなお子さんでしたか。


村上宣寛氏: 3歳くらいの話ですが、父親が映画好きだった影響もあって、映画は大人の映画もすべて見ていて、俳優の名前は全部覚えていたそうです。また、私に絵本を1回読んで聞かせると、次にその絵本を開くと、そのページをすらすらと読み上げたという話があります。もちろん、文字は読めないので単に暗記していた訳です。親もびっくり仰天で、その後、50音表を書いた紙を天井に張り付けると、一人で、寝ころんで読み上げて覚えたそうです。親から聞いた話です。私自身は全く記憶がありませんが、今でもその能力は若干残っていて、興味のあることを誰かにインタビューすると、その時に書いたノートの走り書きなどをみれば、ほとんどそのまま再現することができます。それから、父親が商売をやっていて、どこにでも一緒に連れて行ったらしいので、早くから大人と接触していました。その影響か、小さい頃から人を見る目があったというか、直感的に他人が自分にとって良いか悪いかの判断を、3歳までにトレーニングしていたと思います。

――読書はお好きでしたか?


村上宣寛氏: 3歳くらいまで鹿児島などを転々としていましたが、父親の死後、母親が大阪に働きに出て、それからは母子家庭なので貧しかったです。小学校の時は、本を買える余裕がありませんでしたし、新聞もとっていませんでしたから、堺の図書館に通って図書館の本はほとんど読みました。図書館の本も当時はそれほどたくさんなかったので、小・中学校時代には地質学や、湯川さんの『中間子論』を読んでいました。中学校になってからも、中学校の図書館の本は大部分を読みました。どちらかというと、自然科学系統の本が好きだったと思います。

小学校の頃からアインシュタインに憧れていた。


――研究者としての道を歩もうと思ったのは、いつ頃からでしょうか?


村上宣寛氏: 小学校の時にアインシュタインの名前を知りました。自分には会社勤めは向いていないと思っていたのもあって、「アインシュタインは偉い科学者だ、自分もああいう人になりたいな」と思っていました。でも母1人子1人でしたし、経済的なことを考えると「とてもじゃないけれどなれないな」と思っていました。

――お母様は、教育に力をいれていらしたのでしょうか?


村上宣寛氏: 私の凝り性は生まれつきで、親の教育のせいではないと思っています。親は参考書くらいしか買ってくれませんでしたし、自分で自分を教育したという感じでしょうか。中学校2年の終わりくらいのことです。「受験勉強をやる」と言って、高校の受験科目の全科目の参考書を3年分買ってもらって、2、3ヶ月かけて順にやったんです。そうしたら、それまで学年の300番くらいだったのが、10番くらいになりました。それで先生はずいぶん褒めてくれました。ですが、数ヶ月の間ちょっと参考書を勉強しただけだし、成績は上がったけど、自分という人間は何も変わっていません。なんで先生はそんなに褒めてくれるのかが分からなくて、中学の先生に不信感を持ってしまいました。一応、成績がずば抜けていたので、三国丘という有名な高校に、先生が勝手に願書を出してしまいました。それで、三国丘に進学することになりました。三国丘は頭の良い子が集まる高校だったんですが、教科書に本当の事が書いてある保証はないし、本当か分からないのに勉強するのはバカバカしいと考えて、勉強は止めて、陸上部でひたすら走っていました(笑)。

――なぜ陸上部を選んだのでしょうか?


村上宣寛氏: 1人でやれるからです。もともと協調性がないので、チームワークが必要な競技は私にとって難しかった。でも体調をくずしてしまい、結局退部してしまいました。三国丘に入ると、また成績は300番くらいになってしまい、国語の成績が悪くて呼び出されたり、補習クラスに強制的に入れられたりしました。文学書を読んでないし、新聞も読んでない、ということもあって、当時、私は国語が苦手だったんです。でも、「遊んでいても国立大学くらいは入れるやろ」とも思っていました。理科系でしたけど、地学、化学、生物学、物理学は、いろいろ記憶することが多くて、とてもだめだと思い、結局、数学を選びました。実際、努力しないで、富山大学に合格しました。だれも富山大学なんて、どこにあるか、知らなかったですね。三国丘高校はレベルが高くて、私のクラスの10人くらいが京大に入ったんです。500人中400人は進学しました。今振り返ってみると恐ろしい高校でした。

環境を整えるために、食費を削って書籍を買った時代


――富山大学に入られてからは、どのように過ごされていましたか?


