言葉のマエストロとして、大手と戦える武器を与えたい
マーケティングリサーチの世界から、販促・コピーライティングの世界に身を投じ、2001年にはキキダス・マーケティングを設立されました。「どうやるか?」というテクニックではなく、「何をやるか?」に徹底的にこだわるスタイルで、「狙って売れるコピー」の開発・実践をし、小売業、飲食業、サービス業などの売り上げ強化に手腕を発揮されています。ご自身を「売れる言葉のマエストロ」とおっしゃる中山マコトさん。「命運を握る言葉」を発見することを自らの使命と考え、指導に、実践にと飛び回る日々を送っていらっしゃいます。「売らない営業術」など、その独自視点で多くの方をサポートされている中山さんに、言葉力、本に関する思いをお聞きしました。
本をきっかけに、うまくいかない人を減らしたい
――お仕事内容のご紹介を絡めながら、近況をお聞かせ下さい。
中山マコト氏: 本に関しては、広義の意味での「フリーランス」という切り口の本が3冊続きました。最初の2冊はフリーランスで歩き出してる人たちへ向けての本で、去年出した『フリーで働く!と決めたら読む本』と一緒に読んでほしい本です。9月の頭に出たのは『フリーで働く前に!読む本』。どんな会社にいても、いつどうなるか分からない。だからやれる準備はしておいた方がいい、ということを伝えたいと思い書きました。僕の仲間にも見切り発車で会社を辞めてフリーになった人がいます。それがいいかどうかは別として、もう少し準備ができていたら、もっといい形でフリーの世界で戦っていけたんじゃないかと思うケースもたくさんあります。本をきっかけにして、うまくいかない人を減らしたいという思いが僕にはあるのです。
――ご自身の使命だと感じられているのでしょうか?
中山マコト氏: フリーの人たちに対して、「中小零細企業やフリーランス、個人事業をして頑張る人たちに大手と戦える武器を与えたい」というのが僕が会社を辞める時の志でした。大手は人海戦術を使えるし、巨額を投じてCMをやったり、POPやDMにも費用をかけられる。お金をかけずにそういう大手とどうやって戦っていくか。それにはもちろん武器がいるわけですが、僕が持っている武器は「言葉の力」ただ1つなんです。デビューしてからずっと、言葉を駆使して原稿を書き続けてきました。タイトルにコミットする著者さんは少ないのかもしれませんが、僕の場合は提案させてくれって言います。タイトルを提案しても使われないケースもあります。
――どういった形で提案するのですか?
中山マコト氏: 1冊の本につき200ぐらいのプランを出すんです。編集者が用意して会議にかけるのが10個。数の論理というのがあるのか、みんな僕の出した200の方に目がいくんです。僕の場合は言葉の世界にいるから、売れるかどうかは別として、自分で考えたタイトルが一番理に適っていることが多いです。編集者の発想にはなかったものが採用されることもある、という感じでしょうか。もう1つは論理性といったものかもしれません。こちらがきちんと理解をしてタイトルをつける。今流行っている言葉を使おうとか、そういった無理やり感は、お客さんにも伝わってしまうんです。それよりも、言いたいことをタイトルに込める方が、こちらが狙ったターゲットに近づけるし、お客さんのニーズと、作っている側の親和性が高くなると思います。タイトルで「あなたのために書かれた本なんだよ」というのを伝えたいので、タイトルに関しては「譲れない」と思うこともあります。
――「師匠」と呼ばれることも多いというのは、ちゃんと届くべき人に届いているということではないでしょうか。
中山マコト氏: 個人向けのプロジェクトを今やってるんですが、読者さんが僕に興味を持ってホームページから講座を受講してくれたりして、さらに親密になって師匠などと呼ばれるようになるケースは結構多いんです。僕は人の気持ちや、大げさに言うなら生き方を変えられない本は書いてもしょうがないと思っています。
映画の世界に興味を持ち、3つの大学へ通った
――幼少期の頃から遡って、13年前に独立して今に至るまでの歩みをお聞かせ下さい。どのようなお子さんでしたか?
中山マコト氏: 生意気な子どもだったんじゃないかと思います。僕は1500グラムの未熟児だったので、あまり体が丈夫ではなく、そのせいか外でみんなと一緒に運動をしたりするのが基本的に嫌でした。その頃から本は結構読んでいて、休み時間も教室で本を読んでいると、担任の先生から「どうしてみんなと一緒に外で遊ばないの?」と聞かれて、「そんなことをして何かいいことありますかね?」と口答えをして怒られた記憶があります。
父が精神科の医者なのですが、長いものに巻かれるのが嫌な人で、上司と喧嘩して別の病院に移ったりしていました。だから18歳までに九州の中だけで13回も引っ越しをしたんです。高校の3年間だけ、熊本市にいました。引っ越しが多かったので「友達を作っても逆に寂しくなる」といった気持ちが根本にあって、みんなとあまりベタベタしなかったのだと思います。
――高校の時には将来のことを考えられていましたか?
中山マコト氏: 父の方はずっと医者の家系だったので、「僕も医者になるんだろうな」とは漠然と思っていました。でもある時、父と大喧嘩をして、それをきっかけに嫌になって方向転換をはかりました。大学時代、男友達と2人で博多で遊んでいた時に、ドキュメンタリー映画を撮っている結構有名な先生と出会ったんです。その人はカネミ油症の問題や水俣病などをずっと追っているドキュメンタリーの作家さんで、電車の中で「地元の人ですか?もし良かったら、こういう取材をしているので案内してくれないか?宿泊代とかは全部僕が出すから」と声をかけられたんです。それで、2晩くらい取材に同行しました。
――いきなりの申し出をなぜお受けになったのでしょうか?
中山マコト氏: 最初は怪しそうだなと思いましたが、面白そうだったから申し出を受けることにしました。その人に同行しているうちに、映画の世界に関わりたいと思い始めました。その先生が京都の方なので、京都で弟子入りできないかと悩み続けていると「じゃあ京都の大学に入ればいいじゃん」という話になり、京都の大学を受け直して1年間彼の下で編集や脚本を学びました。そうすると、やっぱり商業映画が撮りたくなった。それで先生に相談したら「東京に行くしかない」と言われました。お金をどうするかと考えた末、結局、東京にある芸術系の大学に入ることにしました。
――その大学ではどのようなことをしていましたか?
中山マコト氏: 周りが全部セミプロみたいなやつばかりでした。その大学では、きちんと申請すればすごい機材を使えるし、アジアで1番のスタジオと言われているぐらいの装置が揃っていました。演劇科にはテレビで見たことある人もいましたし、有名なカメラマンの助手や演出の勉強をしている人、ドキュメンタリーの自主制作映画の作家などもいたので、みんなでバイトをして、ロケ代や出演してくれる人へのちょっとしたギャラや、フィルム代を出し合って撮ろうということになりました。僕はプロダクションに籍を置きながら撮影に参加して、そうしているうちにシナリオのお師匠さんに出会いました。色々と教わったのですが、最後にはお師匠さんと大喧嘩をしてしまって(笑)、途方に暮れてしまいました。僕はとてもじゃないけどサービス業などはできないと思っていたので、日当2000円でお芝居の音響の手伝いなどをよくやっていました。そこで出会ったある小劇団の役者兼演出家の人が、「お芝居がない時はマーケティングの会社でバイトをしてる」と言っていて、そのバイトに誘われてマーケティングリサーチの専門会社に行ってみることにしました。
著書一覧『 中山マコト 』