「日本型ディベート」が永遠のテーマ
明治大学法学部在学中に、ディベート団体BURNING MIND(バーニングマインド)を設立。社会人ディベート大会で6年連続優勝し、現在、そのノウハウをビジネスパーソン向けに公開。「ディベートファイトクラブ」(フジテレビ)、「ニッポンの極論」(フジテレビ)、「オビラジR」(TBS)などのテレビ番組にも出演されていました。また、ビジネス現場で使える実践的なディベートの啓発と普及に努め、多数の企業、自治体研修、大学などでディベートの講師を務めていらっしゃいます。エンターテインメント・ディベート大会の最高峰である「ディベートマニア」にて6連覇を達成したことからディベート・キングの異名をお持ちの太田さんに、ディベートとの出会い、そして今後の展望をお伺いしました。
わかりやすく伝えるということ
――延べ5000人というたくさんの方にディベートを教えられてきたという、太田さんの近況をお聞かせください。
太田龍樹氏: 某生命保険会社でコンサルティング営業をしながら、ディベートの活動をしています。本業は生命保険のコンサルティング営業で、時間量を割合で言うと、8対2というところでしょうか。両立していることを、お会いした方には驚かれることもあります。
――2つのお仕事を両立する上での共通項として、どういったところに軸をおいていらっしゃるのでしょうか?
太田龍樹氏: 両方の仕事において、わかりやすく伝えるということを大事にしています。拙著『すごい説得力』にも書きましたが、どうすれば人を納得できるのかという部分で、どちらにおいてもわかりやすさというのは大事なポイントです。
――執筆の際にも、わかりやすさというのは重要なポイントになるのでしょうか。
太田龍樹氏: もちろんです。フォレスト出版、PHP研究所、中経出版、成美堂出版や三笠書房などの出版社とお付き合いしていますが、やっぱり編集者もわかりやすく伝えていくことにすごく注力しているように感じます。本を書き始めた2006年から、ずっと感じています。例えば、フォレスト出版は、多くの発行出版書籍でわかりやすくするために文体を柔らく編集したり、デビュー作『ディベートの達人が教える 説得する技術』ではあえてとがった形で編集したりと、その都度工夫されているようです。
出版社・編集者・著者がコンビネーションを組まないと、良い本は作れない。そういう意味で、僕は出版社・編集者に恵まれています。
「知っている」と「している」とでは全く違う
――お仕事、執筆に共通している「わかりやすさ」の他に、とりわけ執筆する上で大事にされていることはありますか?
太田龍樹氏: 行動にも繋がる内容、ということをすごく意識しています。「知っている」のと「している」とでは全く違うので、そこをすごく大事にしています。結局、その知識を行動に移すことができなければ全く意味はない。著者はいかに気づきを読者に与えられるか、にかかっています。僕の本に読者が出会って、少しでも何かに気づいてもらえれば。できることなら、多くの方の人生を変えられるような本を作りたい。そのために日夜精進するつもりです。
――現在に至るまでの歩みを、幼少時代からお聞かせ下さい。
太田龍樹氏: 小学3年生くらいまではすごく引っ込み思案でした。でも、小学4年生の時に恩師に出会ったんです。素晴らしい先生で、その後、教頭・校長となられた方で、現場の教員としては僕たちが最後の教え子でした。先生とは今でもお付き合いがあって、先生の前で昨年ディベートの講義をしました。
――成長した姿を見せるという、素晴らしい恩返しができたんですね。
太田龍樹氏: 30年経っての恩返しだったのですが、先生もすごく喜んでくれたみたいです。先生の場合、教え子に教員は結構いらっしゃるみたいなのですが、僕みたいなビジネスパーソンが教えることは、まずないそうです。
当時、先生は漢字相撲といって、クラスの生徒たちに漢字のコンテストをしてくれました。その漢字相撲は、点数で序列をつけて、僕は横綱になったんです。やはり我々日本人にとって、漢字は言語の源なので、あの経験はすごく大きかった。それが多分現在に至る執筆に、間違いなく影響を与えています。あと、俳句のコンテストもしてくれて、言語感覚を先生から学んだのだと思います。
――その当時から、著者になろう、発信者になろうと考えていらっしゃいましたか?
