変化に揺るがない小説家
90年『プレーンソング』(中央公論新社)でデビューし、日常を題材とした丁寧な描写で小説を書き続ける保坂和志さんは、95年に芥川賞を受賞して以降も、多くの文学賞を受賞しています。カフカやトルストイなどの名作を繰り返し解読し、さらに小説家を目指す人のための入門書なども執筆しています。また、ネットを利用したメール小説やエッセイなども公開している、そんな根っからの小説家である保坂さんの、読書スタイルや電子書籍への思い、さらには書店員や古本屋の今について、面白く語っていただきました。
読みたい本は乱暴に、読まない本は丁寧に
――本をスキャンするということに対して、作家である保坂さんは、心理的なことも含めてどのような印象をお持ちですか?
保坂和志氏: 僕は、そういうことには関心がないので、特に賛成も反対もないです。それは、読み方や所有の仕方などの問題であって、僕の思いはいつも「作る」「書く」こと。だから、僕にとって重要なのは、書いている人の気持ちなんです。
――読み方の問題ということですね。
保坂和志氏: 小説というのは、全く違う二つの読み方がある。評論家のように読むのはすごくつまらなくて、小説家のように読むのが面白い。
両方できれば面白い? それは疑問。ていうか、それもまた、評論家的な考え方なんだけど、それはともかく、どういう形でも、とにかく読むことが大事。本がバラバラにされようがどうしようが、一番読みやすいように読めばいいんです。僕自身、ハードカバーの重い本は、本体とカバーを繋いでる紙のところにナイフを入れて、外のカバーを切り捨てちゃう。で、本体だけ持ち歩いているので。
――その方法は初めて聞きました。
保坂和志氏: ハードカバーって、折り曲げられないから開いて持っていなくちゃならない。外のカバーを切り捨てて、本体だけにすると背中で完全に折れるので片手で持てる。だから僕自身は、本の物理的な形というのは、あんまりこだわっていないんです。小説家の丸谷才一さんもね、本棚に並んでいる本全部、バラしてあるっていうんだよね。1冊を持ち歩くのは重いから、いっぺんに読める必要な部分を、何十ページずつにバラしてある。
――保坂さんの、ハードカバーを切るという読書スタイルも、すごく大胆だと思います。
保坂和志氏: 昔、ジル・ドゥルーズっていうフランスの哲学者の『Mille Plateaux』っていう、今、『千のプラトー』(河出書房新社)という題名で日本語に訳されている本があるんです。フランスで60年代後半にベストセラーになったときは、やっぱりみんな好きなページだけ切り取って持ち歩いていたというのね。そうやって好きなページだけ何度も読むということなんです。「あ、このページがいいな」って感じて、そのページだけを、今だったらコピーをとったりスキャンしたり、後はそれを手で書き写したりできますよね。
――購入した本はすべて、古本屋には絶対に売れないような結果になるのでしょうか?
保坂和志氏: いや、月に買う本が何十冊単位になるわけですから、結局読まずに流していくことになっちゃう本もあります。面白そうだと思って買うんだけど、読み出したらどうってことなく、そのまま読まずに古本屋行きになっちゃうわけですよね。だからそういう本は大事にしているんです、売るものだから(笑)。
――思い入れのない本ほど大事にする…という皮肉な結果になっているのですね。
保坂和志氏: そういうことです。でも自分が線を引いたり書き込みをする本というのは、その時点で古本屋には売れないわけだから。本をきれいに保存しておくということは、フェティシズムか、売る価値があるか、そのどっちかなんですよ。
――なるほど。しかし、古本屋にも持っていけない本は、当然自宅で保管すると思いますが、カバーを取り除いてタイトルがわからなくなると、不便ではありませんか?
保坂和志氏: そういうことする本はたいてい厚いから、背中にマジックで書ける。それから、外のカバーはとっておいてるから、それをかければわかる。本体にじかに外のカバーをボンドで着ける、というやり方が最近は一番気に入ってます(笑)。
辞書には、物体のとしての力が大きいと思う
――いいと思ったところだけを切り取るということは、1冊の本を最後まで読むという一般的な読書の行為とは違った形になりますね。
保坂和志氏: 読書は何かの作業工程ではないし、全体として何を言っているかという趣旨をとろうとすると、書いてある言葉から離れちゃうんですよ。
――全部読むということにとらわれすぎていることはあるかもしれません。最後まで読まないと、「読破」にならないという考え方にあるんだと思います。
保坂和志氏: 読書は労働じゃないんだから。読んでいる間に、すごく興奮する場所とか、だれる場所とかあるでしょ。読んでいる最中の興奮は、読み終わると薄れたり消えたりしちゃうんだよね。だからそっちを大事にするってこと。そのための方法なら、本の形なんかどうでもいいですよ。
――確かにそうですね。
保坂和志氏: その大きな問題としては、だいたいの人は、厚みや物体としての「本」があることによって、全体のどの辺の位置を読んでいるかがわかる。パソコンの前のワープロが出た時から思ったのが、画面スクロールをしていくと、全体の中での占めている位置がわからない。もともとの本というのが、一応1冊のあの形として想定されて書かれている。だから電子辞書で調べるか、辞書や広辞苑で調べるかの違いなのだけど。まあいろいろな派生的な違いはいっぱいあるんだけど。
――本の辞書なら、あいうえおで引きますから、文字を調べるとき、最初にだいたいの位置を想定して本を開きます。電子辞書には、その位置という感覚はありませんね。
保坂和志氏: 本の形の辞書は、「し」で始まる言葉がすごく多いんだよね。だから「し」で始まる言葉を引こうとすると、ちょっと面倒くさいなという感じが必ず出てくる。辞書を引いたことがある人ならわかるんだけどね。電子辞書はそれがなくなっちゃう。「び」で始める言葉でも「し」で始まる言葉でも、時間も感覚は同じでしょう。
――画面には短時間で簡単に出てきますね。
保坂和志氏: 言葉がいっぱいある編み目の中をくぐり抜けて、自分の力でたどり着くという感覚が、本の辞書だとすごく強いんだけれど、電子辞書だとどこも一緒なので、全く真っ平らな感じになる。その違いというのは、1冊の本の中でも出てくるんじゃないかな。あと、Wikipediaなんかで人物を調べていても、ものすごくたくさんの記述があるのと、すごく少ないのがある。やっぱり本の形をしているほうが、人間としてはわかりやすい。中身と関係ないかのように見えるけど、やっぱり大事なものほど量が多くなって厚みもあるわけだから。量が持つ力っていうのは、やっぱり物体としての本のほうがあると思いますね。
――本の電子化に抵抗がある方々には、やはりその「物体の力」が大きいからなのでしょうか?
保坂和志氏: そう。80年代ぐらいから既存の本に対するいろいろな変化が起きてきて、やっぱり現状として、本をバラしてスキャンすることや再販制の問題とかに反対している人たちというのは、本が売れていて、現状で利益を得ている人ですよ。今のCO2削減問題と一緒で、力のある国家が主張して、力の弱い国の主張が通らないというのと同じことが本の世界でも本当は起きている。本の将来とか言いながら、売れている著者が反対しているだけですよ。だから再販制問題でも、「再販制廃止反対」と言っている人は、みんな売れている著者なんです。スキャンにしてもね。僕は大筋としては、どうでもいいですね。
著書一覧『 保坂和志 』