発見の喜びを感じよう
論理学と哲学を専門とする國學院大學教授の高橋昌一郎さん。「本を知的刺激の出発点に」と語る高橋さんに、ディベート論、論理学と哲学の出会い、そして読書に対する想いを伺ってきました。
新たな発見こそ、ディベートの醍醐味
――高橋先生のゼミは大人気だということですが。
高橋昌一郎氏: 私のゼミは、論理的思考を原則として、日本の論点から国際関係、異文化コミュニケーションからメディア論まで、現代社会で生じる問題すべてをテーマとしています。学生が自由に問題を提起し、ディベートを通して論点を追究しながら、卒論を完成させる形式になっています。
――ディベートにどのような意義があるのでしょうか。
高橋昌一郎氏: ディベートで重要なのは、意見が違うという結論ではなく、なぜ意見が違ってくるのか、その理由を明らかにすることです。これは『哲学ディベート』(NHKブックス)という本にも書いたことですが、なぜ賛成なのか、なぜ反対なのか、論点を明らかにしていく過程で、それまで気付かなかった考え方を発見し、そこからまったく新しい発想を見出すことができる。
――議論していくうちに新しい視点が見つかる。
高橋昌一郎氏: そこが一番面白いところです。哲学ディベートの目的は、あくまで新たな発見にあります。哲学ディベートによって知的刺激を与え合い、そこで培った発想や方法は、社会に出ても大いに役に立つ。自分の気付かない論点を探していくうちに、いかに自己主張して相手を説得するかだけではなく、いかに他者を理解すべきか考えられるようになるわけです。
――ディベートをする上で注意すべき点は。
高橋昌一郎氏: 最近の学生諸君は、自分自身が賛成か反対かを考える前に、すぐにインターネットで調べてしまう傾向がありますね。たしかに情報検索は論点整理には役立ちますが、結論を誘導するような主義主張に踊らされてはならない。最終的には、問題から抽出した論点に自分自身の価値観や倫理観で立ち向かって判断する必要があるでしょう。それが欠如すると、結果さえよければ何をしても構わないという成果主義に陥ってしまいます。
――成果主義の弊害は、どのようにして表れるのでしょうか。
高橋昌一郎氏: 欺瞞が生じます。たとえば京都大学合格という結果だけが欲しければ、手中に隠したスマートフォンを駆使してカンニングすればよいし、『ネイチャー』に論文を掲載したければ、文章や図表をコピペで作成し、実験結果も捏造すればよいことになる。残念ながら、この種の欺瞞は学問領域全般に広がっている。ちょうど今、この問題に関する『学の欺瞞』(講談社現代新書より出版予定)という本を書いているところですよ。
読書によって考えるクセがついた
――論理学と哲学の道を志すようになったのは。
高橋昌一郎氏: どちらも比較的早い時期に興味を持っていました。幼少期の父の教育方針に依るところが大きかったかもしれません。父は心理学者でしたが、ほとんど放任主義で、とくに何かをやれと言うこともなかった。ただ子どもがテレビを見ることだけは一切禁止で、私は小学校の頃に大流行していた「ドリフターズ」が何かさえ知りませんでした(笑)。仕方がないので、暇な時間に本を読むようになったわけですが、本だけはいくらでも買ってくれたし、父の書斎にある本も勝手に読んでいました。結果的に幼少期から膨大な読書ができたことは、テレビ禁止の賜物だったと感謝していますよ。
――考える訓練はその頃に。
高橋昌一郎氏: テレビそのものを否定はしませんが、子どもが没頭して見ることには注意が必要でしょう。映像は、視覚と聴覚に同時に膨大な情報をどっと流し込みますから、その渦中に巻き込まれて、自ら思考し判断する能力が低下する恐れがあります。本だったら文字しかないから、すべて自分の脳内で組み立てなければならないでしょう。
――どのような本を読まれていたのですか。
高橋昌一郎氏: 小学校の頃は、シャーロック・ホームズにアルセーヌ・ルパン、太閤記や三国志、アイザック・アシモフやアーサー・クラーク…。推理小説、歴史物からSFへ進んで、高学年の頃には大人の文庫本を読んでいました。あらゆる種類の本を読むことで、いろいろなことに興味が出てきて、読んでわからなかったら、別の本で答えを探す。そこから本は、私から切り離せないものになったのです。
中学から高校にかけて、一番興味があったのは宇宙論で、天文学や宇宙物理学の本を読み進めていくうちに、「宇宙はなぜあるのか」、「生命とは何か」、「そもそもなぜ我々は存在するのか」というところに考えが向かい、哲学にも興味が湧いてきました。すると、父の友人のウエスタンミシガン大学の物理学の教授が「お前の子どもは変わってるから、こっちに寄こせ」と言ってくれて(笑)、アメリカへ行くことになりました。