吉見俊哉

Profile

1957年東京都生まれ。1987年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所助手、助教授、同社会情報研究所教授等を経て2008年度まで東京大学大学院情報学環長。2009年6月から財団法人東京大学新聞社理事長。専攻は社会学・文化研究・メディア研究。2010年より大学総合教育研究センター長、教育企画室長、大学史史料室長。2011年より東京大学副学長を兼任。著書に『都市のドラマトゥルギー』(弘文堂)、『カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店)、『メディア文化論』(有斐閣)、『博覧会の政治学』(講談社学術文庫)、『万博と戦後日本』(講談社学術文庫)、『声の資本主義』(河出文庫)、『親米と反米』、『ポスト戦後社会』、『大学とは何か』(岩波新書)他多数。

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「一冊の本」の枠組みが解体した時、教育現場は・・・



吉見俊哉氏: 3つ目は、教育と書物の関係が変わることです。今でもコンスタントに大量販売を維持しているのは、教科書か受験参考書か問題集でしょう。こんなに出版不況の時代にも、受験参考書と問題集だけは売れている。世の中に出る本のほとんどが問題集とか受験参考書みたいになっちゃったら面白くも何ともないけど、既存の教育システムを前提にすると、受験が一番大切だからという、ただそれだけの話ですよね。だけど電子書籍あるいは出版のデジタル化は、テキストあるいは書物と、教育現場の関係を変えると思っているんです。

例えば、大学の授業はシラバスに基づいてカリキュラムが作られますが、そうするとその科目で事前に予習して来なくちゃいけない文献が決まってくる。しかし、書籍の単位は1冊の本である必要がないんですよ。テキストデータだったら自由にデザインできちゃうから、よくも悪くも部分の集合体みたいになって、この先生の本と、この論文と、この本の中のチャプターを組み合わせるような教科書が一つ一つ作れるというようになってきます。個別の著作権処理ができちゃえば、オーダーメイドで、出版社と別にエスプレッソマシンみたいなもので本を作って、教室で共有して授業することができるわけです。書物そのものがもっとネット的なものになっていくといってもよいでしょう。

――可能性や希望も感じますが、著作権の問題だけではない課題もありそうですね。


吉見俊哉氏: そのネットワーク化を誰がするのかですね。そしてネットワーク化された書籍の質を誰が担保し、質が向上していくような仕組みがどのように可能になるのかということになるとも思います。近代日本には教養読者層みたいな、岩波書店だったりみすず書房だったり、名門出版社の本を必ず買う読者層がいて、その関係である程度の質を担保してきたんですね。でも今それが崩壊しつつある。そうすると有象無象というか、その時その時で売れ筋の本をバーッと出しちゃって、中身はともかく売っちゃったみたいなものが出てくるでしょうけど、それじゃ全然、書物文化って育たない。質が劣化するばっかりです。それで、「昔の本はよかったね」っていう話になる。



そうじゃない形で、電子書籍の世界で質を担保し向上させていく仕組みがどうやってできるかという一つの道は、教育の中身と本の出版がもっと結び付いてくることだと思うんです。教育のプロセスの中で書物が生まれたり、書物で生まれたものがダイレクトに教育とつながっていったりすることがあると思います。その場合には図書館が今まで以上に重要になってくるでしょう。図書館が媒介になって教室と出版をつなぐような、教室と図書館と出版社がもっと強く電子書籍というフォームをベースにつながってきて、共同で電子書籍を創造していく構造ができていくと思うんですよ。

――電子書籍には本や出版、あるいは読書や学習の概念を変えてしまう可能性もあるのですね。


吉見俊哉氏: 「書籍とは何だ」という問いになるんです。基本的に冊子体っていうのは便利で、よくできている。でも、これが溶解してくると、異なる考え方も生まれてくるかもしれないんですね。それは小学校、中学校の教育もそうですが、ものを学んでいくっていうことが、教科書を与えられて、読みましょう、覚えましょうというのではなくて、自分たちで教科書を作っていく。卒業文集みたいなものじゃなくて、ちゃんと教科書を作っていくためには先生の指導の在り方も変わらなくちゃいけないし、先生と子供たちと出版社と図書館が一緒になって本の作り手になっていかなくちゃいけない。教育の仕組みが同時に出版の仕組みでもあるという形ができていくというのが、もう1つの電子書籍の可能性ですね。

単に本をどこにも持って行けて便利というだけだと、出版社を殺しちゃうんです。出版社を生かす電子書籍の形を見つけなくちゃいけない。それは単に出版社が潰れて失業者が出たら困るということじゃなくて、出版社の中で経験値として蓄積されている編集や出版にかかわる技術があるわけじゃないですか。その技術は出版的な知がある限り決定的に重要なんですよ。それは何百年をかけて蓄積されてきたものですから、それをデジタルがつぶしちゃうとすごく損失なわけですよね。それを生かすために電子書籍は単に既存の紙媒体を電子化するということではなくて、その先に新しい可能性を生み出す責任があるんだと思うんですね。

日本がアジアの盟主だった時代の終わり


――今後研究やアーカイブ化の活動で追求していきたいことにはどのようなことがありますか?


