辻秀一

Profile

1961年、東京都生まれ。北海道大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部内科、同スポーツ医学研究センターを経て99年に独立。QOL(クオリティーオブライフ)向上のための活動実践の場としてエミネクロスメディカルセンターを設立、現在に至る。人が自分らしく心豊かに生きるQOLのサポートを志し、応用スポーツ心理学をベースにした独自理論「辻メソッド」でメンタルトレーニングを展開。年間200回以上のセミナー・講演活動、年に数回の「人間力ワークショップ」を行っている。 著書に『スラムダンク勝利学』(集英社インターナショナル)、『心を磨く50の思考―誰でもできる「いい気分」のつくり方』(幻冬舎)、『自分を「ごきげん」にする方法』(サンマーク出版)など。

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当たり前のように一生懸命にすること


――中学受験の時は、どのような感じだったのでしょうか?


辻秀一氏: 関西の灘中や甲陽中学校などを目指していましたが、父が東海大学医学部の教授になることになり、関東に受験校を変更しました。すると、それまでやっていなかった社会科が受験に必要になったんです。社会科の勉強は付け焼き刃的でしたが、昔から本番を意識しにくいタイプで、「自分の持っている力は出るから」という考えを持っていました。栄光学園を受ける時も、「受かるんだったら受かるでしょ」といった感じで、落ちたらそれは落ちるにふさわしい自分しかいないんだということ。だからこそ、当たり前のように一生懸命するということ、ただそれだけです。かっこよく言うと、吉田沙保里選手と一緒で、一生懸命の連続な日々があって、今がある。それ以上でもそれ以下でもないだろうと思うんです。『スラムダンク勝利学』的に言うと「ただ石を置く」という感じ。自分の置ける石しか置けないのだから、急に5トンの石を置こうとしてはいけない。そういう発想はあの頃からあったと思います。

――中学校時代は、どのように過ごされていたのでしょうか?


辻秀一氏: 中高は、神奈川県の各小学校の1番が集まるところだったので、僕は成績が180人中100番位になりました。でも、僕はそこにはあまり競争意欲もなく、「一番になりたい」とは思っていませんでした。受験校なので、あまり強いチームではありませんでしたが、バスケがとにかく大好きだったので、バスケに夢中でした。
小学校4年までは剣道をやっていて、中学校で剣道部に入ろうと思ったら栄光学園になかったんです。走るのは速いけれど、陸上というのはあまりピンとこなくて、小学校で流行っていたポートボールなども得意だったし、父も昔バスケットをやっていて「バスケットは面白いぞ」とよく言っていたので、バスケット部に入りました。中1の時に中2の先輩方と外にあるコートでバスケをやった時に「スペースの取り方が上手い」とほめられて、うれしかったのを今でも覚えています。ドリブルやシュートなどはあまり上手くなかったのですが、ジャンプ力があったのでリバウンドが大好きでした。今思えば「花道みたい」な感じです(笑)。ただ、受験でほっとしていたのか、僕の勉強に対する一生懸命さは中学3年くらいで少し低くなっていったような気がします。

一生懸命することの面白さを思い出させてくれた友人


――その一生懸命さが復活したきっかけはなんだったのでしょうか?


辻秀一氏: 僕の人生に影響を与えたのは、中3の時に僕の隣に座った伊東君です。陸上部のキャプテンで親友だったのですが、伊東君と「勉強を本気でやってみたらどうなるのかな?」といった会話をしたんです。小学校の頃は、勉強をし過ぎて親の顔が分からなかったということもあったけれど(笑)、あの頃は楽しかったし、空も青かった。やっぱり本気でやらないと楽しくないんじゃないかなって思ったんです。僕は伊東君に火をつけられ、そこからは2人で死ぬほど勉強しました。1年くらいしたら、2人の成績が上がったんです。伊東君が学年の成績で2、30番台になって僕が3、40番台。栄光の場合は、180人中60人は東大に行きますから、60番以内は、即ち東大に行けるレベルという感じでした。それで「一生懸命やるっていうのは良いことだな」と2人で噛みしめました。そこから自信がついて、以前より活動的になった気がします。伊東君との出会いが、僕の転機だったと思います。伊東君はそんなこと覚えてないかもしれませんが…。

――高校の時はバスケットはされていたのでしょうか?


