人とは違う自分を感じたから、表現に夢中になった
――幼少期の頃のお話をお聞かせ下さい。
加藤文氏: 僕は北海道で生まれて、父が国家公務員でしたので東京から北海道の間を大体3年ごとに移動して、生活をしていました。普通の子どもで友達はいたけれど、自意識過剰なのか、野球をみんなとやって1つになるとか、そういう心が1つになるという経験を1度もしたことがありませんでした。それで、小学校の高学年に近づくにつれて、「もしかしたら自分は人と違うんじゃないかな」と思うようになりました。そのうち、みんなの輪の中で心が1つになれないことは、書くとかギターを弾くとか、写真を撮るとか絵を描くことでは解消はされないけれども、救いになるんじゃないかなと考え始めました。これが小学校を卒業する前後の話です。
――その頃からものを書くようになったのですか?
加藤文氏: 小学生の間は自分が具体的に何をやったらいいかわかりませんでした。そして中1になって、まさに今はやりの中二病を発病しました。洋楽を大量に聴き初め、辞書を引きながら、英詞の歌詞カードを読んでいるうちに、何か自分でも表現したくなりました。そこで、中2のとき担任である国語の先生に渡す連絡日誌に、詩を書いたんです。そうしたら、「もっと色々書いたり読んだりしろ」と言われ、それで詩を書いたり、中古屋で買ってきた安いカメラで写真を撮り始めたんです。そして高校へ進む前後に、谷川俊太郎さんの詩に出会いました。わからないんだけれどもわかるという点で、僕にとっては聖書やお経と同じでした。また起点の1つでもあったんです
大学時代から広告業界にインターンシップ
――その後、明治学院大学に進まれましたね。
加藤文氏: 大学では社会学部に入り、写真を撮り続けていました。とにかく表現者として膜をかぶっているみたいな感じがして、何か自分と他人が相入れないものがあるからこそ伝えたいものがあった。あと、言葉をしゃべっていても、常にどこかにうそがあったり言えないことがあったりするのをどうにかしたい、という強い欲求があり、表現し続けてきました。ところが、表現者になれるといざ広告業界に入ってみたら全くそういう業界ではなかったんです。それで小説を書き始めることにしました。
――最初に『厨師流浪』という、ノンフィクションのジャンルを選ばれたのはなぜでしょうか?
加藤文氏: ノンフィクション・ノベルなので、モデルのすべてを記録的に順を追って書いていくのではなく、自由なところに枝葉を伸ばすことはできるという作法が気に入りました。ただ最初は、右も左もわからずに書いていきました。
――そのあとには、『電光の男』というフィクションを書かれています
加藤文氏: モデルはいるんですけど、フィクションに変化していくわけです。そこには特に理由はないんですが、あまりノンフィクションに縛られるのも良くないというのはありました。実は未完の長編で、まだ世の中に出ていない原稿があるのですが、それはもう完全なフィクションです。
――広告業界へ学生の頃から嘱託として潜り込んでいたということですが、どういうきっかけがあったのでしょうか?
加藤文氏: 自慢じゃないんですが、勉強をちゃんとやっていたんです。でも、学校で勉強することと同時に自分から大人の世界にアプローチしたい想いがすごく強くかったんです。最初はスタジオマンのバイトで仕事をしながら、写真に関する自分の表現を広げていき、出版社など色々なところに売り込みにも行って仕事をもらっていました。自分のポートフォリオを持っていって売り込むわけです。こういうことをずっと続けていたら、たまたま広告代理店の窓口がわかり、そこに売り込みに行くと、「じゃあイベントをやるから、そのイベントに付きっきりになって、とにかく写真を撮ってよ」と言われました。そこから広告業界に入っていったわけです。
出張もしましたし、イベントで全国各地を飛び回りました。大学を卒業した時に、「君、どうするの」と聞かれて、「じゃあ就職します」とお返事して、その会社に入ったんです。
ノンフィクションからフィクションへ
――人物、そして仕事、業績、食などといったところをテーマに扱おうと思ったのはどうしてでしょうか?
加藤文氏: 食に関しては実は後からついてきたことなのです。もともと食いしん坊で、自炊もしていました。それで、たまたまそういうシーンを書いた時に意外とうまく書けていたのをほめてくださる方もいて、食についての本の依頼がくるようになったんです。自分で食の話を書こうとは思ってはいなかったです。どちらかというと人物相手に書こうと思っていました。なぜ未発表のままの作品がフィクションでノンフィクション・ノベルではないかというと、正直、魅力を感じる人物がこの時代にいなかったので、フィクションという方向になりました。
――どういった人物が魅力的なのでしょうか?
加藤文氏: 僕らは外で出会っているからこういう襟を正したコミュニケーションの仕方をしているけれども、自宅に行ってみたら、実はさるまた1つで歩いていたりとか、扇風機の前でパタパタやっていたりするとか、それらを含めて人物が面白くなるんです。一例を挙げれば『アイアンマン』が映画として成立して面白いのは、彼の人間の欲や弱さ、悪さなど、そこがいい具合にブレンドされているからだと思います。僕は何かを表現していく上で、自分や相手の弱さとかカッコ悪さというものも同じような比率で表現されていた方がいいんじゃないかと思っています。どんな人にも、裏表があるからこそ面白いのであって、一面しかなかったら化け物でしかないと思います。この対比の、自分なりの基準にかなう人物がなかなか見つからない時代です。
著書一覧『 加藤文 』