編集者とは極めて密な関係
――様々な本を出されていますが、普段、編集者さんとはどんなやり取りをされていますか?
酒井邦嘉氏: 極めて密な方だと思います。編集者から直すべき指摘を受けたら、私はそのすべてを直すようにいつも努めています。自分では盲点になっている所を指摘してもらうのですから、それにまさる文章修行はないでしょう。あらゆるところに改善の余地はあるものです。出版されてからもなお、徹底的に直したことがありました(笑)。ベートーヴェンもそういう性格だったそうです。
――執筆される上で、ポリシーなどはありますか?
酒井邦嘉氏: 真のコミュニケーションとは、言葉を伝えることではなく、心を伝えることです。心がしっかりとしている人は、言葉が足らなくても伝えられるものがあります。短い言葉でも、心に響く言葉がベストではないでしょうか。
私は筆が遅い方だと思います。常に読者がいることを想定して、その「読み」をシミュレーションしながら、「どこまで噛み砕けば分かりやすくなるか」ということを意識できるようになったのは、最近のことです。「話せば分かる」ということは、決して当たり前ではないのです。ですから、経験豊かな編集者が引っ掛かりを感じた表現は、徹底的に直さない限り自分の真意が伝わらないでしょう。
――そういう意味では、編集者は、共同作業で本を書いているような大きな存在ということですね。
酒井邦嘉氏: 本当にそうですね。
3年かけて絵本を3冊出したのですが、制作スタッフとの共同作業が実を結んだと思います。毎回の打ち合わせでは3時間以上をかけて、「このストーリーでは分からない」、「伝えたいことを詰め込み過ぎだ」とか、喧々諤々と議論しました。しかも絵本では、言葉だけでなく絵も使って伝えるわけですし、子供から大人までを読者対象にしていることもあって、本作りとしては究極の面白さがありました。
サイエンスの命、3つの大原則
――本を書くということ、また伝えるということに対して、何かこだわりはあるのでしょうか?
酒井邦嘉氏: 「一に正確、二に分かりやすく、三に短く」が大原則です。この順番も大切です。分かりやすさのために正確さを犠牲にしてはいけませんし、簡潔だからといって分かりにくくてはいけません。
例えば、子供向けの絵本だからここら辺は適当に、などということは絶対あり得ません。事実や科学的知見を歪めないことが第一です。それから第二は、読者の目線で分かりやすく書くこと。そうした制約の中でも、第三に短くして余分な所を削ぎ落とすこと。読者の想像力に任せる余地を残して、本当に必要なことだけを残した時に、伝えるべきことがはっきりします。この3つのプロセスは、科学論文の基礎だと考えていますが、文芸作品にも似たことが言えるでしょう。
――例えばどういった部分が似ているのでしょうか。
酒井邦嘉氏: フィクションだからといって、嘘を書いていいことにはならないでしょう。あり得ないことや絵空事ばかりでは、興をそがれてしまいます。人間に対する深い洞察は、日常の正確な観察に基づくものです。そして、読者に対して分かりやすく、心に響く表現が求められます。その上で、研ぎ澄まされ抑制された描写が味となります。受け手側の感性も必要になりますが、究極は、和歌や俳句のような世界観でしょう。言葉や芸術の世界には、いくらでも奥の深さがありますから、良い作品ができたとしても、それで満足してはいけません。私も、まだまだだと思っています。
――数々の実績がおありなのに、「まだまだ」と思われるのはなぜでしょうか?
酒井邦嘉氏: それはサイエンスに終わりが無いからです。一般的には、完成された作品がゴールだと考えがちですが、サイエンスの場合は、完成された論文が新たな出発点となります。一度世に問うたら、そこからどう展開するかが常に問われます。その意味では、まだまだ分からないテーマに取り組む方がはるかに楽しいですね。分かりそうにないことが分かるようになることが、サイエンスの命です。
著書一覧『 酒井邦嘉 』