経験を形に、想いを文章に
文学批評、精神分析が専門の法政大学教授、鈴木晶さん。日本では数少ないバレエ史研究家の一人で、“バレエの伝道師”としても活躍中です。「『こころ』と『からだ』がどのような関係にあるのか」を映像と身体表現を通して探る研究を続けられている鈴木先生に、本との関わり、ターニングポイント、翻訳の仕事の魅力を語っていただきました。
音楽に情熱をかたむけた十代
――(鎌倉の家にお邪魔して)素敵な空間ですね。
鈴木晶氏: 通勤は電車で片道二時間。私はわりと仕事に没頭できるタイプなので、電車の中も書斎になります。さいわい横須賀線はグリーン車があるので。一年間の通勤時間だけで、分厚い本を一冊翻訳したこともあります(笑)。最近は、古民家が流行っているので、カメラを持った人たちがよく歩いていますよ。ここは山も海もありますが、私は海派。ボディボードもやります。車のトランクには、ボードやパラソルやゴザなどが全部入ったままです(笑)。
――アクティブですね。
鈴木晶氏: そういえば、小さい頃から活発でしたね(笑)。小学校の隣に戸越公園という大きな公園があったのですが、授業が終わると、家にカバンを置いてすぐに仲間で公園に集まって、日が暮れるまで野球をしていました。勉強も好きでした。なんとなく教駒=東京教育大学附属駒場中学・高校(現:筑波大学附属駒場中学校・高等学校)を受験することになったのですが、実は親も学校のことをよく知らなくて、願書を出しに行った時に初めて男子校だということを知ったそうです(笑)。けっこういい加減な親ですね。
文学も好きでしたが、十代の頃に一番情熱をかたむけていたのは音楽でした。中学一年の時に家族全員で「サウンド・オブ・ミュージック」を観に行きました。映画の中でジュリー・アンドリュースがギターを弾いて歌うんですが、映画の帰りにレコード屋の前を通りかかり、親父がギターを買ってくれました。その頃はフォークソングの全盛時代で、中学二年ぐらいのとき、友人とバンドを組みました。色々メンバーは替わりましたが、三〇歳くらいまでずっと続けましたね。
――素敵なお父様ですね。
鈴木晶氏: 父は大正の末の生まれですが、クラシック音楽が趣味で、家にもレコードがたくさんありました。町工場の経営者でしたが、工場が傾きそうになったこともあって、そういった時は倒産するたびに姿をくらまし、ドイツ語やフランス語や英語の技術翻訳をして生計をたてていました。理科系の人でしたが、若い頃から語学にも興味があったようで「今のうちから英語を勉強しておけ」とよく言っていました。小学五年生ぐらいの時には、白金にあった修道院でイギリス人の修道女が子どものための英会話教室をしていたので、そこに通いました。私の最初の仕事は翻訳でしたが、父親の影響が大きかったのだと思います。
中学三年ぐらいからは、御茶ノ水にあるアテネフランセ(フランス語・英語教室)に、フランス語を習いに通っていました。「英語、フランス語はもうやったから、高校ではドイツ語をやろう」と思ったのですが、なぜかあまり相性が良くなくて、一年くらいで挫折してしまいました(笑)。
徐々に定められた方向性
鈴木晶氏: 文学には一貫して興味があったので、大学では読むだけではなく、小説を書いてみたりもしていました。大学は六年、修士に三年、ドクターで五年いましたから、合計十四年。三十二歳まで学生だったんです(笑)。私はあまり先のことを考えないところもあり、これという将来の夢もありませんでした。大学院で川端香男里先生に指導受けるようになってから、本格的に勉強を始めるようになったのです。家庭教師や塾・予備校の講師などをやりつつ、作家の高橋たか子先生のところを訪ねたところ、翻訳を勧められて翻訳の手伝いをするようになりました。翻訳は私に合っていたんでしょうね。「これだ」と思いました。そして次の転機は、二十九歳の時の結婚でした。
“家庭をもつ”という責任が生まれ、私としても「もう少し働かなくてはいけないな」と(笑)。放送関係に少し興味があったので、FM東京のアナウンサーの試験だけは受けました。五次試験まであって、最終的に残ったのは五人。私もその中の一人だったのですが、結局その年は、一人の採用もなし。そこで次に考えたのが大学の教師。法政大学が私を呼んでくれて、今年でもう二十六年になります。大学の教師をしながら、ものを書いたり翻訳したりするという生活を続けています。今は「これが私の運命だったのかな」と思っています。
