天才との出会いで「断筆宣言」
――高校、大学と武庫川女子に進まれますね。
高殿円氏: 母も武庫川だったという不思議な縁もあって、高校は武蔵川女子大学の付属に進みました。父の健康問題で中学校2年の後半という中途半端な時期に引っ越しをしたんですが、前がとにかく田舎だったので、勉強しなくてもそこそこ成績が良かったんです。ところが引っ越してきたところが神戸の第3学区という一番厳しいところで、いきなり100番ぐらい成績が落ちた。今まで自分が勉強できると思っていたので、相当なショックで(笑)。中学校2年生の後半からでは都会の勉強に対応できなくて「もうだめだ」と思っていたら、たまたま武庫川が私たちの代から専願制になった。先生がそれを勧めてくれ、母も武庫川だったのでなんとなく決めてしまったんですね。実はその頃私の頭の中には『銀河英雄伝説』しかなかったので、早く続きが読みたいということばかり思っていました。そういうわけで早い時期にテストを受けて通った私は、みんなが苦しんでいる時に、ひたすらロイエンタールが死んだことを嘆いていたりしていました(笑)。
――大学時代は、創作の方はされていましたか?
高殿円氏: 小説は不勉強で書いてなくて、漫画が好きなものですから、漫画ばかり描いていました。でも、大学時代にその後の創作スタイルを変える事件がありました。私が大学4年の時に入ってきた1年生の部員が、現役の漫画家さんだったんです。叶嵐さんという方なのですが、これが本当にびっくりするぐらいうまかった。天才を前にして、「もう絶対にこれは超えられない」と潔く断筆宣言をしました(笑)。その叶さんから、「雑誌を新創刊するのに声をかけられているから、先輩何か話を考えてよ」と言われたのがおそらくプロの仕事の始まりです。原作家としてのスタートの方が早かったんです。
――叶さんとの出会いが大きな転機になったんですね。
高殿円氏: あの出会いがなかったらしょうこりもなく漫画をまだ描いていたかもしれません。私の原作で、叶さんが連載をやっていたのですが、実際学生の身で月刊連載はかなりしんどい。武庫川は単位がかなり厳しいので、叶さんが少し仕事を休んで大学に専念することになったのです。私はその頃はすでに就職していましたが、原作を書くことがなくなったので、「なにか作るには自分でやれることをやるしかない。それなら小説でも書いてみるか」という流れでした。小説を2本書いて、ネットで好きな人たちにだけ見せていたら、2本目の小説が原稿用紙で250枚ぐらいで、たまたまネットで読んだ友人に「せっかくだから何かに応募したら」と勧められて、生まれて初めて『公募ガイド』を買って、よく考えず一番締め切りの早いものに送りました。それで2000年の角川学園小説大賞奨励賞をいただいて、それからお仕事をいただくようになって、今に至ります。
受賞時は、応募したことを忘れていた
――受賞の知らせを聞いた時はどのようなお気持ちでしたか?
高殿円氏: 本当に軽いノリで出したので、応募したことをすっかり忘れていました。ちょうど叶さんと漫画連載のためにシェアしていた部屋を、一人暮らしをするために出ていったあとに、角川の部長さんから受賞の報告の電話がかかってきたらしいんですね。なのに受賞者に電話したら受賞者がいなかった(笑)。なにせ忘れていましたから。彼女が携帯の番号を教えたらしく、私が仕事が終わって遊びに行くところに電話がかかってきたんです。知らない番号だし誰か分からないし、とにかく早く切りたくて。しかも私はアイスもなかを食べていて「アイスが溶けてしまうよ~」などと思いながら電話に出ていたのを覚えています(笑)。私があまりにも不機嫌だったのか、部長さんがだんだん声が小さくなっていって、最終的に「あの、小説を書いた覚えありますか?」と言われました。
――それはすごい話ですね(笑)。ところで、旦那さまとはどういったきっかけで知り合われたんですか?
