電子書籍にはあまり期待しない方がいい
中高生の頃からSHARPのマイコン『MZ-700』のプログラマーとして伝説となり、JavaScriptやMacOSXの基本TIPSなどWEB上での情報公開を多数している古籏一浩さん。プログラミングの著作は50冊を超え、電子書籍やDTPにも造詣が深い古籏さんに、インターネットや電子書籍の未来についてお伺いしました。
初めはMZ-700に親しみ、途中はDTPで遊び、今はJavaScriptを研究する
古籏一浩氏: 僕の本業は配達業なので、この仕事場で執筆をしますが、配達中の車の中でしゃべって書くこともあります。もちろん赤信号で止まっている時ですが。執筆は音声録音のシステムを使いますね。『iPhone4S』でメモ帳があって、音声から出力をしてくれる。認識はあんまり良くはないんですが。実際に赤信号で音声出力した原稿で、本のイントロや短い章を書いています。
――原稿の文章など、基本的なお考えは、全部頭に入っている状態なのでしょうか?
古籏一浩氏: 頭に入っているかというと、それはあらかじめ入れておくんですね。単語とか資料的なものは全部片っ端からそうなんです。覚えたいものを書くと頭の中に入るわけですよ。自分の場合は大体この本1冊弱、400ページ分はまるまる全部入ります。
――やはり常人の技ではないと思うんですが。
古籏一浩氏: そんなこと無いですよ。手塚治虫の伝記か漫画にあったけども、手塚治虫さんは全部書いたことを覚えているからね。「本棚のどこにあって」とかね。でもそれくらいでは驚かないですね。
――資料を丸暗記されるのは昔からですか?
古籏一浩氏: 中学1年の時は英語の『NEW HORIZON』(東京書籍)という教科書をほぼ丸暗記していました。暗記の訓練などは特にしていません。普通にできたというか。点数は、丸暗記できる英単語などはいいんですけども、中学1年の科目は数学とか、丸暗記だけでは点がとれないレベルになっている。英語なら、単語を覚えればテストの点はいいわけです。ところがこれが文法や話し言葉になると、途端にダメになる。数学でも、計算問題は大丈夫でも方程式はダメ。
――暗記力の凄さは、ご執筆の時、編集者に驚かれたりされますか?
古籏一浩氏: 編集者とはほとんど会いませんね。こちらが長野で相手は東京だったりしますし、お互い忙しいので。Skypeでの打ち合わせも、共同執筆の企画の時に1度きりです。やりとりは99パーセントがメールです。
期待した本に裏切られて、『自分で書こう』と思い立った
――本を執筆されるようになったきっかけをお教えいただけますか?
古籏一浩氏: ひとつは腹が立ったからです。1995年の3月の終わりにインターネットブラウザーの原型である『Netscape Navigator』のバージョン2が出た。その時に、ようやくコンピュータ業界でよく聞くJavaScript(ジャバスクリプト)っていうオブジェクト指向スクリプトの言語が搭載されたんです。その時に解説の本が2冊ばかり出たんですね。ところが、1冊はただテキストを流し込んであるだけの本。「こんな本、使えるか!!」と思いました。もう1冊は、何を思ったか自分の考えをつらつら書いているだけだった「期待して買ったのに、こんな本役に立つか!」と腹が立ったので、もう自分で書こうと。最初は役に立つコンテンツをのせたウェブページをネットで公開したんですね。その時に、DTPソフトもパソコンもレーザープリンターも手元にそろっていたので、「よし、本を自作してコミックマーケットで売ろう」と(笑)。僕はコミックマーケットではその前から色々な物を売っていたので。
――それで実際にDTPで組まれて、製本までされて、デザインもされたんですか?
古籏一浩氏: 当時のDTPソフトは『PageMaker』なんですね。DTPという言葉が日本に入る前のことです。それを使ってページのデザインをしました。当時一緒に出たのが『Illustrator』のバージョン1なんです。当時は英語版でした。その前も一太郎やWordStarという英語版のソフトを使って、某社のICのマニュアルを作成していました。パソコンのサークル会報とかを毎月出していたので、執筆に関してはサクサクと。途中まで作成したものをWEBにアップしておいたのですが、そうしたらウェブページのコンテンツを見つけた人がいまして、それがのちに1冊目の本の共同執筆者になる松尾忠則さんだった。彼は九州在住なんですが、「僕、知り合いの版元に原稿を見せてみるよ」と言ってくれたんです。そこはパソコンの専門書を出していた出版社だったんですが、編集にかけあってもさっぱり音沙汰が無かった。それで「これは見込みがないから他の出版社にしよう」ということで、当時『インターネットマガジン』(1994-2006 年まで/インプレス)というのがあったわけです。その書籍一覧をたまたま見たら『JavaScript』がなかったので、「じゃあここにしよう」と決めたんです。それで、東京で松尾さんと打ち合わせをして、インプレスへ行くまえに、「前半は僕が書くよ」「じゃあプログラムはこっちが書くよ」って作業分担をして、出版社行った時はもう、原稿が全部できていましたね。
――それがご著書の第1弾だったんですね。
古籏一浩氏: 当時は『JavaScript』といえば、日本語では僕のページか、もう一つの『独学JavaScript』というサイトしかなかった。今と違って、ネット人口も少なかったですし、機械のスペックも違っていたので、Java自体が動かなかったんですね。Macも、Macintoshなんだけど、使っていたのは68系Macの『MacSE30』でした。本当に黎明期です。
コンピュータ歴は父親の会社の『ミニコン』をいじったことが始まり
古籏一浩氏: 僕がウェブサイトを始めたのは、1996年の3月あたりですが、コンピュータ歴はもうちょっと長いんです。僕の父親が勤務していた会社が、日本にコンピュータが十数台しか無い時に『東芝TOSBAC』というミニコン(1960-1980年代に普及した本棚サイズ程度のコンピュータ)を導入していたんです。当時は億単位したシステムだと思うんですが、そういうのが会社にあった。当時はそのメモリが当時は16Kくらい、拡張して32Kじゃなかったかな。
――どんなことができるのですか?
