「何もなかった」不遇の時代
――「樋口式小論文」を考案されて、人気講師として各地で引っ張りだことなりましたが、相当忙しかったのではないですか?
樋口裕一氏: 本当にめちゃくちゃ働いていて、起きたらずっと添削をするか原稿を書くか授業するかでした。起きている間中ずっと仕事で、しんどかったですね。参考書は暇がないのでほとんど授業に向かう特急列車の中で、小さなワープロで書いていたんです。電車の中では添削ができないので、うちにいる時は添削をする。でもグリーン車なら添削ができるんです。今でもよく覚えているんですけれども、10年以上前、新横浜から神戸まで新幹線の中でずっと添削をしていたんですよ。それで、隣に、何か死にそうな咳をするおじいさんがいて、「大丈夫かな?」と添削しながら思っていたら、その人が大阪で「体に気をつけてくださいよ」って言って降りて行ったんですよ。こちらが死にかけていると思っている人に、体を心配してもらえたんです。
――周りが心配するほどの鬼気迫る仕事ぶりだったのですね。
樋口裕一氏: そのぶん35歳ぐらいまで働いていないんですよ、実は(笑)。早稲田を出て立教の大学院に行って、フランス文学をやっていて、翻訳とかフランス語の非常勤講師をしていたんですけれど、大してお金にならない。32、3歳ぐらいまで年収100万ないぐらいでした。地位もなく、女も金もなく、車の免許は持っていないし、何にもなかったですね。ただ本を読んでぶらぶらしている状況です。レコードくらいは買えましたけれど、演奏会にはお金がなくて行けませんでした。
――それは意外ですね。
樋口裕一氏: 34歳で結婚する前は悲惨この上なかったです。人前にも出られなかったですからね。よく覚えているのは、同窓会に行けなかったこと。同級生に会っても恥ずかしいから逃げていました。だってほかの人はちゃんと仕事をしているんだもん(笑)。そのころ、雑誌を見ていたら、結婚相談所のハガキが入っていて、別に結婚しようと思っていたわけじゃないんですけれども、試しに書いてみたら、プロフィールの選択肢が、左から「アパート・マンション・持ち家」とか「年収何万円以下」とか「貯蓄何万円以下」というように並んでる。書き込んでみると、全ての項目が一番左側でしたね(笑)。
詐欺、解雇…。逆境の中に光が見えた
――何が人生の転機になったのでしょうか?
樋口裕一氏: そのころ、東南アジア旅行に行って、詐欺師に金をだまし取られたんです。タイのバンコクで歩いていたら、当時僕が30歳ぐらいですから、10歳ぐらい上のおじさんから突然英語で声をかけられて、仲良くなったんですね。で、「バンコクはどこに行った?」と聞かれたので、行ったところを答えたら「あんたの行ったのは観光地ばかりだ。本当のバンコクをわかっていない。連れて行ってあげよう」と言って連れて行ってくれたんです。その人はインテリで、ものすごくよくわかる英語で、ちゃんとタイの歴史とかを教えてくれた。それでモーターボートでちょっと遠くまで行って、戻ってきたらなぜか川の真ん中で止まるわけです。それで「船の料金が安いつもりだったけれど意外と高い。お金を出してくれないか」と言うんですよ。「いくら?」と聞いたら7万円くらい。日本でも3000円くらいだろうと思うけれど、川の真ん中ですからね。これは連れて行った男と船頭さんがグルかもしれないと疑ったけれど、「抵抗したら危ない」と思ってお金を出したんです。その人は「これは割り勘だから半分返しに行く。ホテルに戻っていいよ、私もそこに行くから」と言うんですね。すでにだまされたと思っていましたが、もちろん連絡はなくて、前もって電話番号を聞いていたのも全部うそだったんです。
で、現金がなくなった。カードを持っていたんで、それからカードを使ってすごしました。ところが、当時まだ一流のホテルやレストランしかカードが使えなかったから、もう、一流のところで食べまくったんです。外で食べれば100円で済むところを、ホテルで1000円ぐらいかけて食事をするわけです。それで、安いホテルはカードが使えないので高いホテルにわざわざ移った。、そのうえ、JALがストライキをやっていて、帰りが1週間延びてしまった。それで10万だか20万くらいの借金がたまってしまって、2カ月後に引き落としをされるから、働かにゃいかんぞというので慌てて探して、小さな予備校の「小論文指導」という講師の職を見つけて始めたんです。
――ついにそこで「小論文」が出てくるんですね。
樋口裕一氏: でも、それも1年後にクビになったんです。その予備校で渡されたテキストがあまりにひどかったので、一切使わずに自分なりに教えていて、講師の会議で、「こんなテキストじゃだめだ」と言ったんです。生意気でしたからね、当時(笑)。それでけんかになってしまって、その後会議に出なかったらクビにされました。ある時行ったら出席簿もなくて、違う人が教えていた。あれは頭にきましたね。そこで、じゃあ自分で参考書を書こうと思ったんです。それが『ぶっつけ小論文』で、結構売れたんです。
――それが本を書かれるきっかけになったんですね。
樋口裕一氏: 実はその前に翻訳書を1冊出しています。こちらは全く売れなかったですけどね。
――参考書をお書きになって、出版までどうやってこぎつけたのでしょうか?
樋口裕一氏: 書いたものを文英堂とほかの版元に送ったんです。だめだったら、またどこかに送ろうと思っていたら、文英堂から「出したい」とすぐに返事が来ました。
著書一覧『 樋口裕一 』