高殿円氏: もともと会社の同期です。23歳の時に受賞して、24歳の時に最初の本が出たんですが、そのころの仕事(診療所勤務)は朝がとにかく早く、夜も遅く、しかも休みがなかった。今でも覚えているのが、朝の7時に行って病院を開けて、12時に午前中の診療が終わって、12時から夕方の5時まで病院の診察ベッドで寝て、それからもう1回夜間診療が9時まであって、それから帰って徹夜で書くという生活でした。そいう生活を続けていたら体を壊しそうになって、その時に主人が「一緒に住んだらいいんじゃないか」と言ってくれたんですね。半年ぐらい経った時、今のお姑さんに「一緒に住むならそろそろちゃんとしなさい」と言われて急いで式場を探して、26歳で結婚しました。でも、実は式だけ挙げて入籍せずに放置していたんですよ(笑)。というのは、姓が変わるということに対して「何で女だけ変わらないといけないんだ」という思いがあった。たまたま妹が法律関係の仕事に就いていて「そろそろ夫婦別姓の法律が通るよ」と教えてくれたので期待していたんですが、今はもうさすがに変えました(笑)。
――その頃は小説家として身を立てていく決意をされていましたか?
高殿円氏: 2年ぐらいがむしゃらに小説を書いて、ものにならなかったらきっぱり諦めて病院の仕事に戻ろうと思っていました。それで気がつけば13年経っていたというような感じですね。若い時だったからできたと決断だと本当に思います。それに今はもう徹夜はできませんしね(笑)
自分の中の「5歳児」を手なずける
――作家としての仕事を得ることにはご苦労はありましたか?
高殿円氏: あの頃はいろんなところに「どんな仕事でもやるよ」ということを言って回っていました。ちょっとエッチ系の雑誌のゴーストライターのような仕事をしたりしましたし、お金になることならなんでも。7月からアニメになる『魔界王子』が連載されている『コミックZERO-SUM』の担当Kさんとの出会いもそうでした。友人の漫画家さんが「うちの担当さんが歴史物をやりたいと言っていて、原作をやれる人を探しているんだけれど」とインターネットの仲間だけの掲示板で教えてくれたのでそれに即食いついて。あの頃Kさんが「とにかく『ZERO-SUM』で出た新人さんを売りたいんだ!」と熱く語っていたのを今でも覚えています。ようやくアニメ化作品を出せたので恩返しできたかなという気がしています。
――作家としての13年間で、意識が変わったことなどはありますか?
高殿円氏: とにかく最初は売れなかったんで(笑)。今と比べれば悪くない数字だったんですが、当時の足きりレベルというのが今よりもずっと厳しかった。作品的には玄人好みという風によく言われて、とても好きになってくださっている方はいるんだけれど、それが決して広くはない。どうやったら広く受け入れてもらえるんだろうと七転八倒していたことを覚えています。
実際趣味が仕事になったので、仕事として書くことがどういうものであるかを13年かけて身につけた感じです。つまり、作家というのは読者さんに少しずつお金を出してもらってやっと食べていける職業なんだと。そのことを日々実感しながら書くとなかなかバッドエンドは書けない。読者さんは気持ちよくなるためにお金を払っているのに、作家のほうで自分の都合や自分のよく分からない芸術性などを押しつけるのは大変見苦しい、ということをいつのころだったか覚りました。
最近思うのが、難しいものを難しく書くのは誰にでもできるわけで、難しいものを簡単にして出すのがこの仕事で、しかも恥ずかしいものを恥ずかしいままお皿に載せて出すことは本当に難しいことだということ。私は自分が天才でないことをよく分かっているので、一番邪魔なのが自分の(他者にとってはどうでもいい)中途半端な芸術性だったりするんです。つまり作品を作るということは、自分のやりたいことをいかにコントロールするか、自分の中のやんちゃな5歳児のようなものをどう手なずけるのかということなのかなあと。