魚柄仁之助

Profile

1956年、福岡県北九州生まれ。大学で農業を学び、その後バイク店を18カ月間、古道具店を10年間経営。以後、健康的で無駄のない食生活を提言し続ける。『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』(朝日新聞社)、『食べかた上手だった日本人―よみがえる昭和モダン時代の知恵』、『食ベ物の声を聴け!』(ともに岩波書店)など著書多数。最新刊は『捨てずにおいしく食べるための食材食べ切り見切り時手帖』(池田書店)。

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思想、民族、宗教・・・。そういうものを排除できるのが〈食〉



福岡県北九州市生まれ。実家は大正7年創業の日本料理店。1975年、福岡県立戸畑高校を卒業。同年栃木県の宇都宮大学農学部に入学。81年に古物商免許を取得し宇都宮市で二輪車店を開く。83年には 東京都目黒区で古道具店を開店。94年、『うおつか流 台所リストラ術』(農文協)を出版。平成不況や「清貧」ブームという追い風にのり注目された。ほか、『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』(朝日新書)、『古道具屋さんの経済原論』(飛鳥新社)など著書多数。〈食〉の達人、魚柄仁之助さんに、子ども時代の食べ物の思い出、話題作の出版秘話、〈食〉への想いなどお聞きしました。

明治時代からの料理本が、書庫に1000冊


――日本の食生活研究家ということですが、研究をはじめたきっかけは何ですか?


魚柄仁之助氏: 僕が研究しているのは近代日本食。近代といっても歴史家が言う近代とは少し違う。僕は、日本の食文化において、明治維新を日本の近代と考えたんです。そこから今に至るまでの約160年で食文化がどう変わったかを調べています。昭和13年ごろ、関東大震災が終わって十数年たったころ、日本人は最も食べ方上手になったと思うんです。以降、戦中戦後に10年近い空白がある。だから昭和20~30年の間の料理のレシピは、昭和13年までのレシピとほとんど同じなんですよ。終戦後は食材が手に入らないから、昭和13年の食生活レベルに戻すのに、約10年かかったわけです。僕は昭和31年生まれ、実家は大正7年創業の日本料理店です。僕の生まれたころから、日本の食は急激に変わった。食材が変わり、加工法や調理法、あらゆるものが変わる。激変の時代をリアルタイムで生きてきて、その渦中にいた人間が見たり聞いたり食べたりしたことを、正確に残す作業って面白いなと思ったんです。

――資料のための料理本はどれくらい持っていますか?


魚柄仁之助氏: 明治から今にいたるまでの料理の本が2階の書庫に1000冊以上あります。普通では手に入らない書籍ばかりですよ。年代をそろえて、お菓子ならお菓子だけ、中華料理なら中華料理だけとかね。昔は古本屋を探して歩いてこういった本を集めましたが、今はインターネットが発達したから。例えば「明治時代の和食の教本」で検索して、ズラーッとリストが出てくれたら、こんなありがたいことはないですね。

――紙だと古くなりますが、電子化されていれば、ずっときれいで読みやすいですよね。


魚柄仁之助氏: 国会図書館なんかは、最近は電子化して残しています。僕は本を自分で持っているから、これを使えばいいけど、この後に研究する人たちが使うのであれば、本の綴じをそのままにした状態でスキャンできる技術や、逆に一回バラして、元に戻せる技術があれば、どんどん電子化していいと思う。そのことと、作家が言う著作権は、別問題。僕はコミックの原作も書くので、「21世紀のコミック作家の会」(21世紀のコミック作家の会著作権を考える会が2010年に名称変更)の会員になっているんです。でもね、電子化しようとしまいと、例えば『ゴルゴ13』はちゃんと売れるんです(笑)。作家にとって電子化は驚異かもしれませんが、紙資源を使いすぎないという点ではいいと思います。これ以上紙をぐちゃぐちゃに使って、結局焼却するだけならね。

――電子書籍の可能性について、どう思われますか?


魚柄仁之助氏: もう絶版になった本を、「ないですか」って聞かれることがあるんです。20年近くも前のだから「ない」というのに、必死で探している人とかいて・・・。そういうニーズって、自分でも中学生のころに筒井康隆にハマって、全部読みたくなったことがあったなって。そういうところで電子書籍の出番があるんじゃないかと思います。その書籍と、家に置いておく、きちんと製本した本は別だと思う。それが住み分けだし。

