偏見と先入観を取り除き、視界に入る人たちをハッピーにしたい
クリエイティヴ・ディレクターで、DJ、執筆家、世界唯一の選曲評論家である沖野さんは、開店以来20年で70万人の動員を誇る渋谷The Roomのプロデューサーでもあります。KYOTO JAZZ MASSIVE名義でリリースした「ECLIPSE」は、英国国営放送BBCラジオZUBBチャートで3週連続No.1の座を日本人として初めて獲得。これまでDJ・アーティストとして、世界35ヶ国140都市に招聘されただけでなく、CNNやBILLBOARDなどでも取り上げられた世界的な日本人音楽家の1人です。著書の『フィルター思考で解を導く』では、DJが書いたビジネス書として話題となり、Amazonのビジネス書のカテゴリーで1位を記録しました。2014年1月29日には『DESTINY replayed by ROOT SOUL』をリリースし、2011年発売のオリジナル『DESTINY』に続き、iTunesダンス・アルバム・チャート第一位を獲得。全国リリース・ツアーも予定されているという沖野さんに、どのようにして今の道に至ったのか、そして、お仕事への思いをお聞きしました。
壮大な目的を持つ、動物園のためのコンピレーション
――幅広く活躍されている沖野さんの、近況をお聞かせ下さい。
沖野修也氏: 今年でDJを始めて25年です。今、自伝の話もあるのですが、「上京するまでの話で1冊できる」と言われます(笑)。Kyoto Jazz Massiveというユニットのデビューから20周年なので、アルバムを作っていて、その一環でコンピレーションや作品集も出ます。僕がプロデュースするアーティストの作品も出ますし、それから少し変わったものとしては、動物園のためのコンピレーションというのもあります。
――動物園のためのコンピレーションというのは、どのようなものなのでしょうか?
沖野修也氏: ジャズの名曲の中には、動物の名前を冠したタイトルの曲が多くあります。ジャズには必ずメロディがあり、ソロがあってまたメロディで終わります。ソロはプロの人に任せますが、メロディの部分であるテーマ部分を子どもの合唱にするんです。これは、若い頃にクラブに来ていたパパ、ママに向けてのもので、幼児教育ということで子どもにジャズを聴かせるわけです。コルトレーンとかマイルス・デイビスなどを子どもは知らなくても、一緒に口ずさめます。実際に、70年代には著名なジャズミュージシャンが自分の子どもたちの声を曲に入れたりしていたこともあるんです。僕もそうなんですが、DJの中には、子どもが歌っているジャズを集めている人もいます。CDだけではなく、マグカップやTシャツやトートバックなどのグッズ展開もして、そしてビジネスとして成立させたいと思っていて、何よりもまずは、子どもにジャズを聴かせるという崇高な目的を成し遂げたい。日本のみならず、海外の動物園にも輸出していきたいというプロジェクトです。
――すいぶんと壮大なプロジェクトですね。
沖野修也氏: 「CDが売れない」と不平や不満を言っていても仕方がないので、これをトリガーにしたいと思っています。スペインで、Sonarというフェスティバルがあるのですが、そのSonarKidsという子ども向けのセクションでDJかバンドをやってもらえないかという声もかけていただいています。最初は「動物園のコンピレーション」というと皆、「えーっ?」と言うんですが、説明すると納得してくれるんです。まだ商標が取れておらず、国ごとに申請しないといけないので、まだ道のりは遠いですね。
中学時代にYMOと出会い衝撃を受ける
――音楽との出会いというのは、いつ頃だったのでしょうか?
沖野修也氏: 音楽の出会いは中学時代。それまでは、自分でレコードを買ったことはありませんでした。でもイエロー・マジック・オーケストラとの出会いがきっかけで音楽に目覚めました。それまで僕は歌=音楽だと思っていたので、歌が入ってなかったことに、衝撃を受けました。曲はキャッチーで口ずさめる感じで、また彼らの服装がかっこよく、僕もテクノカットにしてみたりしました。高橋幸宏さんは自分でブランドを持っていて、アートワークなどもすごくセンスが良かったです。それから夜のフジテレビでの中継で、YMOの音楽で外国人が踊っているのを見た時に、さらにびっくりしました。日本が敗戦国だったので、外国人に対するコンプレックスが強かったのか、子どもの頃から外国人がなんとなく恐かったんです。でも、外国人が、日本人であるYMOの音楽を心から楽しみ、喜びを表現しているのを見た時は、本当に衝撃を受けました。
――高校時代はどのように過ごされていましたか?
