牧野洋

Profile

東京生まれ。1983年慶応義塾大学経済学部卒業、1988年米コロンビア大学ジャーナリズムスクール卒業(修士号)。日本経済新聞社でニューヨーク駐在や編集委員を歴任し2007年に独立。独立後は2013年春までカリフォルニアを拠点にメディア業界を取材し、講談社「現代ビジネス」などでコラム連載。帰国後は早稲田大学ジャーナリズムスクール非常勤講師。主な著書に『官報複合体』(講談社)、『米ハフィントン・ポストの衝撃』(アスキー新書)、『不思議の国のM&A』(日本経済新聞出版社)、『最強の投資家バフェット』(日経ビジネス人文庫)など。

Book Information

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編集者だった父の影響


――小さい頃は、どのようなお子さんだったんですか?


牧野洋氏: 父が本の業界に身を置いていたので、子どもの頃は本に囲まれて過ごしていました。父は日本評論社の出版部長として数え切れないほど本を出しています。以前名刺フォルダーを見せてもらったことがあるのですが、高名な経済学者が書いた本が多かったですね。このほかマルクス経済系の雑誌『経済評論』の編集長のほか、近代経済学を扱う雑誌『経済セミナー』の初代編集長も務めていました。父は旧制七高から東京大学経済学部へ進学し、東大在学中は日本共産党の「細胞」に所属していました。同じ時期の東大細胞には日本テレビの氏家齊一郎やセゾングループの堤清二、社会主義者の安東仁兵衛などが経済学部同期でいて、堤清二や安東仁兵衛とは一緒にデモに繰り出すなど学生運動の同士だったそうです。

ちょっと話は飛びますが、私は経済学者・青木昌彦が日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した時、編集者としてインタビューしたり資料を集めたりしていろいろとお手伝いしました。この連載は最終的に『人生越境ゲーム』という本になりました。青木さんは東大経済学部に籍を置いて学生運動に傾斜していました。青木さんにインタビューしている時、当然ながら学生運動の話になり、青木さんと父との接点が多いことを発見してびっくりしました。共通の友人がたくさんいたのです。
青木さんは60年安保時に、東大細胞を中核にしたブント指導者の一人として学生運動を展開していました。一方、父は『経済評論』編集長時代にブント指導者の妻に仕事を与えるなどで水面下でいろいろと支援していていました。青木さんとのインタビューがなければ、このような秘話をずっと知らないままでいるところでした。

私が小さい頃、父の寝室に足を踏み入れると、壁の四方が全面的に本棚で、そこはマルクス主義論とか帝国主義論といったタイトルの本であふれていました。自然と自分の思考回路も左翼思考になりましたね。昨年に父は85歳で亡くなり、書斎から一部本を持ち帰りました。変色してセピア色になっている『講座 マルクス主義』の第1巻から第12巻までです。
ただ私はそれほど読書家ではありませんでした。熱心に読んだのはドストエフスキーなどロシア文学のほか、SF小説ぐらいです。SFではフィリップ・K・ディックが大好きで、彼の著作はほとんどすべて読んだと思います。

――お父様から影響を受けたと思われますか?


牧野洋氏: マスコミ業界を選んだ時も、父のことは全く意識していませんでした。でも実際は、自分が本を書く仕事をするようになってから「影響を受けたんじゃないかな」と思うようになりました。アメリカで『官報複合体』を書いていた時には、ちょうど父が遊びに来ていて数カ月間滞在していました。原稿を書いてプリントアウトすると、最初の読者として父に原稿を読んでもらいました。亡くなる直前に、父は編集者としてのスキルを再び活かすことができたのです。しかも息子の原稿に手を入れるという形で。『官報複合体』はまさに共同作品という感じになり、父は非常に喜んでくれました。

――小学校、中学校、高校の頃は文章を書かれていたのでしょうか?


牧野洋氏: モノを作る方が好きで、図画工作の成績が常に一番良かったんですが、国語の中でも作文は好きでした。小学2年生の時に自分の作文が「多摩子ども詩集」の裏表紙に掲載されたこともあります。作る方の道に進まなかったら書こう、という感じだったかもしれません。父も小さい頃は鉄道の模型を作ったりするなど趣味としてモノを作るのが好きだったので、遺伝かもしれません(笑)。小学校の時は、自分で設計図を書いて、バルサを切って組み立ててUコンというエンジン付きの飛行機を作ったりしていました。小学校の時は大会に出て、昭和48年にはUコン大会で敢闘賞をとりました。

小学校の時に作った本


――作文を好きになったきっかけはありましたか?


牧野洋氏: そういう意味では、小学校の時に、良い先生に出会えたなと思っています。日記を書いて、小学校5、6年生にかけて、『私のおいたち』という自分の人生について、1つの本にまとめるという授業があったんです。それが最初に書いた本だと思います。書くことに関しては、父からの影響もありましたが、この本を書いたという影響も大きかったのかもしれません。親に取材するなど本格的で、『私のおいたち』を書き上げるのは結構大変でした。

――慶應の経済学部をご卒業されていますが、経済に進んだのにはどのような経緯があったのでしょうか?


牧野洋氏: 家では朝日新聞と日経新聞をとっていて、父の書斎は経済の本ばかりだったことから、経済になじみがあったということもありました。しかし、理工系の方に進みたいと思うほどモノ作りはずっと好きで、建築家になりたいなと思っていたんです。でも物理や数学などは、学問的には得意ではなく、高校の2年生までは理系にいましたが途中で文転しました。当時は英語は得意だったんですが、国語の漢文と古文が不得意で、文系に行くには不利でした。ですが、慶応経済は国語の代わりに数学が受験科目だったので、どうにかなりました。というか、慶応経済以外は事実上選択肢はなかった状況でした。

著書一覧『 牧野洋

この著者のタグ: 『ジャーナリスト』 『経済』 『海外』 『考え方』 『働き方』

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