村上宣寛氏: 大学に入ってから、一応は独立して生活しました。家庭教師を一つだけしましたけど、バイトは時間の無駄だからしませんでした。お金は親から貰いました。生活費を1万くらいと決めて、食費を削り本代に2、3万使っていました。頭の能力は皆変わらないのだから、少なくとも環境で負けないようにしないといけないと思い、本当にたくさんの本を買いました。本棚はもったいないので買わなかったです。置き場に困ったので、本を平積みして、本を壁がわりにしていていました。当時、岩波講座の世界歴史などの大講座本を買っていましたが、今だったらもう手に入らないでしょう。とりあえず、手当たり次第買って読みました。その当時、心理学関係で言うと、ヤスパースの『精神病理学総論』などの古典的著作も読んでいました。印象深かったので、今でもその本は持っています。数学専攻の学生がこんな本を読んでいるというのもあまりないでしょう。

入学してしばらくすると、激しい学生運動に巻き込まれました。小さい大学ですから、無関心派というわけにもいかず、自治委員とか選挙管理委員をやって、そこそこ関与しました。そのうち、大学はロックアウトになり、授業がなくなりました。若干の学生運動的活動のほかはずっと本を読んでいました。下宿は本だらけで、どうにもならない状況になりました。数学も全集的な本を10冊程度購入して、一人で読んでいました。また、友人と研究会を作って勉強していました。多少は抽象的に記号の推論ができるのですが、どうも自分には才能がなさそうでした。数学を一生やる気にはなれなくて、転向を考えました。当時、夏目漱石にもかぶれていて、高校の友人に頼んで立派な菊判の夏目漱石全集を手に入れてすべて読みました。漱石の研究書もかなりの数を集めて読みました。夏目漱石の評論を書いて、評論家になろうかとも考えました。

ある日、国文学に転向しようと思って、国文学の先生に相談に行くと、みっちりと草書体の文字が印刷された本を見せられて、国文学をするなら、これを読まないといけません、なんて言われました。正直言って、目が点になってしまいました。宇宙人の文字にしか見えないんです。まあ、マトリックスという映画に出てきた、訳の分からない記号の列でしたね。即、国文学から撤退です。

まあ、それで、数学はダメ、国文学はダメということになりました。どうにもなりません。数学と国文学の中間くらいの学問はないかと探すと、心理学がありました。それで心理学の全集的な入門書を10冊ばかり読んで、こちらに進むことにしました。さあ、富山大学はやめて、どこかの大学に入り直さないといけません。当時、編入学を認めていて、心理学の専攻がある大学は、あんまりなかったんです。関西では、甲南大学、立命館大学、同志社大学あたりだったと思います。私学となると、授業料が心配でした。同志社大学が一番安くて年10万円くらいだったです。

学園紛争も収まり、授業も始まったのですが、私は大学に行かず、心理学の勉強を続け、編入試験に必要なドイツ語と英語の勉強をしていました。本当は退学しないと他大学の編入試験は受けられなかったのですが、数学の先生が教授会で受験許可の特別決議をしてくれました。どうせ落ちるから、そのときに帰る場所がないとかわいそうだという理由です。まあ、期待を裏切って合格しちゃったんです。

同志社に編入学した時には、心理学を十分勉強ずみでした。心理学の15冊の専門的講座本もほとんど読んでいましたし、大学のレベルが低いと感じましたね。講義を聴いた後は、先生が紹介した文献を可能な限り読みました。卒業の時には評定尺度法の研究をしたんですが、これには因子分析法という統計解析が必要になるんです。それで、工学部のコンピュータを無理矢理使いました。理解は不十分でしたが、FORTRANというプログラミング言語を勉強しました。

