圧倒的に抽象的が勝つ、それが小説の良さ
――では最後に、保坂さんにとっての小説とは何でしょうか?
保坂和志氏: 小説の一番大事なところは、「小説とは」とか、「本とは」と、その一言の質問がウソなんだということを考えさせるものなんです。一言で言えるものっていうのは、ウソなんだよ。でもね、やっぱり小説って、表現媒体としてはすごく変で、小説でしかないような媒体なんですよね。映画とか芝居とかにしても、何時間という枠があるんだけど、小説って本当に枠がなくて、異様に長いものもある。だからね、小説以外のことができる人は、小説ができないんですよね。
――多方面で活躍されているマルチなタイプの人は小説家に向いてないということでしょうか?
保坂和志氏: いろいろな有名な人が一時的に小説を書くんだけど、長続きしない。やることが大変で、そんなにもうかるわけじゃないから。糸井重里さんが「小説ってすごく大変だよね。有名になりたいとか金もうけしたいんだったら、もっと別の近道があるのに、小説家になってそれを実現させたいっていうのは、違うと思うんだよね」って言っていた。本当にそうなんだと思います(笑)。
――書きたいから、もしくは書くことしかできないから小説家になるんでしょうか?
保坂和志氏: そう。小説家は小説しか書けない。ほかの記事とかを書ける人は、別に小説なんか書かなくていいんですよね。本の中で小説って特殊なものなんだと思います。だから本当に残念なのは、世の中でたくさんの名人とか有名な人がいて、それぞれの世界ですごく深いところまで行っている人がいるんだけど、小説がわかる人は皆無と言っていい。みんな小説だけはすごく薄っぺらい表面なところで終わっている。辛うじて、美術家の横尾忠則さんだけが、今そういうところに関心を持ってくれていると思います。
――小説を考えるときに、まずどういう風に読者に伝えるか、ということを一番に考えると、何かの対談でおっしゃっていましたが、それは電子書籍というものが、今までと違う何らかの具体性を持っていても、変わることがないと思われますか?
保坂和志氏: 変わらない。それは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の本を例にして答えますが、ゲルマント公爵夫人が、主人公の「私」に向かって、振り返って手を振ってくれる。彼女は社交界の中心にいて圧倒的な美女なんです。それで、その人がオペラ座に入ってきて、主人公はそれを二階席から見ている。ゲルマント公爵夫人がみんなに注目されながら、彼女のために用意された一階の指定席に歩いて行くわけ。で、座る前に彼女が周囲を見渡した時に、ある主人公の「私」に向かって合図を送ってくれる。「あなたがそこにいるのがわかった」って。そのときというのは、本当にうれしい。絶世の美女に「見たわよ」って言われたら、「うぉ~!」って思いますよね。
――はい、もちろん思います。
保坂和志氏: その時、頭の中でハレーションを起こすぐらいに美女の顔がうつる。だけど美女の顔の具体性がない。振り返ったゲルマント公爵夫人の顔が具体的に誰だったの?って言われたら誰でもない。圧倒的に抽象的なんですよ。それが小説の良さですよね。だから、その電子書籍という新しい形を、すぐに具体性に置き換えるのは違うでしょ。あるいは音楽でも、「自然が至上のメロディーを奏でた」と書くとするよね。そのときに、今までに自分が経験したようなメロディーのそれよりも、何段階か上のものが聞こえたような気がするんだよ、言葉では。それが電子書籍で音とか映像が出てくると、それを具体性にしちゃうからそこで止まる。それがゲルマント公爵夫人の、そのシーンが圧倒的に語っているんですよね。だから絶対に勝てない。人間の心の中にある永遠の理想に訴えかけるのは、言葉でできているんだよね。映像とか音とか具体性じゃないんですよね、実はね。
――具体的な説明よりも、心に思い描いた想像や自分が感じたものに勝るものはないということでしょうか?
保坂和志氏: うん。例えば、沢尻エリカは僕も好きだけど、映画のタイトルの「ヘルタースケルター」とかは、その言葉を聞いた瞬間のほうがうれしい。映画そのものを見ちゃうと具体的になりすぎてしまって、何かがっかりしちゃうところがある。聞いた瞬間のうれしいというのが「言葉の小説」なんですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
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