宮下規久朗

Profile

1963年、名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)で、サントリー学芸賞、地中海学会ヘレンド賞を受賞。ほかに、『バロック美術の成立』(山川出版社)、『食べる西洋美術史』『ウォーホルの芸術』『欲望の美術史』(光文社新書)、『カラヴァッジョ巡礼』(新潮社)、『刺青とヌードの美術史』(NHKブックス)、『裏側からみた美術史』(日経プレミアシリーズ)、『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』(小学館101ビジュアル新書)、『知っておきたい世界の名画(角川ソフィア文庫)、『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫)など多数。

Book Information

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美術作品は、時代を超えて生き続ける



東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科を修了され、1989年兵庫県立近代美術館、1992年東京都現代美術館の学芸員に。『アンディ・ウォーホル1956-86:時代の鏡』展の企画などに参加されました。1995年神戸大学文学部助教授、2013年から神戸大学大学院人文学研究科教授として教鞭をとられています。美術史家としてご活躍されている宮下さんは、『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』、『食べる西洋美術史』、『刺青とヌードの美術史』、近著では『モチーフで読む美術史』など、数々の著書を執筆されています。今の道に至った経緯や、美術史に対する想い、執筆、電子書籍についてお聞きしました。

目に見えるもの全てが、美術の対象になる


――近況と、普段のお取り組みをお聞かせ下さい。


宮下規久朗氏: 今は、本を書いています。また、毎月何本か細かい原稿を書いています。「これはこの連載に使えるかな」といったように、いつも複数のテーマを考えています。あと展覧会を見に行って、ちょっと面白い作品があると、それを題材やテーマに使ってみたりしています。

――常に、目に映る全てのことがネタになるという感じでしょうか。


宮下規久朗氏: そうですね。美術史という学問なのですが、美術というのは、美術館や博物館にあるものだけじゃなくて、目に見えるもの全てが視覚的な資料として対象になるんです。風景や、建物、景観などの全てが色々な刺激に満ちていると思います。彫刻や絵だけではなくて、その周囲にいる人が作り出したその空間の雰囲気というものも面白いんです。よく公園などに、公共彫刻がありますよね。その彫刻のテーマだけではなくて、なんでこんなところにこういう彫刻があるのか、どういう意図で自治体が設置させたのか、あるいは、その公園に来ている人がその彫刻をどういう風に見ているかとか、そういうことを観察していると非常に面白いんです。例えば神戸にある大倉山公園には、ヌード彫刻が山ほどあるのですが、全く芸術として見なされていないんです。場所がら、ホームレスの様な人が多く、ヌード彫刻の台座の上で寝そべっていたり、焼酎の空き瓶が転がっていたり。昼間だと、憩っている人もいれば、カップルもいる。その違和感が逆に面白いんです。設置した側は、芸術作品を沢山入れて、文化的な雰囲気を作り出そうとしているのでしょうけれども、全くそうはなってない。公共の場に女性の裸があるという状況に対して、誰も違和感を抱かないというのは、ヌードという形式がいかに日本の社会に定着してしまったかっていうことの証しなんです。欧米では、屋外に女性のヌード彫刻はありません。

――意外です。欧米から来たものの様に感じるのですが。


宮下規久朗氏: 美術館の中では許されるのですが、皆が集まるような公園などには、女性のヌードを置いてはいけません。『刺青とヌードの美術史』にも書きましたが、日本は、芸術だったら何でもいいだろうという風に早とちりしてしまってヌードを取り入れてしまったんです。でも、それがまた面白いし、日本人にとっての西洋美術って一体何だろうということを考えるきっかけになります。

自分が面白いと思うことを教える


――学生にはどういったことを教えていらっしゃいますか?


