奥村晴彦

Profile

1951年生まれ。京都府京都市出身。名古屋大学理学部卒業、同大学院理学研究科修士課程修了。高校教諭を経て1994年より松阪大学政治経済学部(現・三重中京大学現代法経学部)助教授、1999年同教授を経て2004年より現職。博士(学術)(総合研究大学院大学数物科学研究科核融合科学専攻)。著書に『LaTeX2e 美文書作成入門』、『基礎からわかる情報リテラシー―コンピュータ・インターネットと付き合う基礎知識』(ともに技術評論社)などがある。

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電子化を上手に活用、紙にこだわる必要は全くない



1951年京都市生まれ。名古屋大学理学部卒業、同大学院理学研究科修士課程修了。高校教諭を経て94年より松阪大学政治経済学部(現・三重中京大学現代法経学部)助教授、99年同教授を経て2004年より三重大学教育学部教授。学生時代から、パーソナルコンピュータ(当時のマイコン)誌の論客として知られ、アルゴリズム関連の記事などを投稿。NEC のパソコン通信サービス PC-VAN の SIG SCIENCE 主催者などもされてきました。本や論文などを印刷・電子化するためのフリーソフト「LaTeX2e」や関連ソフトについてやさしく解説した著書『LaTeX2e 美文書作成入門』は有名です。データ管理のエキスパートである奥村晴彦教授に、「電子化」とは何かをお聞きしました。

重要なのは大人への情報教育


――先生のご専門は情報教育ですね。


奥村晴彦氏: 私は昔から、とにかく情報のビット列をどう縮めるかに興味があり、データ圧縮ソフトなどを研究してきました。

――まだ、インターネットが広まる前でしたね。


奥村晴彦氏: 電話回線を使ってパソコン通信をしていた時代からです。当時は3分で10円かかり、送ることのできるデータ量にも制限がありました。安く時間をかけずに情報を送るために、いかにデジタル化・コード化するかということで「データ圧縮」とういう発想になったんです。NECのパソコン通信サービスPC-VANのSIGサイエンスをやっておりまして、その中でデータ圧縮のアルゴリズムを開発したりしていました。

――もとは高校教師をされていて、大学へ移られたのはどのようなきっかけでしたか?


奥村晴彦氏: 圧縮のアルゴリズムなどの研究をしていましたら「大学で教えてみないか」と声が掛かるようになりまして、それで大学へ移りました。大学は研究のアウトプットを必ず毎年出さねばならず、論文を書いたり、国際学会で海外に行ったりと、そういう業績を積まないと生きていけない世界ですから、それはそれで面白いですが、大変です。

――教育という面でも学生の方たちと触れ合う機会も多いと思いますが、今の学生さんの印象はいかがでしょうか?


奥村晴彦氏: 私は教育学部で情報教育を教えていますが、学生さんたちはコンピュータの力だけでなく、人間のつながりを大切にする力、いわゆる「コミュニケーション力」がついているように思います。人間力のある学生さんが多いです。彼らは学校現場だけでなく企業に入っても成功する。IT技術だけではなく人間関係も作れるというのは、非常に重要ではないかと思います。

――学生への情報教育も重要ですが、大人の情報教育も大切なのではないかと思います。




奥村晴彦氏: そうなんです。特に東日本大震災以降、政治家や国・地方自治体の「情報リテラシー(情報活用能力)」がこんなものだったのかと、がっかりしました。例えば、せっかく放射線量を計ってパソコンに打ち込んでも,プリントアウトしてファックスで送る。画像になりますから打ち直さなければデータとして扱えない。ファックスが届いてもすぐに気がつかなかったという事故も起こりました。ではメールならいいかというと,SPEEDI(スピーディ)の計算結果をメールで送ったら、メールスプールがあふれそうになって全部消したという話もありました。何のための電子化だろうと思いますね。会社や大学では、情報の共有によく「グループウェア」を使います。グループウェアなら同じファイルを全員に送る必要はなく、サーバーにあげるだけでいい。いつ誰がどこでそれを見てどう処置をしたか、グループウェアですべて管理できます。そういう技術面も含めて、情報共有のやり方が、うまくいっていないのではないか。あとは、震災時の情報発信の仕方ですよね。普通にウェブページで発信するのではなく、PDFで出す形式が多かった。PDFだと古い携帯では読めないし、読めても画面が小さいと見にくい。データとしても使いづらい。普通にテキストやHTMLで届けていただければまだ扱いやすいのですが。