太田龍樹氏: 小さい頃は会社の社長になりたかったんです。自分の父が中小企業のオーナーなので、僕も会社のオーナーになると思っていました。教育者などになるつもりは全くありませんでした。父の姿を見て、普通のサラリーマン以外の生き方に憧れていたというか、父の影響が大きかったと思います。自分の身は自分で守るという自立した考え方を小さい頃から父の背中を見て教わっていたのかもしれません。
高校の時にディベートチームを作る
――中学、高校はどのように過ごされていたのでしょうか。
太田龍樹氏: 高校は私立桐蔭学園高等学校に通っていたのですが、当時東大に行く人が100人。早慶で500~600人ほど行く学校でした。そういったエリート集団の中で、僕は間違いなくアウトロー。高校在学中に見たフジテレビの『ザ・ディベート』で、栗本慎一郎先生などが解説をしていて、「こういう討論ってあるんだな」と衝撃を受けました。その番組を見た時、ディベート力を絶対に身につけようと決意しました。実際にやってみたら面白かったので、友人を集めて10人位でディベートのチームを作りました。
――学生時代から現在まで、活動的な太田さんの原動力とは?
太田龍樹氏: 人と違うことをやる。結局、自分の思っていることは自分しか実現できない。何かに乗っかるということは、他の人が作った仕組みに準ずるということ。本当に自分の思いを貫徹したいのであれば、自分がリーダーとなって動くしかない。だから、ためらいなどはありません。でも高校の時に作ったチームは、自分もディベートを学んでいる最中できちんとマスターできていないし、受験もあったので失敗しました。そういった失敗を経験して、大学の時にまたやり直そうと。
ビジネスディベートに特化した団体として、先陣をきる
――改めて大学時代にディベートチームを作るきっかけはなんだったのでしょうか。
太田龍樹氏: 僕は2浪して大学に入ったので、高校に入学した時の同級生はすでに大学3年生。だから、声を掛けた友人・知人は就職活動前、最後の自由時間を謳歌するのに忙しいから、ディベートに全然乗り気じゃなかった。でも大学4年の就活で友人たちもディベートやグループディスカッションの重要性を痛感し、1994年の7月に皆で集まり、バーニングマインドを作りました。僕は早稲田の学生と付き合いがあったので、早稲田大学の校舎でこの団体は産声をあげました。
――先駆けという感じだったのでしょうか。
太田龍樹氏: 他の団体のことはよくわかりません。ただ2001年以降ビジネスディベートに特化した団体としては、僕らが特異な存在だと思っています。先ほどの設立の話に戻りますが、1995年の3月に大半のメンバーが就職のため卒業してしまうという事態に陥ってしまい、その後は、他大学のディベート部の方々と連携し続けていました。そして1999年に僕は生命保険会社に入社したのですが、当時周りの友人・知人がもらしていた2つの大きなシグナルがありました。1つ目は、「3、4年仕事をして、会社のことはよく分かったが、社外人脈がないということに気付いた」ということ。そして2つ目はスキル。強いスキルを身につけなければいけないと、多くの人たちが感じていたので、これは1つのチャンスだと思い、バーニングマインドの方向をビジネスディベートにシフトしていきました。1994年に始まった集まりですが、実質の第二創業は、若手社会人として再結集した2000年です。
――どういう経緯で、バーニングマインドという名前を付けられたのでしょうか?
太田龍樹氏: 1994年当初は違う名称でしたが、これから飛躍していくためにも、名称は変えなきゃいけないだろうとメンバーの間で持ち上がったんです。それで辞書を調べ、他にはないネーミングだったので、2002年にバーニングマインドに名称変更しました。僕自身先陣はきるけど、その後は他のメンバーに追体験してもらいたいので、様々なことを権限委譲しています。だから、うちのホームページを見ていただけるとわかりますが、弊社主催の『使えるディベートセミナー』は他のメンバーに講師を任せています。教える人を育て、その追体験を多くの人にしてもらいたい。特に2011年NPO化したこともあって、後継者を育てていくことを意識しなければならないと思っています。
ディベート大会のオープン化を図る
――「もっと広めるために」という視点になっていったのですね。
太田龍樹氏: 次に僕自身が考えたのは大会のオープン化です。多くの人たちにディベートを見てもらう環境を作っていこうと、2003年12月の大会からガラッと変えていきました。多くの人たちに、ディベートをまず見てもらって、感じてもらわないとダメ。一方「人様に見てもらうから、ディベートは面白いんだ」とディベーターも意識しなければいけない。ディベートは、ある論題を2つのチームに分けて討論・議論するのですが、勝った・負けたが一番重要ではないんです。ディベートでは判定を第三者が下すのですが、だからこそ審判であるお客さんにわかりやすく説明することを意識していけば、自分自身の力もパワーアップするんじゃないか。他者が自分たちをどう見るのかが、ディベート最大の魅力なのではないかと考えたんです。テレビ出演時のディベートである「メガネがよく似合うのは、ヨン様かヤクルトの古田か?」といった独自のテーマも、ディベートを初めて見る一般の方々は「どんな理屈を作ってくるのかな」と楽しめるじゃないですか。そういった部分をお見せするのが知的好奇心をそそり、大事じゃないかなと思ってるんです。
――ご自身が培ってきたノウハウを出し惜しみなく公開されているように思いますが、それはどういったお考えからなのでしょうか?