宮下規久朗氏: 「自分の好きなことをやれ」と、いつも学生に言っています。好きなアーティストがいたらそれをやったらよいし、もしアニメっぽいものとかサブカルっぽいものが好きだったら、それに関するテーマをやってみるように勧めています。ただ、調べる時に学問的な手続きをとるとか、きちんと資料を集めるとか、そういう方法のようなことはちゃんと指導しなければいけないのですが、研究対象については、ありとあらゆるものがあってよいんです。好きなものの方が身が入りますし、集中してやってみれば、学問的な手続きが身につき、美術史という学問は何なのかとはというのが分かってくると思います。色々なことを対象に研究している学生と接することによって、こちらもまた勉強になって刺激を受けることがあります。
教える上で一番良いと思っているのは、私自身が面白がって色々なことを研究して、文章を書いたり話したりすることで、それが学生にとっても刺激になっているということです。自分が面白いと思わなかったら、学生もついていけませんから。

――学生との関係性が、とても良好なのではないでしょうか。


宮下規久朗氏: そうですね。実物を見に行くことが私達の学問で一番大事なことで、机上の学問ではなく、課外活動が多いんです。毎週、金曜日の午後は授業で展覧会や美術館に行くので、自然に密な関係になります。飲み会も多いですし、いろんな学生の本音も引き出せて、とても楽しいです。

カラヴァッジョの絵に魅せられて


――美術史という学問に興味を持ったのはいつ頃でしょうか。


宮下規久朗氏: 美術史に目覚めたのは非常に早く、小学校の5、6年の時で、一種のオタクでした。
家には美術の本は一冊もなく、親も全く興味がありませんでしたが、ある時、田舎の分校だった小学校の図書館に美術の本が沢山入り、廊下にその本のカバーが張り出されたことがあったんです。そこでレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロやルノアールといった画家たちの絵を見たのがきっかけです。それ以前から絵を描くのが好きでしたし、美術番組もよく見ていました。日曜日の朝に、吉田喜重という映画監督が作っている「美の美」という番組があって、毎回1人の画家を取り上げて、吉田喜重がその画家の足跡を訪ねて歩くというものでした。

――その番組がきっかけで、好きになった画家もいらっしゃるんでしょうか?


宮下規久朗氏: 忘れもしない、小学校5年の時に、その番組でカラヴァッジョという画家が取り上げられたんです。カラヴァッジョが、殺人を犯して逃げ回っていた画家だということを知り、非常に衝撃を受けました。彼は殺人の逃避行の最中に絵を描いているのですが、それがまた非常に迫力のある絵だったので、近所の図書館に行って調べたのですが、カラヴァッジョの本は1冊もありませんでした。ただ、大判の美術全集である『大系世界の美術』の一巻に彼の絵が載っているのを見つけました。それを見た時、とても強い衝撃を受けたのです。それまで色々な画家に興味があったのですが、カラヴァッジョの持っている迫力やインパクトにとらわれ、そのまま美術史の道を進み、大学では美術史を学び、卒業論文も修士論文もカラヴァッジョをテーマにしました。

「画家になりたい」という夢


――東京大学を選ばれた理由はなんだったのでしょうか。


宮下規久朗氏: 東大を志望したのも、美術史を学びたいと思ったことが大きな理由です。小学校の高学年の時に、高階秀爾先生の『名画を見る眼』を読んで非常に感動しました。1枚の絵にこれだけの情報が入っていて、こんなに読み解く面白さがあるのだと思い、美術史という学問の存在を知ったんです。美術館で働いたり、美術史の仕事をしたりするにはどうしたらいいかと考えていた時、高階先生が東大教授だということを知り、この先生に学ぶために東大に行くしかないと思いました。それで中学生ぐらいからそれまで苦手だった勉強を頑張り始めました。

――その頃から美術史家を目指されていたのですか?