そのニーズに応えようといち早く取り組んだ出版社は、農山漁村文化協会(農文協)なんです。農文協さんは、もとが農山漁村対象でしょう。1990年ごろのバブル崩壊ごろから地方の本屋がなくなって、農山漁村の人たちが本を買う場所がなくなった。で、彼らは、「田舎の本屋さん」という宅配を独自で80年代に立ち上げたんです。本のリストを送って、何番と何番が欲しいとFAXか電話で農文協に言えば、宅配で送りますって。それをヤマト運輸と組んでやった。それ以前は、スーパーカブに新刊積んで、全国沖縄まで自分たちで回っていました。今でもまだ回っていますよ。だから農文協では、研修が終わって新入社員に渡されるものが、スーパーカブのキーなんです(笑)。

その時代にね、「これから先はインターネットだ」ということで、農文協は、いずれ紙に印刷するのをやめる時代がくるからって言っていた。農文協が70年代に作った最大の本が、日本の各都道府県ごとの郷土食の本。北海道から沖縄まで47冊あって。それを最初に電子化したんです。90年代でしたね。僕が94年に農文協から本を出した時、「印税入って余るようなら、47冊買ったら?」と言われたんです。47冊はちょっと邪魔だなって言ったら、「ここだけの話、来年になったら、ディスク4枚組になるよ」って言われた(笑)。

――かなり先進的ですね。


魚柄仁之助氏: ええ。農文協が毎月出している『現代農業』なんかも、もうじき電子化して、紙媒体と平行して発行するようになると思いますよ。ですから、そうなっていくものだと思う。紙媒体は、それはそれで一つの文化として住み分けていくんじゃないかな。どちらかがなくなるわけではなく両方残っていくんでしょうね。

迷宮入りした〈食〉を掘り起こす


――今の研究テーマは何ですか?


魚柄仁之助氏: 迷宮入りした食の再捜査。食材や調味料、調理器具が変わると、当然食生活も変わるんです。なくなってしまった料理や、過去にあったけど今はもうない料理があるんですよね。それが、栄養学・医学的に考えて、何て優れた物を食べていたんだろうと思う物が多いんですよ。今の人たちは、体に必要な栄養素やビタミンをサプリで摂ったりしますよね。かつてはそれが普通の食材としてあったんです。例えば、江戸時代以前の田楽は、たき火で焼いた平らな石の上に、こんにゃくや芋、ニンジン、大根をのせて石焼きにして田楽みそを塗っていました。今の遠赤外線と同じ理屈だから、真ん中から熱がいく。電子レンジよりも優れた調理法がかつてあったわけですよね。さらに、田楽みそに使うエゴマに含まれる油にはαリノレン酸が含まれていて、血栓をつくらない油としては最高にいい油なんです。

大正時代の料理の本には、「ウスターソースは、なかなか手に入りませんから、家で作りましょう」って書いてあるんですよ。しょうゆを鍋に入れて唐辛子、砂糖、酢を入れて・・・。「え!?しょうゆを入れるの」って思うんですが、その通りにやったらそっくりな味になる。もともとウスターソースは、野菜のエキスを煮詰めて、香辛料と塩を入れて作る。だからしょうゆと大して変わらない。しょうゆの方が発酵している分、うまみが強いんです。そういう迷宮入りした〈食〉を掘り起こして、今の時代に使えるようにリメイクしていきたいですね。

――エッセイストとして、今後書いていきたいものはありますか?


魚柄仁之助氏: 自分が実際に見たり聞いたり食べたりしてきた食の歴史をドキュメンタリーみたいに、随筆で書きためてきたものが、70本ぐらいあるんです。その一部は 2007年に出版した『冷蔵庫で食品を腐らす日本人』(朝日新聞社)のあとがきで紹介しています。「あとがきにかえて―京王井の頭線の24分」というタイトルで、伊豆の下田へ2食付きのパックツアーに参加したらしい老夫婦の会話を、ただ、書いただけなんですけどね。何年に一度の団体旅行で、お銚子2本の普通の酒に酔いしれる老夫婦。数年ぶりの一泊旅行で食べた料理はどんな有名店のグルメ料理よりインパクトがある。そんな、リアルな食べ物と人の生き方、「ああ、こういう食べ方って気持ちいいよな」っていう体験を書きつづっているんです。電車の中や飲食店で色々な人を観察していると、その人の人生の中で「食って何なんだろう」と想像が膨らむんです。



2011年に出した『食べ物の声を聴け!』(岩波書店)のあとがきでは、母子家庭の少年が、中学校へ持って行く自分の弁当を自分で作った話を紹介しました。これも実話で、僕が作り方を教えたんです。好物の焼き肉が最初で、焼き魚や野菜いため。何でもできるようになりましたね。そうして自分で弁当を作るようになったら、1年何ヶ月かのうちに、お昼代として母親にもらっていたお金が10万円以上残ったんです。自分で作ることが、家計にどれだけ役立つのかを知ったと思います。母親にお金を返そうとしたら、「これは昼ご飯代としてあげているから、自分で作っているならあなたの物だよ」って、くれたんですって。その少年が、中学卒業直前に僕に電話をかけてきて、「俺、料理の学校に行きます」って。そんなエピソードをずっと書きためていて、それがとんでもない量になっていますので、どこかで出したいなと。

――楽しみですね。


魚柄仁之助氏: 今、この国の経済全体が落ち込んできているなかで、食に関しても、足元から見直すべきだと思うんです。この30年間日本人がやってきたような飽食の時代は終わる。そうなったときにね、日本人は昔、こういう食べ方をしていたんだっていうのが、きっと必要になる。その時に読んでもらえればいいかな、と思うんです。

〈食〉の原点


――ご出身は九州ですか?