古籏一浩氏: 基本的には給与計算をやらせるのが主な目的だったんですけれど、あの当時『TOSBAC』はグリーンディスプレーで、モニターでちゃんと計算できたんですよ。これが画期的だった。何故かというと、当時は紙テープかパンチカードの時代だったんですよ。1977年か1978年ですよね。確かそのぐらいのはずです。僕は小学校低学年で、『インベーターゲーム』とか『パックマン』とかゲームがやりたいだけだった。その当時、学校ではインベーダーゲームで遊ぶのが禁止されていた。だから『パックマン』ならインベーダーゲームではないから問題ない、パックマンで遊ぼうと。それで、当時パックマンをプレイするのが1回100円。300円くらいしかお小遣いがないのに、全額つぎ込んでいた(笑)。
それで、コンピュータを使えばゲームが遊びたい放題だと…。多分僕の世代で、あの当時マイコンとかパソコンとか買った人は同じ考えの人が多かったのではないかと思います。パソコンを買えばゲームがただで遊びたい放題だったわけです。それで、そのTOSBACには都合のいいことに、ゲームが2・3本搭載されていたんですね。その一つがオセロ風ゲームだったのはよく覚えています。それでコンピュータに挑戦したら、まんまと負けました。すごく強くて。それで『全部取られた!』って言っていたら、会社の社員が寄ってきて、『全部取られたやつがいる』とガヤガヤしていましたね。
――いわゆるインターネットが普及する95年から、今2012年ですが、コンピュータの変遷についてはどうお感じになりますか?
古籏一浩氏: 途中から進化する速度がうんと速くなりましたね。僕が高校3年の時に、音楽を作っていた友だちと「ゲームでポリゴンとして置いて動かし放題のものができたらすごいよね」と話していて、自分たちの予想としては、そういうものができるのは何十年か後だろうという感じだったんです。ところがもう半年後には実現されていましたね。それがアタリ社から出た『ハードドライビン』というアーケードゲームで、その後に『V.R. バーチャレーシング』(SEGA)『リッジレーサー』(ナムコ)ときて、『リッジレーサー』からかなり速くなりました。単色ポリゴンの三角形で・・・という状態で一生懸命やっていたのが、1年もたたないうちに、『リッジレーサー』になっちゃうわけですよ。「ムーアの法則」(ゴードン・ムーア博士の提唱した、半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増するという法則)ですね。
小さい頃は『スカイウォッチャー』や『天文ガイド』を愛読
――幼少期はどんな本を読まれていたんですか?
古籏一浩氏: 小学校5年くらいまではほとんど天文学の本です。今で言うと『天文ガイド』(誠文堂新光社)が一番近い。『スカイウォッチャー』(アストロアーツ)とか。Vixen(ビクセン)というメーカーの天体望遠鏡をクリスマスプレゼントで買ってもらいました。
――手に入れた時の感触はいかがでしたか?
古籏一浩氏: 当時は、惑星探査機のパイオニア10号や11号がまだ木星についたばかりの時代です。口径6cmの望遠鏡でもちゃんと木星の四大衛星などが見えました。土星の輪も見えましたね。でも、探査機から写真が送られてきてしまうと、他の人に見せても「なーんだ」って言われて悔しかったですね。
――新しいものへの探究心はそういった所から芽生えていったのかなと思うんですが、昔から好奇心旺盛だったのですか?
古籏一浩氏: 自分の興味のあることは長い時間をかけてやっていましたが、なまけものでしたね。当時小学校3年くらいの時に、コンピュータでゲームを作りたいと親に言ったら、「CPUの仕組み」みたいなCPUのアーキテクチャ(基本思想や設計)の本を買ってきて、これで勉強しろって言われまして、読んでみたんですが、2ページ目でわからなくなりました(笑)しょうがないので買ってきたのが『マイコンベーシックマガジン』。あれはゲームしか載ってないから。だからできそうだと思ったんだけど、マイコン自体がない。それから何年か待ってMZ-700(SHARPのMZシリーズに属する1982年に発売された8ビットパーソナルコンピューター)というマシンを買ってもらったんです。仕組みですが、音楽カセットをここに入れて、それで市販のテープに作ったプログラムを記録していくんですね。
――出力はどのようにするのでしょうか?
古籏一浩氏: Lってするとコンピュータが読むんです。この当時のコンピュータはリセットを押しても消えないんです。もう1回AじゃなくてBにしようと思ったら、さっき打ったデータが残っているので、02とやって今度はBが出るようにします。1Aの4000番地からプログラムと。コンピュータっていうのはこういうものです。これが純粋な機械語です。逆に言うと高級言語は要らないんですよ。今でも、コンピュータの中は、本当はこうなっている。今も変わらないですね。僕は本来の仕組みを知っていますから、こういうことをやっているとPCの裏で何が動いているかよくわかるわけです。だから危険なプログラムとかバグが出るプログラムとかは必然的に避けられる。「これは危ないな」ということで。
著書一覧『 古籏一浩 』