教育は、承認や信頼の場であってほしい
教育学者、哲学者である苫野さんは、ご自身の母校である早稲田大学で教鞭を執られています。現在は特別研究員として、日本学術振興会にも所属していらっしゃいます。竹田青嗣氏に師事し、「多様で異質な人たちがどうすればお互いに了解、承認し合えるか」をテーマに、『どのような教育が「よい」教育か 』、『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』、『教育の力』、『哲学書で読む 最強の哲学入門』などの著書も執筆されています。そんな苫野さんに、今の道に至った経緯、哲学や教育に対する思い、執筆、本や電子書籍などについて、お聞きしました。
哲学的なことばかり考えていた幼少期
――現在に至るまでの歩みをお聞かせください。幼少時代は、どのようなお子さんでしたか?
苫野一徳氏: 元々は友達があまりいなかったんです。ちょっと変わった子どもで、ずっと哲学的なことばかり考えていました。 7歳ごろから、「なんで生きているんだろう」とか、「なんで生まれてきたんだろう」とか、「なんで生きなきゃいけないんだろう」というようなことをずっと考えていました。そんなことばっかり考えていたので、主観的にですけど、友達もあまりいませんでした(笑)。
それから小学校2、3年の頃に、手塚治虫の『ブッダ』と『火の鳥』にはまりました。それでますます友達と話が合わなくなって。中学2年の時には、俗に言う「便所飯」をしていて、おそらく僕は便所飯のパイオニアですね(笑)。そんな調子で子どもの頃は一人勝手に孤独を感じていて、「なんで学校に行かなきゃいけないんだろう」ということを考えていました。小学校や中学校などでは、特に日本の場合だと同調圧力も強いですから、“同じことを考えなきゃいけない”“同じ感覚を持たなきゃいけない”“同じ話をしなきゃいけない”という暗黙のルールのようなものに対して、「なんでそんなことをしなきゃいけないんだろう」という思いが強くありました。それで、将来は教育について考えたいと思うようになったんです。「なんのために学校があるんだろう」といったことを考えていきたいというのが、教育学者になるきっかけでした。その時、哲学に出会って「自分は哲学的な人間なんだ」ということが分かりました。それと同時に、哲学的に考えたら教育の原理が解けると気付いたんです。でも、哲学に本気で目覚めたのは、遅かったですね。
――本格的に哲学を学び始めたのはいつ頃だったのでしょうか?
苫野一徳氏: 大学院に通っていた、24、5歳の頃でした。元々、教育学というのを通して人間について考えたいなという思いがありました。それで、実践的なことがやりたくて、大学時代はサークルというか、NPOを作って大学生と留学生とで子どもたちに異文化間交流や、異文化間教育の機会を作る活動をしていました。ゆくゆくはそういう異文化と異世代が集まって相互に作用できるような、文化や世代を超えて了解し合える教育環境を作りたいというのが始まりで、それを実践するために、大学院でちょっと勉強しようという程度だったんです。
自分の存在を承認されて、新たな教育への思いが生まれた
――集団行動が苦手だった幼少時代からは考えられないほど積極的な印象を受けますが、NPOを作って活動したり、異文化間交流を実践しようというほどまで変化できたのは、なぜでしょうか?
苫野一徳氏: ある意味、反動ですね。人間は、挫折したり辛い思いをしたり、人間関係で色々つまずくと、2つのタイプに分かれると思うんです。1つは「人なんかどうでもいい」といったニヒリストになる人。ルサンチマンを溜めて、人間なんかどうでもいい、この世界なんて滅びてしまえばいいというような気持ちになる。もう一方はロマン主義になるんです。ニヒリストとロマンチストって、実は表裏一体なんです。僕は「こんな世界は間違っている!」と世界を否定するよりは、どちらかと言えば、「もっとよい世界がある筈だ」と希望を探し求めるロマンチストになったんです。そういう世界を実現したいと思い、大学に入りました。若気の恥ずかしい話なのですが、「人が互いに愛し合える世界を作りたい」みたいなことを思っていました(笑)。そもそもは子どもの時に外国人との付き合いが多かったことがきっかけで、日本の学校文化にちょっと馴染まなかったというのもあります。日本の場合だと、特に学校などでは、同じであることを前提とする。違うことが前提だったら、「まぁ、そうだよね」という感じで、分かり合うことができるはずなのに、と思っていました。
――単純な物珍しさからくる異人間的な形ではなく、前提として考えるのですね。
苫野一徳氏: 異質性というのが前提なので、より了解し合える可能性も高まるだろうと思うんです。なので学校も、もっと人間関係が開かれて、多様に広がればいいなという思いがあって、それを実現させたかったんです。
――ご自身でニヒリズム、ニヒリストの方に行かなかったのはなぜだと思いますか?
苫野一徳氏: 本当に紙一重のところだと思います。「自分は誰からも受け入れられてない」と、ずっと思っていたんですが、どこかで親や一部の先生などが自分の存在を承認してくれていると感じていました。やっぱりそこが土台になっていたと思うんです。そこでもしも誰からも承認されなければ、間違いなくニヒリストになっていたと思います。
――絆みたいなものを感じていたんですね。
苫野一徳氏: だから教育は、特にそういう承認とか信頼の場であってほしいというのが、自分自身が教育学をやっていて常々思うことです。虐待を受けたり、人間関係で悩んだりする子どもがたくさんいるので、ちゃんと存在が承認されている、そういう教育にしたいなと思っています。