――その間、多くの先生との出会いがありました。
鈴木晶氏: 私がお世話になった作家の高橋たか子先生や、秋山さと子さんというユング(スイスの心理学者)心理学で有名な先生、それから精神分析の岸田秀先生、フランス文学の生田耕作先生、それから指導教授の川端香男里先生。そういう方々が、私を評価してくださったことが大きな励みになりました。私は先生たちに育てられたのだと感じています。早い時期に本を出せたのは、運も大きかったと思います。私は幸運にも、二十七歳くらいの時に最初の本を出すことができました。
若い頃は、精神分析関係が多かったのですが、途中からバレエの研究をやり始め、いま主に研究しているのはバレエの歴史です。評論家の三浦雅士さんは、ニューヨークに行っている間にダンスに目覚めたそうです。彼とは古いつきあいだったので、彼に引っ張りこまれたという部分もありましたね(笑)。彼がニューヨークから帰ってきて、『ダンスマガジン』をリニューアルすることになり、私も連載することになりました。翻訳の場合は、向こうから頼まれる場合と、自分で持ち込むという場合が半々。『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』という本に関しては、私自身が読んで「面白いな」と思ったので、講談社に私から提案しました。そういえば最近、私は翻訳型人間なのだなとつくづく思っています。
「面白い」ものを共有したい
―― 翻訳型人間というのは。
鈴木晶氏: 岸田先生も「翻訳がすごく楽しい。」と、おっしゃっていますが、私も横文字を見ると縦にしたくなってしまう人間なのです(笑)。日本語に置き換える作業が、一種の快楽となっているのです。『ソクラテスと朝食を』を翻訳した時は、著者のイギリス人とメールのやり取りを毎週して、意味のとれないところを教えてもらいました。便利な世の中ですね。翻訳は根気と労力が必要とされる仕事なので、本を読むのが好きな人は「時間がもったいない」と感じるから、翻訳はしないでしょうね。客観的に読んで「これは通じない」とか「日本語としておかしい」と感じとる部分がないと、翻訳はできません。もちろんそれなりに産みの苦しみというか辛さもありますが、快楽の方が大きいのだと思います。
私の中では“書く”ということが、自然な営みの一つとなっています。私はバレエのことを書くけれど、自分は踊るわけではありません。だから、文章を書くことが自分の唯一の表現手段なのです。ブログはもう十年以上続けてきましたが、典型的な三日坊主の私が継続できたのは読者の存在があったからだと思います。人間は、「自分だけで楽しむのが好き」というタイプと「何か面白いものを見つけたら、それをみんなにも読んでもらいたい」というタイプと、ふたつに分かれるのではないでしょうか。私の場合は後者ですね。それと、バレエの評論家はたくさんいますが、歴史的に研究している人というのはあまりいないので、適当な教科書もない。これはもう自分で書くしかないと。そういう思いが合わさって、文章を書くという形で発信し続けてきたのだと思います。
――本を一緒に作る編集者とは、どのような存在なのでしょう。
鈴木晶氏: 本作りを通して思うことは、編集者との信頼関係ですね。我々には見えにくいものも、編集者には見えていることがあります。編集者は最初の読者でもあるので、すごく大事だと思っています。最近はメールがありますから、単発の雑誌の原稿などでは、実際に編集者に会わないこともありますが、電子出版が発達しても、やはり編集者の重要性は変わらないと思います。本はブログとは違って公共的・社会的なものですから、編集者はいつの時代になっても必要なのではないでしょうか。
――書き方も時代とともに変化してきたのでしょうか。
鈴木晶氏: 私は日本で普及し始めた頃から、原稿を書くのにワープロを使っていました。その後、パソコンが普及し初めましたが、ワープロのほうもどんどんパソコンの機能を取り入れていったので、なかなかパソコンに切り替える気が起きず、最終的にパソコンに切り替えたのは95年。周りにいた人たちがみんなMacだったこともあって、それ以来Mac一筋です。インターネットが発達したことにより、メールも調べ物も楽になり、ビジュアル的にも、一気に世界が広がりました。根本的に知識のあり方が変わったと思います。今はだいたい一日中、パソコンの前に座っています。
――電子媒体をフル活用されています。