辻秀一氏: はい。県大会を勝ち進む訳でもなかったのですが、相変わらずバスケが大好きでした。高校に入ってからは横浜に住んでいましたが、東横線に乗って渋谷まで行き、歩いて代々木の第2体育館にいつも1人で行って、インカレの人たちにサインをもらったり、日本リーグに行って松下電気のフリーマンという選手にサインをもらったりしました。あの時には、自分が作ったプロチームが参戦して代々木第2で試合をするようになるなんて思ってもみなかったので、今は本当に感激です。

――先生の原動力とは?


辻秀一氏: 一生懸命やっていること自体が楽しいというか、そこに理由を考えていない気がします。“一生懸命やったら何か得られるから”とかそういうことではなくて、一生懸命やること自体を楽しむということが原動力です。だってそれだったら、人生、いつでも楽しいはずです。だから、適当よりも一生懸命。それが人生の答えですよね。

――大学進学の時は、どのようなことを考えて進路を選ばれたのでしょうか?


辻秀一氏: 僕は高3まで物理が好きだったので、エネルギー問題、原子力がやりたくて京都大学の理工学部に行こうと思っていました。ただ、「研究者として勉強を人生の主役にするほど勉強は好きじゃないな」という思いがあったんです。僕の特技は勉強自体ではなくて、“一生懸命すること”。父が研究者でしたが、僕は研究すること自体はそれほど好きではないかも、と現実的に思ったのが高3の秋でした。そしたら、選択肢としては医者しかなかったので、医学部に行くことにしました。医者の場合は、勉強というよりは、「人が好きだったらできそう」といった感じもありました。

――なぜ北大だったのでしょうか?


辻秀一氏: 「国立の医学部でバスケをやっていて、かつインカレに出られる可能性があるところ」という条件で考えました。父が東海大学の教授をやっていて、医学部のバスケの部長をやっていたので、北大の医学部に関して聞いてみたら、「医学部のリーグがあって、優勝しかしてないみたいだよ」と教えてくれました。東医大(東日本医科学生総合体育大会)のパンフレットを見たら「東医大連覇、全医体連覇、インカレ出場を目指しています」といったことが書いてあって、「最高じゃん!」って(笑)。それで、憧れて受けたという感じです。札幌には行ったことも北大キャンパスを見たこともありませんでしたが。

自然を感じ、自分を見つめ直すことを知った


――大学生活はどのような感じでしたか?


辻秀一氏: 学生時代はバスケットに明け暮れて充実していました。北海道は僕にとって、バスケットの競技をさせてくれた素晴らしいところであると同時に、僕のこの人間性を育んでくれたところでもあります。栄光学園もキリスト教の学校だから、常に人のためといったような教えがあるんですが、それも僕の中には、信条というか、ボディブローのように刺さっていることだと思います。しかし、北海道では自然を感じたんです。自然には、今まで自分が知らなかった色や匂いがある。この自然の色彩と匂いが人間を育むんだなと思いました。あと、1人暮らしをしていたので、孤独の寂しさや1人で自分を見つめることの重要性にも気が付きました。バスケット以外の部分でも考えることの火を灯してくれたような気がします。でも、酔っぱらって救急車に乗ったこともあるし、はちゃめちゃなこともやっていましたね。

――大学卒業後はどちらへ進まれたのでしょうか?


辻秀一氏: 慶應の医学部を落ちた悔しさもあったし、慶應の医学部の連中はバスケットが強かったので知り合いが多いこともあって、慶応の医学部内科の入局試験を受けました。結構難しい試験だったのですが、あの時は頭が冴えていたというか、起死回生でした。国家試験の時も、ずっとバスケットに明け暮れていて、秋までバスケをやっていました。人間1日16時間勉強するのが限界です。朝・昼・夜それぞれ休みが1時間。それ以外に5時間寝る。それ以外は全部勉強です。国家試験は1月くらいなので、12月くらいまでそういった生活をしていました。

著書一覧『 辻秀一

この著者のタグ: 『スポーツ』 『海外』 『生き方』 『原動力』 『理系』 『医者』 『直感』

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