宮下規久朗氏: 私は、もともと画家になりたかったんです。だから小学校の高学年のカラヴァッジョが好きになった頃も、画家になりたいという夢と美術史に対する思いがごっちゃになっていたんです。美術だけを研究する仕事があるとは知りませんでしたから、ずっと絵描きになりたいと思っていました。自分で言うのもなんですが、実際、絵も上手かったんです。美大や芸大に行って画家になるという道も当然考えていましたし、中学の美術の先生には、「このままだったらストレートで東京芸大に受かる」と言われたこともありました。ただ自分でも絵を描いているうちに、古今東西の素晴らしい作品を遺した画家のような才能は持っていないということが分かりました。良いものを知れば知るほど、いくら技術を磨いても、人の心に訴えかけ、感動を与えるような、あるいは時代を超えて残るような絵は描けないと思ってしまったんです。



無限に尽きない「見る」という仕事


――それで、美術を「見る」仕事に進まれたのですね。


宮下規久朗氏: それが良かったんです。見る仕事というのは尽きないんです。つまり、いくらでもありますから。対象は無限にあるし、面白いことも無限に出てくる。こればかりは、どれだけやっても飽きません。絵描きだったら自分の才能の限界や色々な壁にぶつかるでしょうが、見て研究する分には、対象は無尽蔵ですから、いくらでもできます。

――「見る」という仕事の魅力とは、どういったところにありますか?


宮下規久朗氏: 私は、テレビや画集から美術の世界に入っていった人間です。実際に旅行をして作品を生で見るようになって思ったことは、実際に行って作品を見てみないと分からないということです。その作品を取り巻いている空間、環境、雰囲気などは、画面や印刷物からは絶対に伝わらない。作品を取り巻く空間に身を置くという体験には幸福感があるんです。つまり、時代を超えて、昔生み出されたものが今もこうやって力を発揮しているということを実感することが大事なんです。美術作品というのは、ある意味で生きている。その時代を超えてずっと生き続けて、これから先も生き続ける。現地へ行ってその空間でその作品を見るということは、その作品が持つ歴史そのものに立ち会うという実感と感動があるんです。歴史の好きな人は、物語を読んだり、資料を見たりしますよね。美術作品というのは実在する生の歴史なんです。作品が残っているというのは、過去のものであると同時に、現在のものでもあるということです。それこそが美術の持つ力だと思います。

――歴史に立ち会うという感動を、学生たちは授業を通じて体験しているのですね。


宮下規久朗氏: 実際に身を置いてみないとわからないし、わざわざ行きにくいところへ苦労して行くという経験も大事なんです。安易に向こうからやってくるものではなくて、電車を乗り継いだり何時間もかけて歩いたりして行くことは、自分の人生史の中でも、「あの時苦労して見たな」などというように、記憶に残るんです。誰と一緒に見たなとか、あの時どういう話を聞いたなという体験が、ずっとその人の糧になると思うんです。次に行く時は、また別のシチュエーションで同じ場所に行ってみるとまた違う感動がある。その後、いろんな人生経験を経てまた同じ作品を見たときなど、どういう心境で見たかによっても、全部違ってくる。つまり、無限に楽しめるんです。

分野を全て飛び越えられるのが、美術史の魅力


――美術館ではどのような仕事をされてらっしゃいましたか?


宮下規久朗氏: 大学院に残ってそのまま研究をしていれば、自分の専門の周囲は非常に詳しくなるし、理解も深められますが、一方で、視野が狭くなっていったと思うんです。美術館の学芸員をやっていると、専門にとらわれず色々なことをさせられます。私が美術館に入って最初にまかされた仕事は、シャガールの展覧会でした。その頃は、「シャガールなんか」と、小バカにしていたんです。でも、やってみると、これが意外に面白い。シャガールの中でもユダヤ的な部分、不気味な部分を突っ込んで調べたら本当に面白くなってきたんです。それでエコール・ド・パリについての理解や20世紀初頭の美術全般に関する理解も深まりました。また、日常の業務の中で、コレクションの大半を占めている日本の近代美術に関する理解も否が応でも深まりました。また、もともと好きだった現代アートもしっかり研究してみると奥深くて研究しがいがあることが分かりました。趣味で美術館やギャラリーに行って現代アートを楽しむだけじゃなく、学芸員をしていると、きちんと自分で責任をもった文章を書かなければいけません。また、どんな分野にも研究の蓄積みたいなものがあります。そうするとやりがいもあるし、自分の知識や経験の幅を広げることになると思うんです。