――データとしての性質を理解していないということですね。


奥村晴彦氏: 「電子化」の意味がわかっていないから、単なる紙の代用としてそういうことをしてしまう。例えば厚労省から食品中の放射能量のPDFファイルが毎日出ますが、われわれはその数値をグラフ化したり、解析して傾向を見たいわけです。きれいに帳票の形になったPDFではデータとして役立たない。だから、私は毎日このPDFをデータ化して、データベースで検索できるようにして再提供しているんです(http://oku.edu.mie-u.ac.jp/food/)。例えば「なめこ」と入れると、なめこの今までの検査結果が全部わかるようになっている。われわれからすれば、こういうものはデータとして出すのが当たり前ですが、それがわからない方が多いというのが、頭の痛いところです。ですから、多分、子どもより大人の情報教育のほうが重要になってきているのではないかと思います。

「とにかく誤植をされたくなかったんです」


――パソコン通信サービスを活用して記事の投稿をされるようになったのはいつごろですか。


奥村晴彦氏: 私は学生のころは物理を専攻していました。物理では食えないと思って、とりあえず高校の数学の先生に(笑)。高校教師をしながら勉強をしていましたが、そのころちょうどコンピューターが個人でも手に入るような時代になった。最初に買ったコンピューターは、約20万円、8ビットのメモリ64キロバイト(笑)。そんな時代でしたが、それを買ってアルゴリズムの勉強をしたりしていました。雑誌に記事を投稿するようになったのはそのころからですね。いかに情報をビットの列に縮めて入れるかが私のもっぱらの関心事になって、その中でアルゴリズムに興味を持って、その内容を記事として投稿したりしていました。

――本を執筆したのも、投稿がきっかけですか?


奥村晴彦氏: そうですね。当時コンピューターに興味を持っていた人はたくさんいましたけれども、物理や数学の知識を持っているライターさんはあまりいなかったので、そういう切り口が良かったのだと思います。最初は8ビットのコンピューターの時代ですから、執筆原稿もまだ手書きでした。だんだんコンピューターが進化して、ワープロでも受け付けられるようになりました。最初の本はかなり誤植が多かったんです。それで組版に興味を持ち始めまして、組版まで自分で全部やるようになった。

――すごいですね。


奥村晴彦氏: とにかく誤植されたくなかったんです。数式がありますし、ややこしいコンピューターのプログラムで誤植が発生したら大変ですから。それで文字1つから数式1つまで、完全に自分でコントロールしたいと思いまして。私は高校教師をやっていた時代に、高校の数学の教科書の執筆もやっていたんですよ。高校の数学の教科書は、それこそ絶対に誤植があってはいけない。でも、当時原稿は手書き。まだ写植の時代で、例えばaのx乗の「x」が少し離れすぎたというと、写植の技術者さんがフィルムを小刀で切って少しずらしてくれる、そういう時代だった。今では考えられないですが(笑)。

――先生の執筆される本は、誤植が許されない、間違いが許されない状況で執筆されていた経験がすごく生かされていますね。わかりやすく見やすい。


奥村晴彦氏: 本の美しさというのは、書く内容とはまた別の分野ですから。普通の研究者でも、編集者さんが見ても満足できる組版ができるように、スタイルの工夫の仕方だとかを集めたのがこの『LaTeX2e 美文書作成入門』(技術評論社)なんです。

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この著者のタグ: 『大学教授』 『コミュニケーション』 『物理』 『コンピュータ』 『インターネット』 『研究』 『教育』 『データ』 『情報』

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