ニュースとは「変化」、ネット時代のジャーナリズムとコミュニケーション
新聞記者から大学教授に。ジャーナリズムについて考え続けてきた橋場義之さん。現代を「答えを見つけようという行為が軽い」時代だと評する橋場さんに、インターネットというメディアの登場で何が変わったのか、ご自身の経験などを踏まえて語っていただきました。
ニュースとは、社会の1つ1つの限界効用的な「変化」
――上智大学でのゼミをお持ちになっておられる先生に、学生に対する教育面、それと執筆のお仕事の両面から近況をお聞かせいただけますか。
橋場義之氏: 毎日新聞から上智大学に来て今年で10年目なんです。私のキャリアを生かして、基本的にはジャーナリズムについて教えています。授業の名前で言うと、「ジャーナリズム論」と、メディアとしての「新聞論」、もう1つが「時事問題研究」といってニュースを学生たちに理解させるものですね。
今年度の前期は、理工系の学生を対象に「メディア情報論」も単発ですが初めてやりました。これはジャーナリズムからもう少しウイングを広げて、メディアの発達とコミュニケーションの変化とをリンクさせ、人類史の中で人間が開発するメディアと、それに伴って社会のコミュニケーションがどう変化したか、そしてその中におけるジャーナリズムを考える授業でした。
――理工系とメディア、それはどういう結びつきがあるのですか?
橋場義之氏: はやり言葉で言うと「文理融合」ですね。文系と理系の知識を融合させていこうという一環です。理工系でもコンピューターを専門にやっている工学系の学生はコンピューターの中でのコミュニケーションや情報の流通を学んでいますが、それをもう少し人間の活動、人間のコミュニケーションとしてとらえ直す、あるいは位置づけるという、少し幅を広げてモノを見るためのものですね。
――それは大学としての取り組みなのですか。
橋場義之氏: そうですね。特に日本では医学の世界で早くから取り組まれてきたものです。医者が医学の勉強ばかりやっていると、どうしても患者さんとのコミュニケーションもうまくいかない。治療にも影響が出てくるので、20年くらい前から文系の人間をお医者さんとして育成しようという流れがあって、理系の世界ではこの文理融合によって知識や体験を統合する流れがずっと続いてきていますね。
――その中で教鞭を執られる先生の立場として、文系ではない学生に教えるコツのようなものはありますか?
橋場義之氏: 僕自身がどちらかというと文系的というより理系的だと自分では思っているんですよ(笑)。振り返ってみると、ジャーナリズムというまさに文系の世界で人間の心、活動を理解するのも、そして大学という研究教育の世界に入ってきても、意外と数学や理系の概念を使っているんですね。
――それはいわゆる系統立てて、順序立ててということではなく?
橋場義之氏: そういうことではなくて、社会的な現象を理系の概念で捉えてみるということ。その方が案外理解しやすいことがあるんです。例えば数学に微分積分という概念がありますよね。経済学ではもう使われていますが、微分を応用して「モノ」の消費の増加とその一単位ごとの満足度=経済効果=を表す「限界効用」という考え方があります。僕は、社会の変化もそうしたとらえ方で表すことができ、それが「ニュース」だといって理解させるんです。
ニュースというのは、社会の1つ1つの限界効用的な変化。誰にとってのニュースかという視点ではいろいろありますが、「過去」と「現在」、「前」と「今」が違ったということ、つまりは時間による変化です。横軸に時間、縦軸に社会の動きをとってグラフを描けば、「昨日」と「今日」との差を微分したもの=限界効用=、まさにこれが「ニュース」。時間軸の目盛が昨日とか今日という「日」だけでなく、「分」でも「年」でもいい。その間の時間の経過と変化の量があるわけだから、それを表し、伝えればニュースになるんです。
以降の人生で読む本を方向付けた『アウトサイダー』との出会い
――そんな考え方を伺ったのは初めてです。ご自著でもフリーペーパーやネットの台頭で新聞がどうなっていくのか、どうあるべきかにも触れられています。先生は今マスメディアの研究者として活躍されていますが、それがどのように形成されていったか、ご自身の読書体験などうかがえますか。印象深い本を一冊挙げるとすれば?
橋場義之氏: 積極的な読書は大学入学後ですね。僕らの年代は団塊の世代で、進学競争が非常に厳しい世代でした。だからそれまでは受験勉強に役に立つから読んでいたものばかりでした。僕は古典とか特に苦手でしたが、どうせ読むなら文法より中身を理解しようと、対訳本を使って読んだりしていましたね。
橋場義之氏: 大学に入ってもう受験勉強しなくていいなと思っていたら(笑)、出会った本があって、それがコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』という本です。まったく偶然の出会いでしたが、アウトサイダーという言葉に目を奪われたんだろうと思います。
これは、1950年代の英国に起ったいわゆる「怒れる若者たち」の時代の作品で、ベストセラーになったものです。僕が読んだのはブームの少し後でしたが、自分が読む本が方向付けられてしまった一作です。
第三者的に言うと、受験勉強でずっと走ってきた若者が、大学に入って気が抜けたのと同時に、受験戦争から解放されたら大きな目標を失ってしまった。そんな宙ぶらりんな精神状態で、これからどこへ自分が向かって行ったらいいのかとか、自分って、人生の目的って何だろう、とか考え始め、ある種のむなしさに取り憑かれていた時に出会ったんです。
この本は、基本的に現代文学の作品を分析する中から、自分をアウトサイダーと感じてしまうのは「時代の病、現代の病」であるという底通したテーマを見出しているのです。自分が社会の当事者になっていない、何か外れている意識があって、そういう意味でその当時の自分にフィットしたんだと思います。哲学的なテーマだからこの本では答えなんか出ていないし、そう簡単に答えが出る話でもない。ただ、手がかりみたいなものはあって、その手がかりを支えに僕は今まで生きてきた、みたいなところがありますね。
この本はそういう現代文学のテーマを分析し、いろいろ解釈しているわけですが、取り上げられた世界の現代文学の作品が「本ではこう書いてあるけど、本当はどうなんだろう、自分で読んでみよう」と思って、そうした作品を能動的に読み始めたのが本格的な読書でした。ドストエフスキーやバーナード・ショー、H・G・ウエルズ、ヘミングウェイ……そういった作家の作品を片っ端から読んだのが学生時代でしたね。