面白いことに、後で聞いたら、富山大学の数学の友人もコンピュータのプログラミングをして行列式の解析をやっていました。私の因子分析法も行列式の解析です。場所は変わっても、皆、似たようなことをしているんです。時代がそうさせたんでしょう。

大学に就職となると京大が有利ということで、京大の大学院に進学しました。なんだかしらないけど、ここっていう時には強いんです。京大の大学院も入ってみると、そんなにレベルは高くなかったです。いくつか、論文を書いたら、目立ちました。博士課程の一年生の時、富山大学から公募があって、嫌な予感がして、雲隠れしたんです。ゼミの先生から電話がかかってきて、叱られて、どうしても応募しろというんです。いやいや書類をまとめましたね。そういえば、健康診断にも行っていなかったから、近所のお医者さんに書いてもらいました。嫌な予感は当たるんです。



――京都大学大学院を中退されて、研究者になられて、認知心理学、統計分析、性格測定に関するプログラムを開発されることになるわけですね。プログラム開発に関してはご苦労はありませんでしたか?


村上宣寛氏: やり始めると夢中になってしまうので、苦労とか、そんな感覚はないです。純粋に病的に凝り性なので、BASICのプログラミングを始めた時は本当に1日8~10時間くらいやっていました。朝8時前に大学に行くと延々とプログラミングをやる訳です。たいして授業をしていませんでした。5時になると、ぱっと止めて帰ります。次の日、またプログラミングします。それの繰り返しです。ついにBASICで夢まで見ました。数ヶ月すると、プログラムが書けるようになったので、『インフォメーションサイエンス』というパソコン雑誌に投稿したら、採用されたので、それから不定期に雑誌に投稿して、お金を貰いながら、プログラミングの練習をしました。

たまたま家内が当時の富山医薬大の精神医学教室で、ロールシャッハをやることになって、記号の集計処理が大変なので、BASICでロールシャッハのテストの整理プログラムを作ったんです。なんとか動く程度のできだったんですが、それに家内がいたく感激して、「『インフォメーションサイエンス』に売り込んでみてよ」と指示されました。いやいや東京まで出かけて編集者と会うと、即座に「標準となるテキスト」を書いて欲しいと言われました。なんとかなるだろうと適当に引き受けたんです。その後が大変で、頼りにしていた片口さんのテキストは役に立たず、ベック、クロッパー、エクスナなどの原典に当たり、全部、ゼロから調べ直して書きました。解釈ルールをドキュメント化すると、自動解釈も簡単だと分かり、販売と同時に自動解釈ソフトの開発に取り組みました。しばらくすると、ロールシャッハ解釈の妥当性(テストの正しさ)のエビデンスがほとんどないことに気づき、ミネソタ多面人格目録の翻訳と短縮版の作成、主要5因子性格検査の作成へと向かった訳です。

インフォメーションサイエンスという出版社が潰れ、日本文化科学社からロールシャッハの本とソフトを販売しなおす時に、BASICではとても心配だったので、保守性の高い信頼できる言語を探しました。Modula-2が良さそうだったので、3ヶ月でなんとかマスターして、1万5千行くらい書きました。それで、ミネソタ多面人格目録のプログラムもModula-2で書きなおしました。その後、Windowsの時代が来るんです。ところが、Modula-2のWindows版がありません。焦りました。類似言語としてはPascal、Adaがあったんですが、Pascalは設計が古くて非力、Adaはあまりにも難しく手に負えません。Visual Basicは嫌いでした。悩んでいると、幸い、Delphiという言語が現れました。PascalとModula-2を合わせたような言語です。結局、すべてのプログラムをDelphiで書き直しました。一つのプログラムが1万行くらいですから、十数万行書いた訳です。