――学芸員になると、得られるものがたくさんあるということですね。


宮下規久朗氏: ですから、私は学生に、まずどこでもいいから学芸員になれと勧めています。美術史の研究者になりたい人は学芸員をやってなんぼのもんだと思います。現場経験が無い人というのは、経験のある人に比べて圧倒的な差があるんです。美術の世界でも、ずっと大学にいて、そのまま大学の先生をやっている美術史家はいますが、「あの人は現場を知らない」と陰で言われてしまうんです。このくらいの大きさのカンヴァスがこれほどの重さで、日本画がこの重さで、銅像はこんなに重いんだとか、そういった手の感触として覚えると、作品は深く印象に残り、書いていることにも説得力が生じます。実際に見て、さらに手で扱ってみないと、作品はイメージとしてでしか分からないですから。重量のある、物質的な“もの”として、その作品を経験することは、学芸員をやってみないと実感できないと思います。

――専門のバロック美術だけではなく、近現代の美術に関しても精通してらっしゃいますね。


宮下規久朗氏: オールマイティーにやっています。私は、基本的に美術は全て同じだと思うんです。専門としては、イタリア美術や日本の近代美術を中心にしていますが、結局、良いものは良いし、感動できるものは感動できる。どんな分野であれ、その美術作品が与えてくれる力は同じです。分野や国を飛び越えられるのが美術の良いところです。文学だと語学の壁があって、翻訳されてないと読めないものもありますが、美術は世界中のものが作品を見ればすぐに分かる。こんな分野、他に無いと思います。視覚資料というのは無限の情報を持っています。美術史をしていると、その情報に、軽々とアクセスできますから一つの分野にこだわったらもったいないです。私は仏像も大好きだし、中国絵画は世界的に見て最高だと思っています。そういうものを見るのが本当に楽しいんです。たとえば専門外の中国絵画についての研究論文を読んでみると、「今はこんなことが問題になっているのか」というような知的な刺激もあります。そういった刺激も、作品を見た時の感動があればより一層楽しめるんです。

美術についての本は、自己表現の場


――ご自身が、美術史という学問を楽しんでいるというのがとても伝わってきました。色々なテーマで本を書かれていますが、執筆に対するこだわりや、想いなどはありますか?


宮下規久朗氏: 楽しさを伝えるというよりは、自分が楽しいから書いてしまうんです。私は文学少年で、文章を書くことが昔から非常に好きでした。美術についての文章によって、自己表現をしているところがあります。作品の力を上手く引き出して、自分でしか表現できない、自分でしかできない見方を自分独自の文章で表現できることが非常にうれしいんです。それを読んでくれて、さらに面白いと思ってくれるともっとうれしいです。

――拝読させて頂いた感想としては、読むだけじゃ終わらず実際に見に行きたくなりました。


宮下規久朗氏: そういった、旅への誘いという役割も凄くあります。私のカラヴァッジョの本を読んで、実際にローマでカラヴァッジョを見に行ったという人が大勢いますし、共著で出した『ヴェネツィア物語』を見てヴェネツィアに行きたくなったという人もいっぱいいました。そういう声が聞こえてくるのは、うれしいことです。

――本を書くきっかけはなんだったのでしょうか。


宮下規久朗氏: 元々は研究者ですから、学術論文を書いていました。それから学芸員としてカタログの論文や解説を書いていたのですが、本が大好きだったので、自分の本を書きたいっていう思いがあったんです。
食べる西洋美術史』は、その中でも愛着のある本です。元々、食べることがとても好きで、美術作品を見に行く時のもう一つの楽しみというのが、作品のある地元の料理を食べることなんです。美術を見るのも楽しいのですが、美味しいものを食べることも大好きだったので、その2つが上手いこと結合してこの本ができあがりました。実はこの本は、ある編集者の方が提案して下さった企画によって出来たんです。

――編集者、出版社の役割についてどうお考えですか?