鈴木晶氏: 「ScanSnap S1500(現在は iX500)」は何年か前に買って、ずっと活用しています。大学教員の仕事の膨大な量の書類も、十年ぐらい前まではレターボックスにファイルしていたのですが、スキャンしてデジタル化してしまうと、書類そのものは捨てることができるので楽ですね。非破壊型のSV600は、A3でもけっこう速くスキャンできますし、自分で裁断機とスキャンを使って、辞典類などを電子書籍にしたこともあります。私は海外に行ったりするもの好きですし、長期的にハワイでものを書こうとしても、電子書籍ならば書斎ごと移動できますよね。それがデジタルのいいところです。
最近は“断捨離”の精神で、もっと身軽に気楽にあちこちに移動したいという移動願望がどんどん強くなってきました。「ドラえもん」じゃないけれど、おなかのポケットからパッと自分の書斎が出てくるというのにすごく憧れます。自炊で一番手軽なのはPDFにすることかもしれませんが、それでは持ち運びには便利でも読みにくい。また、自分で裁断すると本の端っこを時々切りすぎてしまうこともあるし、意外と使い勝手が悪いんです。
アーカイブの可能性でいうと、バレエや講演のプログラムは親和性が高いですね。そういった資料は後々貴重なものになるので、舞踊評論家はみんな保管して持っています。「好きだから、やっぱり捨てられない」という愛着を持つ人もいますが、私は全部電子化しちゃいます。ブロードウェイなどは、プログラムの大きさが統一されているので保存しやすいのですが、日本の場合、バレエのプログラムは大きいし、バラバラなんですよ。
――見やすさを重視して作られているのでしょうか。
鈴木晶氏: 写真がきれいというのもあるかもしれません。でも統一されていないので、本箱にもなかなか収まらない。こういったものも全部電子化しちゃうんです。何よりも私にとって電子化しなくてはいけないものは、参考文献・資料。“楽しみとして読む”となると、本に勝るものはないと思います。本は、人間が発明した最もすばらしいメディアの一つだと思います。本によって芸術や知識が残ってきました。昔は語り部がその役割を担っていましたが、本の発明によって、文明の進化のスピードが一気に上がったと思います。グーテンベルク(活版印刷術発明者)から数えても、数百年は経っているわけで、本はそういう意味では、現存する最古のメディアですよね。本は一瞬でランダムアクセスできるし、美的で、オブジェとしても人間に愛されるようにできているから、素晴らしいと思います。本は印刷してあるから、消えることはありませんが、電子書籍は一時的に文字が出ているわけです。“画面で読んだものは、記憶に定着しにくい”という説があるそうで、「だからディスプレイの情報は覚えないんだ」と、同僚の島田雅彦さんが言っていました。本の方が遥かに記憶定着率が高いそうですよ。
経験を形に、想いを文章に
――欧州に旅立たれるということですが。
鈴木晶氏: いま本務校のサバティカル期間中で、昨秋はニューヨークに行っていました。昼間は図書館で古い資料を探して、夜はバレエを観に行ったりします。今回はウィーンに行って、そこからパリに行って、最後はモナコです。モンテカルロバレエ団の監督にインタビューをすることになっています。ただ、別の大学院の授業はあるので、国内と海外を行ったり来たりです。
――本当に“移動の人”ですね。
鈴木晶氏: 一カ所にいることに飽きてしまうのです(笑)。若い時から引っ越し魔でした。鎌倉に移り住んでからはもう二十五年経ちますが、その間もロンドン、ニューヨーク、パリなど、あちこち住みました。見て回るよりは、そこに腰をすえて生活する方が好きなので、一週間くらいの滞在でも、ホテルではなく、家具付きのウィークリーマンションを借りて、マルシェ(路上市場)に買い物に行ったりして、自分で何かを作って食べるという生活をします。そうして生活するように仕事をしているのかもしれません。そういった経験を形に、想いを文章に込めています。
文章を書くというのは、単に知識を伝えるというものではなく、一種の芸だと思っています。その芸を楽しんでもらうためにも、どういう風に表現するかということをいつも私は考えています。もちろん、人それぞれ、好き嫌いもありますが。今後も、人を楽しませることを考え、発信し続けたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 鈴木晶 』