吉見俊哉氏: 僕、歴史は25年周期で変化するという風な説を唱えているんです。根拠が怪しくて、半分まゆつばの話として聞いてください。1945年が一つの日本の歴史にとって転換点だったとすると、1945年に25年を足すと1970年。1970年って大阪万博の年で、1945から1970までの25年間というのは、日本は復興と高度経済成長の右肩上がりの25年間です。戦争で負けたけれども復興してどんどん社会が豊かになっていく、とってもハッピーな25年間。で、1970から25年の1995年に何が起こっているかというと、阪神大震災とオウム真理教の事件です。この25年間は安定、成熟の25年間で、日本はとても豊かで、バブルもあってみんなリッチだった時代ですね。この50年間というのは広い意味での日本の戦後です。

――そうすると、今は1995年からの25年期の後半ですが、どういった時代として描くことができそうですか?


吉見俊哉氏: まず戦後、右肩上がりに25年来て、今度、横に25年来て、1995年から日本の急激な没落が始まった。高度成長と同じように、もう急降下している。でも、今もう95年からもう17年たったから、結構過ぎたんです(笑)。安倍政権でもまだダメで、要するにいつ下げ止まるかっていうと2020年ごろ。まあプラスマイナス3ぐらいは誤差だから、早ければ2017年位。あと4年我慢したら下げ止まって、また復活するぞと(笑)。ただ、それよりも重要なことは、下降が始まった1995年までの歴史をどう考えるかということです。1945年から25年間さかのぼってみると1920年で、この年にはあまり大したことは起きないんだけれども、マイナス1年すると1919年で、これは第一次世界大戦が終わった年ですね。それに、マイナス3年すると1917年のロシア革命ですね。で、プラス3すると1923年で関東大震災。そして1920年から約25年間を引いた1894年に何が起こったか分かりますか?

――日清戦争の年ですね。


吉見俊哉氏: そう。 1894年から約25年前の1870年は、特に何も起こっていないんだけど、それから2年引くと1868年、明治維新なんですよ。この辺になると悪ノリですが、1870年から25年を引いた1845年からマイナス3年すると1842年のアヘン戦争。1845年からプラス3年すると2月革命、3月革命。共産党宣言というヨーロッパ激動の年だった。話を戻しますが、1945年からの50年が戦後ですが、50年単位以上に重要なのは100年単位の歴史で、1895年から1995年の100年間、日清戦争によって日本が帝国化してからの100年間というのは、東アジアの中で日本が中心であった時代です。ヨーロッパが革命の嵐で、対外的にはアヘン戦争でヨーロッパの植民地主義、帝国主義が世界中に出て行って、アジアは植民地化されていく。この帝国主義化の波の中で、日本が対抗してアジアの帝国になってくる。孫文も日本に留学していましたが、中国とか韓国の人たちが使っている色々な基本概念もヨーロッパから日本経由で入っていたものって結構あるわけです。



そしてより強い帝国であるアメリカに日本は負けるんだけれども、でも1990年代までのこの50年間の戦後を通じてアメリカに最も近い国として、つまりアメリカの傘の下で平和で豊かに、アジアの中心であり続けたんですね。ところが歴史を見てみると東アジア全体の中で日本が中心であった時代なんて例外的なんです。そして、それが1995年に終わった。戦前と戦後は敗戦ということによって分けられているけれども、しかしアジアの中で日本が近代の中心だったという歴史においては連続なんです。

あまねく利活用できる公共的なアーカイブを


――そのような時代を生きる私たちには、どのような課題が突きつけられているのでしょうか?


吉見俊哉氏: 今の社会というのは、一つの時代が明らかに終わって、そしてその先がまだ見えないでいる状態にあるんだという風に思います。アジアにおける日本の100年とは一体何だったのかということを問い返すべき地点にいるんです。90年代以降、失われた10年、20年、30年。どんどん失い続けているんだけれども、日本の復活って簡単な話じゃないと思うんですよ。過去の50年間なり100年間なりに、どうけりをつけるのかっていうことを、日本の国内はもとよりアジア共同で考えなければいけない。それをどうやって考えるのかというと、やっぱりアーカイブが重要です。つまり過去の知の蓄積っていうものを、日本だけにとどめずにアジア共有のものにしていく必要があるんだと思うんです。

――まさに吉見さんの活動につながってくるのですね。


吉見俊哉氏: 僕ができることはごく一部なんですけれども、先ほど申し上げたデジタルアーカイブにしても電子書籍にしても、過去50年間、100年間の、日本だけではなく東アジア全体における知識の見直しにつながっていくべきだと思うんですね。僕は日本近代の問い直し、あるいは戦後におけるアメリカという存在の問い直しを研究活動としてやっていますが、それを考えるインフラの整備として、書籍だけじゃなく記録映画等の映像をちゃんと蓄積して利活用できる形にすることが大切。それを大学の研究者だけじゃなくて、中学生や高校生が授業で自由に使いながら過去について考えることができるような仕組みを作っていく作業を進めていくべきです。自分で研究したり、著作を書いたりすることももちろんありますが、20世紀の日本を根底から考えるための公共的なアーカイブを作っていく必要があると思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『大学教授』 『歴史』 『教育』 『メディア』 『フィルム』 『アーカイブ』

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