宮下規久朗氏: 役割は大きいです。出版社というのは、自分の書いたものをそのまま機械的に出版してくれるというのではなくて、その執筆者の興味や力を引き出す参謀役です。企画を提案するというのも大きな役割の一つ。企画力もあって、執筆者の力を発揮させて、力を引き出す、そういう方が良い編集者だと思います。

紙と電子には、両方に役割がある


――執筆活動の原動力は、何でしょうか。


宮下規久朗氏: やはり本が好きということでしょうか。本屋に行くのも大好きですし、図書館に行くのも大好きです。そこで自分の本を必ずチェックしちゃうんです。図書館でも、「私の本はこれだけしかないのか」とか、「あの本が無いな」と、気になって仕方がありません。でも他人の本も興味があるし、新しく出る本は押さえておかないと、ちょっと落ち着かないというような部分もあります。

――どんな本を読まれますか?


宮下規久朗氏: それはもう千差万別で、小説やルポルタージュなど、その時の興味によって色々なものを読みます。美術の本は自分の仕事に結び付いて力を抜けないので、実はあまり読みません。寝る前の本は、宗教や思想の本、それから純粋な歴史学の本です。一見、美術とは関係ない本から、自分の研究や執筆する際のヒントを見つけられることが多いんです。何がどこに繋がるかは分からない。美術史以外の、例えば思想史や歴史の本を読むことでも、美術史を研究する上での大きなヒントや刺激が得られます。感性と知性はどこかで繋がっていますから、美術を学ぶためには、作品をたくさん見ることと同時に、色々な本をたくさん読むべきだと思っています。

――電子書籍について、どう思われますか?


宮下規久朗氏: 悪いものだとは思っていません。必要な情報がすぐに電子書籍で引き出せるのは便利だし、それを使わない手は無いと思います。美術であれば大きい本のほうがいいという意見もありますが、電子書籍だと絵の部分を拡大できるというのは、美術にとってはとても良いことです。ですから親和性も高いし、これから美術の本はどんどん電子化されるんじゃないかと思います。でも、紙媒体も無くなることは無いと思います。先ほどの、美術作品が物としての重量感や手触りが大事だという話と同様に、本もそうだと思うんです。単なるイメージじゃなくて、本としての重量感や手触り、装丁も全部ひっくるめて本が好きという気持ちがあると思うんです。その点では美術と似ているかもしれません。
また、時と場合に応じて必要な方を選べばいいわけですから、本当に本が好きな人は、紙と電子の両方を使うと思います。

――紙と電子、両方に役割があるということですね。


宮下規久朗氏: やはり、いくらAmazonで本を検索、注文できると言っても、本屋に行ってフラフラと見るということを楽しみにしている人は多いと思うんです。年輩の方もそうだと思いますが、神保町の古本街を歩くのを、私もいつも楽しみにしているんです。そういう楽しみって減らないと思うんです。電子書籍ができて、より一層、本の“もの”としての貴重さや面白さが認識されるのではないでしょうか。
本屋さんっていうのも、買うためだけの場所じゃなくて、立ち読みなど、見るための場所になるのではないかと。そういうところに、本屋さんの価値、活路があると思います。

――今後の展望をお聞かせ下さい。


宮下規久朗氏: 死と美術というのはすごく関係があるんです。死というのは色々な人間の文化の原動力になっていますし、それによって美術も色々と発展してきたという背景があるんです。墓廟彫刻というお墓もそうです。お墓の形や遺影など、ちょっと民俗学的な分野に、非常に興味があります。世界のそういった部分を、今、比較してるところなので、そのうち纏めたいなと思っています。その時には、自分が今までやってきた美術の研究も活かせますし、他の美術史家が言えなかったような視点も打ち出せたらいいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 宮下規久朗

この著者のタグ: 『大学教授』 『考え方』 『アドバイス』 『原動力』 『歴史』 『研究』 『教育』 『本屋』 『美術』 『図書館』

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