なぜ、そんな言語を使っているかというと、ミネソタ多面人格目録や主要5因子性格検査ではマークカードリーダーを動かすソフトを書かないと実用にならないからです。一種の通信ソフトですから、低レベルのコマンドが使える必要があります。幸い、ライブラリを開発する人がいて、そのライブラリを使うと、マークカード等の機器をコントロールできるようになります。マークカードリーダーのプログラムが出来れば、それを使って、数百人、数千人のデータの自動処理が可能になります。性格検査は作成しただけではダメで、妥当性(テストの正しさ)、信頼性(テスト得点の安定性)の研究をして、数千人規模の全国標準化をする必要があります。性格検査は一つ作成して標準化まで5年ぐらい掛かりました。すべて妥当性と信頼性の研究をしてから販売しています。プログラミングが出来なければ、10人、20人の研究者が10年ばかりかかっても出来るか不明というレベルの大変な作業量です。しかし、分析ソフトを開発して、計画的に実行すれば、労力はかなり少なくて済みます。だから、自分ではあまり苦労した記憶はありませんね。凝り性というか、そういう病気なので、治らないですね。

妻に勧められて『野宿完全マニュアル』を執筆。


――執筆を始められたのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?


村上宣寛氏: 私は良いパートナーに恵まれていると思います。家内との出会いは同志社の学生の時ですが、家内は1つ上の学年で、研究を手伝ったのがきっかけで一緒になりました。私の父は呉服関係や焼き物の商売をしていたのですが、家内も私と同じく商売の家の生まれという共通点があったんです。お互い小さい時から人にもまれているから、人を見る目が養われていった。その妻に、『野宿完全マニュアル』を書けと最初に言われた時、正直「面倒くさいな、どうしよう」とも思いました。でも、人に言われないとやらないタイプというか、人に言われてもなかなかやらないタイプで、不承不承に出版社に働きかけると、アウトドアの好きな編集者がいて、即、OKだったので、出版を前提に一気に書きました。

――奥様の一言がなければ、執筆はされていなかったと思いますか?


村上宣寛氏: 本は書かなかったと思います。日経BPの編集者が『野宿完全マニュアル』を見て感激して、私が日刊工業から出した『最新コンピュータ診断性格テスト』という本を『野宿完全マニュアル』のタッチで書き直してくれと言われました。それが『心理テストはウソでした』です。書き方も、編集者が章の始めに必ずエピソードを入れろ、などと色々と細かい注文をつけました。編集者の指示が幸いして、あの本はだいぶ売れました。そういえば『最新コンピュータ診断性格テスト』も別の編集者が持ちかけてくれた依頼本でした。

『心理テストはウソでした』が予想以上に成功しましたので、日経BPの編集者から次々に執筆依頼があるわけです。基本は彼が読みたいと思ったテーマの本を私に提案して書かせるんです。したがって、彼が読みたいと思った本を私が書いただけです。その後の本はそこそこしか売れていませんが、それが普通らしいです。個人的には専門的内容の普及書が書けたので、良かったと思います。いろいろ本を出すと、今度はちくま新書から依頼があったりと、一端、本を書くと、いろいろなつながりが出来てくるんです。偶然がどんどん重なります。今度のハイキングの本も、ちょっとした偶然の重なりからですね。偶然が一杯重なると、ちょっと運命みたいな雰囲気になります。きっと書くべき運命だったんですよ。

編集者は自分にとって「触媒」みたいなもの


――村上さんにとっての出版社、また編集者の役割に関してはどのようにお考えですか?


村上宣寛氏: 編集者がいないと私は本が書けなかったと思います。編集者が原稿を読んでくれて、感想を聞かせてくれると私は書けるのです。触媒みたいなもので、いないと全く反応が起こらない。『IQってホントは何なんだ?』、『心理学で何がわかるか』、『性格のパワー』など、みんな依頼原稿です。編集者に言われて、さてどうしたものかと途方にくれます。それで、文献データベースに当たってしばらくすると、章立てなどが段々できあがります。最初から章立てを計画して書いたように見えますが、全然違います。全く適当に書き始めています。少し進むと、構造化されていきます。最終的に緻密に計画を立てて書いたように見えるだけです。私はあまり積極性とか自主性がないんです。編集者に言われると、ゆっくりと頭が働き出します。執筆し始めると夢中になり、後は止まりません。だいたい1冊、1年で書いています。

――村上さんを駆り立てる原動力はなんだと思われますか?


