分野を全て飛び越えられるのが、美術史の魅力
――美術館ではどのような仕事をされてらっしゃいましたか?
宮下規久朗氏: 大学院に残ってそのまま研究をしていれば、自分の専門の周囲は非常に詳しくなるし、理解も深められますが、一方で、視野が狭くなっていったと思うんです。美術館の学芸員をやっていると、専門にとらわれず色々なことをさせられます。私が美術館に入って最初にまかされた仕事は、シャガールの展覧会でした。その頃は、「シャガールなんか」と、小バカにしていたんです。でも、やってみると、これが意外に面白い。シャガールの中でもユダヤ的な部分、不気味な部分を突っ込んで調べたら本当に面白くなってきたんです。それでエコール・ド・パリについての理解や20世紀初頭の美術全般に関する理解も深まりました。また、日常の業務の中で、コレクションの大半を占めている日本の近代美術に関する理解も否が応でも深まりました。また、もともと好きだった現代アートもしっかり研究してみると奥深くて研究しがいがあることが分かりました。趣味で美術館やギャラリーに行って現代アートを楽しむだけじゃなく、学芸員をしていると、きちんと自分で責任をもった文章を書かなければいけません。また、どんな分野にも研究の蓄積みたいなものがあります。そうするとやりがいもあるし、自分の知識や経験の幅を広げることになると思うんです。
――学芸員になると、得られるものがたくさんあるということですね。
宮下規久朗氏: ですから、私は学生に、まずどこでもいいから学芸員になれと勧めています。美術史の研究者になりたい人は学芸員をやってなんぼのもんだと思います。現場経験が無い人というのは、経験のある人に比べて圧倒的な差があるんです。美術の世界でも、ずっと大学にいて、そのまま大学の先生をやっている美術史家はいますが、「あの人は現場を知らない」と陰で言われてしまうんです。このくらいの大きさのカンヴァスがこれほどの重さで、日本画がこの重さで、銅像はこんなに重いんだとか、そういった手の感触として覚えると、作品は深く印象に残り、書いていることにも説得力が生じます。実際に見て、さらに手で扱ってみないと、作品はイメージとしてでしか分からないですから。重量のある、物質的な“もの”として、その作品を経験することは、学芸員をやってみないと実感できないと思います。
――専門のバロック美術だけではなく、近現代の美術に関しても精通してらっしゃいますね。
宮下規久朗氏: オールマイティーにやっています。私は、基本的に美術は全て同じだと思うんです。専門としては、イタリア美術や日本の近代美術を中心にしていますが、結局、良いものは良いし、感動できるものは感動できる。どんな分野であれ、その美術作品が与えてくれる力は同じです。分野や国を飛び越えられるのが美術の良いところです。文学だと語学の壁があって、翻訳されてないと読めないものもありますが、美術は世界中のものが作品を見ればすぐに分かる。こんな分野、他に無いと思います。視覚資料というのは無限の情報を持っています。美術史をしていると、その情報に、軽々とアクセスできますから一つの分野にこだわったらもったいないです。私は仏像も大好きだし、中国絵画は世界的に見て最高だと思っています。そういうものを見るのが本当に楽しいんです。たとえば専門外の中国絵画についての研究論文を読んでみると、「今はこんなことが問題になっているのか」というような知的な刺激もあります。そういった刺激も、作品を見た時の感動があればより一層楽しめるんです。
美術についての本は、自己表現の場
――ご自身が、美術史という学問を楽しんでいるというのがとても伝わってきました。色々なテーマで本を書かれていますが、執筆に対するこだわりや、想いなどはありますか?
宮下規久朗氏: 楽しさを伝えるというよりは、自分が楽しいから書いてしまうんです。私は文学少年で、文章を書くことが昔から非常に好きでした。美術についての文章によって、自己表現をしているところがあります。作品の力を上手く引き出して、自分でしか表現できない、自分でしかできない見方を自分独自の文章で表現できることが非常にうれしいんです。それを読んでくれて、さらに面白いと思ってくれるともっとうれしいです。
――拝読させて頂いた感想としては、読むだけじゃ終わらず実際に見に行きたくなりました。
宮下規久朗氏: そういった、旅への誘いという役割も凄くあります。私のカラヴァッジョの本を読んで、実際にローマでカラヴァッジョを見に行ったという人が大勢いますし、共著で出した『ヴェネツィア物語』を見てヴェネツィアに行きたくなったという人もいっぱいいました。そういう声が聞こえてくるのは、うれしいことです。
――本を書くきっかけはなんだったのでしょうか。
宮下規久朗氏: 元々は研究者ですから、学術論文を書いていました。それから学芸員としてカタログの論文や解説を書いていたのですが、本が大好きだったので、自分の本を書きたいっていう思いがあったんです。
『食べる西洋美術史』は、その中でも愛着のある本です。元々、食べることがとても好きで、美術作品を見に行く時のもう一つの楽しみというのが、作品のある地元の料理を食べることなんです。美術を見るのも楽しいのですが、美味しいものを食べることも大好きだったので、その2つが上手いこと結合してこの本ができあがりました。実はこの本は、ある編集者の方が提案して下さった企画によって出来たんです。
――編集者、出版社の役割についてどうお考えですか?
宮下規久朗氏: 役割は大きいです。出版社というのは、自分の書いたものをそのまま機械的に出版してくれるというのではなくて、その執筆者の興味や力を引き出す参謀役です。企画を提案するというのも大きな役割の一つ。企画力もあって、執筆者の力を発揮させて、力を引き出す、そういう方が良い編集者だと思います。
著書一覧『 宮下規久朗 』