魚柄仁之助氏: 北九州の戸畑です。僕の生まれた昭和31年って、戦争が終わって10年くらいで、若い30代くらいの戦争で夫を亡くした奥さんがたくさんいたんです。その人たちがね、リヤカーをひいて魚を売っていたんです。早朝、戸畑鮮魚市場でセリが終わると必ずリヤカーを引いたおばちゃんたちが5~6人ぐらいいて、売れ残った雑魚を仲良く分ける。それを、売り歩くんです。売り歩くテリトリーは決まっていて、「あんたはなかばる、あんたは西戸畑、あんたはなんとか」って別れて行って、「魚いらんねぇ~?」って。子どものころは、学校が終わって遊んでいると、そういうおばちゃんたちがよく来るから、くっついて行って、上り坂なんかリヤカーの後ろを押したりして。するとね、甘露飴や扇雀飴をくれるんです。1日の売り上げが、あのころで500円くらいかな。それを旦那の位牌の前に置いて、ご飯と煮付けを置いて、チーンと鳴らして、「今日も1日仕事ができました、おまんまを食べられました」って。そうして、少しずつお金をためて、年に1回バス旅行に行くんです。だいたい太宰府か、宇佐天神か。で、太宰府に行くと「飛梅ば、買ってきたけんね」って言って、ちっこい梅を1個ずつ配ってくれる(笑)。そういうのが、僕の〈食〉の原点なんですよね。

――そこが、魚柄さんの出発点。




魚柄仁之助氏: だから、食べ物をね、よく「もったいない」とか、「大事にしろ」とか、食べるときには「いただきますと言いましょう」とか、教育の一環で教えるのにはすごく違和感があるんです。子どものころにもっと体験すべきだし、ただ見るだけじゃなく、考えることが必要だと思う。僕は中学生のころ、ギターを弾きながら反戦歌を歌っていましたけど、あのリヤカーのおばさんみたいな人たちを、もう出すなって気持ちで歌っていましたから。30代のおばさんが、もんぺ履いて、あねさんかぶりしてリヤカー引いて、「魚いらんかねぇ」ってまわるわけでしょ。その残酷さは、食べ物が教えてくれた。

バブルの陰で捨てられた家財道具を「銭に替えてみせる」


――北九州を出て、栃木県の宇都宮大学農学部に進まれた理由は何ですか?


魚柄仁之助氏: うちは金銭的に裕福ではなかったので、私立大学には行けなかった。当時、国立大学の学費は、1年間で36000円。むちゃくちゃに安かった。で、1ヶ月の寮費は100円~200円。食事が朝晩2食付いて、電気もガスも水道も使い放題。だから、仕送りなしで行ける国立大学で、高校3年間、数学の追試を受け続けた僕でも、浪人せずに入れるところを探したんです。それで、宇都宮大学農学部畜産科に的をしぼって、入試問題を過去十数年、全部調べたんですよ。そうしたら、ピタリと当たった。だから、農学部に入ったのには、あまり意味はないです。大学時代はギターばかり弾いていましたから、農学部音楽科みたいな感じ(笑)。

――大学卒業後は、自著に書かれている通り、二輪車店を開いた。


魚柄仁之助氏: 僕は難しい繁殖学よりも農業経営に興味があって。全国の畜産研究所や試験所を「実際にもうかるんですか?これでペイできるんですか?」と聞きながら、バイクで見て回った。分かったのは、酪農家の暮らしは盆も正月もない、とにかく休めない。トラクターを買ったり、サイロを作り替えたりで借金に追われる。日本の農業って、構造からして生かさず殺さず、借金で縛り付ける農業だなと思ったんです。そんな現場を見てきて、まずは、商売をきちんとできるようになりたいと思ったんです。それで自転車屋を開いた。自転車その物の売り幅は少ないですから。パンクを直したり、チューニングしたりして、技術を売っていました。

――そこから古道具商に転向したのはなぜですか?