太田龍樹氏: まず、知ってもらわなきゃいけない。多くの人がよりよくなるには自分が持っている知識・情報は広めていかないとダメ。例えば、日米安保の改正、オリンピック開催の是非、憲法改正、特定秘密保護法案の話などは、結構堅い話ですよね。ディベートには公的な主題を扱わないといけないという1つのルールがありますが、僕はそれをとっぱらいました。難解なテーマだけではなくて、身近で易しいテーマもディベートとして取り上げることができるんだよということを示したかったんです。
――議論することは、世の中にたくさんありますものね。
太田龍樹氏: 本当、議論するテーマはたくさんあります。僕は結婚式の余興で、『財布のひもを持つのは旦那さんか、奥さんか』というディベートをよくやります。面白いからすごくうけます(笑)。新郎の金銭消費傾向などを新郎の友達に聞く訳です。すると「彼は車が大好きで、カーアクセサリーばかり集めちゃう性質なんですよ」とか「もう本を見ると、バンバン買っちゃいます」などといったデータが集まり、「そういう傾向の人に財布のひもを持たせたら家計は大変なことになる!」という論理展開にするんです。人が2人以上いれば、立場も違うし、見方も違う。僕が編み出した手法に、登場人物を浮き彫りにする「キャスト・ライトアップ」があります。これをすることで、例えば、お客さん、そして自分、あるいは取引先とその商品を作ってくれるメーカーなど、思惑というのはそれぞれ全然違うことがわかるわけです。違う部分をきちんと浮き彫りにしてあげることは、人の世においてとても大事なことです。
きっかけはテレビ出演
――本を出版するというのは、どういったことがきっかけだったのでしょうか?
太田龍樹氏: 2005年4月に、ディベートの番組を作りたいというテレビ制作会社が取材に来ました。「ディベートとは何かを教えてもらえませんか?」と新宿の喫茶店でいきなり言われました。ディベートの啓発・普及に人一倍思いがあったので、1時間ぶっ通しで「ディベートとは?」を熱烈に講義しました。インタビュアーは「この人は面白い」と思ってくれたようで、2ヶ月後にその会社から連絡がありました。「番組をやりたいと思っている。ただ、プロデューサーなどもディベートがわからないので、シミュレーションという形でディベートをやってくれないか。太田さんがディベーターとして出てくれ」と。それでテレビ局に行ったんです。
――その時はどのようなお気持ちだったのでしょうか?
太田龍樹氏: シミュレーションだから、僕はその場限りの役割だと思っていたんです。あとは芸能人同士がディベートをしてくれるのだろうと。そしたらその夜にディレクターから電話がかかってきて「太田さんに、ぜひ番組に出てもらいたい」。当時K―1が流行っていたので「ディベート界のアンディ・フグとして出てくれ」と言われました。仮に出演したとしても、審判での出演ぐらいだと思っていたので驚きましたが、「わかりました、出演しましょう」と即答。そしてBSフジの番組で、伊集院光さんとディベートすることになったんです。
――番組でのディベートはどのような感じでしたか?
太田龍樹氏: 極度の緊張で噛みまくってしまい、全然映像として使えないような状態でした。今でもその収録の雰囲気が嫌で覚えています。「本当にチャンピオンかよ?」といった目でADさんが見ていたように感じました。それでも収録が終わった後、ディレクターに「頼んでくれたのに、本当にすみません。ただ、チャンスがあればリベンジさせてください」とお願いしてやった番組がその後、フジテレビで地上波放映されたのです。
――思うようなディベートができなかったことで、めげてしまいそうなところですが、そこで太田さんを後押ししたものは、なんだったんでしょうか?