村上宣寛氏: あまり考えたことはないですが、要するに、「分かっていることは書ける」「分かってないことは書けない」ということではないでしょうか。理解していないと、書き方、表現方法も悪くなってしまいます。分かっていることは書きやすいし、分かりやすく書ける。だから私の場合、自分の知らないことを調べていって、分かったことを書いているだけという話です。書く時に大切なことは「分かってないことに対して、分かったように書かない」ことではないかと思います。

電子書籍に感じるメリットとは


――ユーザーが電子書籍で読むことについては、どのようにお考えですか?


村上宣寛氏: 私の本も電子書籍化させてほしいという話がきていて、心理テストの本も電子書籍になります。絶版本の代わりとして出せるという点に関してはありがたいと思います。私自身は電子書籍にはネガティブなので、本は紙で全部買っていますし、音楽も全部CDで買っていますので、ダウンロードはしません。紙ならばいつでも開けられますから。

――電子書籍の可能性はどのようなところにあると思いますか?


村上宣寛氏: 先ほどもお話しましたが、普通なら絶版になる本が電子書籍なら読めるということでしょうか。あとは誰かが書いていたけれど、マルチメディア的になったらそれは面白いと思います。今の電子書籍は、紙の本を焼き回しているだけで変わらないのだから、どっちを買うかと言われたら紙の本になります。リンクを作ったり、音声やビデオが入ったりしたらまた全然違うかもしれません。まだ電子書籍専門に編集したものはないでしょう。本を作るためにお金も掛けていないですし、値段もまだ高いです。非常に部数が少ない本を手に入れることができたり、部数が少なくても出せたり、絶版になる本でも電子書籍にできる。そういうメリットがあるだけで、どちらかというと後ろ向きです。電子書籍はランダムアクセスができないし、電子書籍を読んだら何ページ目か何%かというのが出るだけで、感覚として分からない。電子書籍に書き込むのも難しいし、アンダーラインを引くのも難しい。本は置いておくだけで、いつでも存在感があるけれど、電子書籍はスイッチを入れなきければ存在感がないし、Kindleのアプリケーションも開かない限りその存在を忘れてしまいます。

私の入っているメーリングリストの話ですが、普通のメールが順に届くだけです。フォルダには分けていますが、放っておいても無理やり目に飛び込んでくるし、飛び込んできたメールに関してはすぐ読みますし、その存在を忘れることはないのです。ところが今はもっと進んだウェブシステムがあって、テーマごとに区分されていて、そこに書き込むようになっています。だから読む人はそのウェブにアクセスしないといけないので、面倒くさい(笑)。だから、最新式のメーリングリストが優れているという訳でもないんです。

電子書籍も本棚のような形で保存しておいて、本棚をタッチするとアプリケーションが動いて読めるようになるとか、そういうのでないとダメなのではないでしょうか。家で本棚から取り出して本を読むといった、同じような形にしないといけない。本棚は自分で見ないといけないけれど、選んだら読書アプリケーションが開いて、以前に読んでいたのはここでしたよという風になっているといいと思います。本棚はこれからも必要だろうし、タブレットにも本棚は必要だと私は思います。まあ、タブレットを触ると、「この本、続きを読んでみませんか」とか、しばらく読んでいない本を読むように促すアプリがあると、いいかもしれませんね。

2015年に退官予定。大量の本は車庫に保管


――最後に今後の展望をお聞かせください。


村上宣寛氏: 2015年に退官の予定ですので、家の車庫をつぶして、荷物を持ち帰っているんです。私の専門は実証科学だから、20年前の本はあまり価値がありませんし、もう読めないから全部捨てています。読まない本は、古本で売っても金にならないし、申し訳ない気もしますが私はゴミに出しています。退官後はあまり仕事はせず、興味のあることをやっていきたいですね。出版社はもうからないと出してくれないので厳しいところもありますが、何か需要があれば書きたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 村上宣寛

この著者のタグ: 『大学教授』 『心理学』 『研究』 『教育』 『研究者』 『登山』 『アウトドア』 『ハイキング』 『編入』

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