魚柄仁之助氏: 本当のことを言うと、自転車屋って絶対もうかると思っていたんですよ。自転車って、形はほぼ完成型になっているけど、故障は絶対に続く。パンクレスっていうのはまずないだろうと。50年たってもこれで生活できるけど、自分が50年間やり続けるべき仕事ではないと思って。で、時代の中で一番、今でなければできないことって何だろうと思った時に、古道具が一番面白かったんですよね。当時、バブルの全盛期。浮かれていた時代に、浮かれている奴らのあぶく銭をかすめとってやれという気は、すごくありました。

オヤジが建てた昭和初期の家を壊してマンションにして、自分はもっといいところに住むとかね。その人たちにとって、家にある物は無価値だから、必要な物以外は全部壊しちゃう。僕からしたら「えぇ!家財道具あるじゃないですか!?」って。僕は解体屋と組んで、家財道具なんかを自分の軽トラックに乗せ、タダで持っていく。解体屋は手間が省けるから喜ぶわけです。それを売っちゃった。場合によっては、引き取るのにお金をもらっていましたから。5000円もらって持ってきた物に値段を付けて、売る。

バブル時代、今日1億円で買った土地を明後日2億円で売って稼いでいた人がたくさんいた。その陰で捨てられた机や照明、そんな家財道具を銭に替えてみせるって古道具屋をやったのがあの時代。だから、バブルと共にこれも終わるなって最初から思っていました。それが終わった時、次に何をするかは、ずっと考えていて、そのころから表現者になるための勉強を始めていたんです。

ちゃらんぽらんでなければ・・・


――デビュー作『うおつか流 台所リストラ術』(農文協)を出版したいきさつを教えてください。


魚柄仁之助氏: 『台所リストラ術』は、医者の友人から『患者さんの食生活を改善する手ほどきになる本を書けないかな?』と言われたのがきっかけで生まれた本です。本として出す以上、何か冠がないと人はついてこないだろうと。その冠を1年ほど考えたんです。そのうち、食生活をよくしたり悪くしたりするのは、3つの要素があるって気付いたんです。栄養、経済、嗜好。栄養がある・ない、美味しい・まずい、安い高い、この3つが食を左右する。で、僕は、栄養学をしっかり押さえた上で、あえて『体にいいから食べろ』とは言わないことにした。徹底的に『安い、うまい』しか言わない。ただし、その方法論やテクニックにはすべて栄養学の裏付けがある。これだと、読んだ方は、分かる人は分かる。分からない人は勝手に健康になるだろうと(笑)。

――勝手に健康になる・・・(笑)。


魚柄仁之助氏: 勝手にやせるし、勝手に健康になる。それが理想じゃないかなと思ったんですよ。それが見えたときにスポーンと楽になった。「なんだ、そうか」って。当時、リストラが社会問題になっていましたから。この言葉を使うしかないなと思って。つけた題名が『台所のリストラ』だったんです。台所作業をリストラしていくと、安くて美味しい物を食べられて健康になれる。リストラで会社をクビになるなら、台所をリストラして、クビになっても食べて行けるようになればいいんだと。

――〈食〉の面白さはどんなところでしょう?




魚柄仁之助氏: 〈食〉っていうのは、思想・民族・宗教、そういうものを一切排除できるんです。誰だって食べるでしょう。だから、思想、信条、民族、すべて超えられる。食べるという行為の前には、すべての民族や思想は平等でなければいけないと思うんです。だから僕は、〈食〉にかかわる仕事をする以上、自分がどこかの組織に属することはしないほうがいいと思って。NPOなどにも一切かかわっていないんですよ。食べることは、万人に与えられた平等な権利。たとえ土地の境界線でけんかしている人がいても、相手がひもじいっていったら、少しけんかを置いておいて、「まあ飯でも食べろ」と。食べた上でけんかをし直す。そうでないといけないと思うんですよね。

食べることは、生きる最低限のところ。そこまで否定したら本当に最後の一線を越えてしまって、人間は滅亡するんじゃないですかね。〈食〉のことを本当に真剣にやろうと思ったら、その人の生き方は極論、「ちゃらんぽらんでないといけない」と思うんですよ。確固たるものなんて持っちゃいけないと思います。すべてを受け入れなければ。そういう意味では〈食〉は、母性、母親の性だと思う。母親は自分の子どもに対して、たとえ殺人犯であろうとかわいいわけでしょ。世間がみんなその子を縛り首にしろ!と言っていても、自分だけはこの子を守るって。自分の子どもである限り味方である。〈食〉ってそれだと思うんですよ。たとえ相手がアル・カポネであっても、やっぱり食べさせなきゃいけないと思うんですよね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 魚柄仁之助

この著者のタグ: 『可能性』 『歴史』 『研究』 『食』 『エッセイ』 『農業』 『料理』 『文化』 『食べ物』

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