太田龍樹氏: 「ここでやりきらないと、自分の思いが完遂できない」と。うんちく王というのが当時テレビで流行っていて、なぎら健壱さんや伊集院光さんがうんちく王と呼ばれていたので、僕が恰好の対戦相手だと制作会社はキャスティングしたのでしょう。その時なぎらさんと「昔の恋人の写真、捨てる?捨てない?」というテーマで戦いました。収録前の楽屋では、現在バーニングマインドの理事長でもある、受験現代文のカリスマ・出口汪先生がいらっしゃいました。出口先生は僕が浪人の頃から脚光を浴びた先生です。だから、出口先生にお会いし凄くうれしくて、先生も収録前なのに、楽屋に4回も行ってしまったんです。それで先生が僕のことを面白いと思ってくれたみたいで、出口先生のベストセラー『源氏物語が面白いほどわかる本』(中経出版)を、僕がいた楽屋の机上に「いつでも連絡をください」と書き込まれた名刺とともに置いていってくれたんです。
――太田さんのお気持ちが出口先生を動かしたのでしょうか。
太田龍樹氏: あの時は、驚きました。実は当時、勤務しているオフィスと出口先生のオフィスは、歩いて数分の距離だったんです。偶然にしては出来過ぎていると思いました。それで出口先生に電話をしたら「そんなに近いんだったら、今晩どうですか」といきなり食事に誘ってくださったんです。その時「ディベートの本を今後書けたら」と懸命に話したら、1週間後にフォレスト出版の編集者に出口先生は会わせてくれたんです。収録が10月6日だったのですが、11月にはもう出版が決まっていました。
――すごいスピードで話が進んでいったのですね。
太田龍樹氏: 『R25』が2005年10月14日の番組を記事で取り上げてくれて、それを見てPHP研究所が書籍オファーをしてくれました。それが2冊目の書籍です。その後『説得する技術』という1冊目の本に目をつけてくれたのが中経出版の編集者で、それが3冊目の『ディベートの基本が面白いほど身につく本』(中経出版)です。そこで、僕の初期3部作が終了します。その後「やっぱり論理だけじゃ、人は動かない」という信念のもと、「論理も大事、情熱も大事。でも、とどめは人間的魅力次第」といった総合的に網羅した本を書きたいなと思ったんです。それが新3部作のスタートである、4冊目『話し方にもっと自信がつく100の法則』(中経出版)。この本は電子書籍化もされ、海外では台湾で出版していて、中国でも発売が決まりました。
映像で見ることができることが重要
――電子書籍とご自身の活動の親和性についてはどのようにお考えでしょうか?
太田龍樹氏: 話し方、コミュニケーションの分野では、文字で書かれていることを映像で見ることができることが重要です。例えば、ボディランゲージやしぐさ、あるいはアイコンタクトなどに関して、字で読むのと、目で見るのとでは全然違います。コミュニケーションが重要になるディベートの本は、電子書籍との親和性、融和性が大きい。YouTubeやニコニコ動画などとの連携で、話し方やコミュニケーション関連の電子書籍はかなりの成長が見込めると思っています。間違いなく、紙だけでは伝えられないことがたくさんあるんです。『なぜ、あの人の「主張」だけ通るのか?』(フォレスト2545新書)では、本で書いた内容のテクニックを実際に動画でアップしています。
――これから日本人が世界に打って出ていくには、やはり日本人ならではのディベートの形が必要なのでしょうか?
太田龍樹氏: 僕が提案しているのは、日本型ディベートです。東京オリンピック招致に尽力された水野正人さんのスピーチはとても素晴らしかった。そういった日本人によるジャパニーズ型を作っていきたい。それは永遠のテーマです。日本型ディベートには『受けの美学』があると、僕は提唱しています。相手の主張をしっかり受けるから、主張できる。自らが発信、主張していくためには、まず相手が言わんとしていることを聞くことが大切です。「受ける」ということは、現状分析や情報収集をすること。日本がこれから世界にいろいろ発信していくのであれば、まずは私たち日本人自身、日本のことを多く知らなきゃいけない。たとえば、今まで足を踏み入れたことのない都市や町に行って、様々なことに触れて感じる。そうするだけでも感性への刺激があるものです。
ディベートによってコミュニケーションの質・量を深める
――今後の展望をお聞かせください。
太田龍樹氏: 日本型ディベートを多くの方に知ってもらうために、本・Blu-ray・DVDやYouTubeのような動画サイトなども上手く活用していきたい。おそらくわかりやすさの追求には果てがない。例えば以前、アイコンタクトが苦手な人がいて、目を合わさなくてはと思って、相手の両方の目に合わせようとしている人がいたんです。「相手の片目だけに合わせれば、あなたの目は疲れずにアイコンタクトに集中できるんじゃない?」とアドバイスしたら、そのたった一言で苦手を克服してしまいました。アイコンタクトという言葉1つとっても、奥が深い。そういうちょっとしたことで誰かの人生をよりよくしていくことを、ずっと追求していきたい。「日本が元気になるように」というのが僕の大きな幹で、そのために知的武装することは必ず大きな力になると思っています。
これからが脂の乗ってくる年代だと思っているので、もっと頑張って日本型ディベートを普及させていきます。ディベートを多くの人が身につけることで、議論の流れもより深く考察できるようになる。人間はコミュニケーションの生き物なので、ディベートすることで、コミュニケーションの質・量ともに深められると思っています。だから多くの日本人にそれを知ってもらうことが大事です。知ってもらって、やってもらう。そこを自分の使命にしていきます。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 太田龍樹 』