沖野修也氏: 高校1年生の時、100メートル走が11秒3だったので「陸上で国体に行ける」と言われていたんです。スポーツはすごく得意で、色々な人からスカウトされましたが、理不尽な上下関係が苦手で部活はやりませんでした。帰宅後は、ひたすら読書と、音楽。当時ラジオでは、佐野元春、桑田圭祐、山下達郎、渋谷陽一がNHKの「サウンドストリート」という番組を、日替わりでやっていました。たまたま僕が書いた葉書が佐野元春さんの番組で読まれて、もう学校では一躍スター。その時に僕は「あれ、僕は選ばれし者なのかな」と思い(笑)、漠然とですが音楽について語る人、つまり評論家かライターかなと将来について考え始めました。高校時代はサブカルのムーブメントが出てきて、雑誌『宝島』などを読んで、「音楽はロンドンが面白そうだ」と思い、高校の後半くらいになると、ロンドンのカルチャー雑誌『i-D』などを読み始めました。
好きなことをやらなければいけない
――大学はどのようにして決められたのですか?
沖野修也氏: 「外国の文化を理解するには英語が読めなあかんな」と感じていたので、大学は龍谷大学の英文科に入りました。もちろん海外の文学も好きだったので、「原書で読めたら良いな」という思いもありましたが、ロンドンのカルチャー雑誌を読むための文学を学びたいという思いが強かったかもしれません。ジャーナリズムというか音楽ライターを視野に入れるにあたっては、やっぱり海外の情報をちゃんと理解していないといけない、と感じていたんです。実際、『宝島』などで面白い記事を書いている人は、海外に行って取材などをしているんです。そうしているうちに、4回生の時に父が病気で亡くなって、ちょっと覚醒した部分があったんです。
――どういった気持ちの変化があったのでしょうか?
沖野修也氏: 父は小説家志望だったのですが、家庭のためにサラリーマンとして働いていました。仕事としては会社のために本当に真面目に頑張っていて、しかも労働組合をやっていたので、上司からは叩かれ下から突き上げられといた状況でした。その父が亡くなったのは50歳。それで「好きなことやらなまずいな」と思ったんです。決して父の生き方を否定している訳ではなくて、人生は一度きりだということを改めて実感したというか、いつ死ぬかなんてわからないんだとしたら、僕は会社勤めじゃなくて好きなことをしようと考え、1人旅に出たんです。もう4回生だったので、周りは就職活動一色。だけど僕は、一度そういうところから離れて自分と向き合う時間をとったんです。
――敢えて自分を孤独な状況においてみたのですね。
沖野修也氏: 父が亡くなった後、全ての責任を負わないといけなくなってしまって、一気に大人にならざるを得ませんでした。そして父がいないので、結局誰かが働かないといけない。僕は3回生までに単位を全部とっていて、4回生の時は週に1回しか学校に行かなくて良かったので、雑誌の広告営業から、酒屋、郵便局、家庭教師など色々な仕事をしました。広告営業では、飛び込みで全く知らない人、自分のことをかなり怪訝に扱う人と会わないといけなかったのですが、それが功を奏して、知らない人とも話せるようになりました。そういうこともあり、東京であったロンドンのDJのイベントに行った時、僕はいきなり外国人のDJに話し掛けたんです。当時はまだ踊れるジャズじゃなくて、レア・グルーヴという、70年代のソウルやファンクを再評価するムーブメントがあって、「そんなにレア・グルーヴのことが好きだったらロンドンに来いよ」と言われ、1か月後にはロンドンに行くことになりました。
絶対にDJになるという決意
――ロンドンではどのようなことをされたのでしょうか?
沖野修也氏: ナイトクラビングをしていたのですが、何が衝撃だったかというと、仕事についていない人が多かったこと。2つ目は、クラブに行くと、人と人との間に垣根が全くないということ。広告営業をやって、苦手だった人と話すことは克服しましたが、それでもある種苦痛ではありました。でもロンドンでは、いとも簡単に僕を受け入れてくれるし、僕もそういう環境にいると自然と他人を受け入れられるようになったんです。3つ目はソウルやジャズなどの音楽の素晴らしさに衝撃を受けました。日本ではダンスミュージックとしては認識されてないもので踊っていたので、「絶対にDJになる。日本でそういうクラブ、カルチャーを根付かせる」と決意し、帰国しました。
――日本に帰って、どのようなことから始めたんですか?
沖野修也氏: DJになると決意したものの、帰ったら、「さすがに僕も就職活動せなあかんかな」と現実に戻り、理想はDJだったのですが、一応、就職活動をしたんです。面接の時、僕はリクルートスーツではなく、グレンチェックのセットアップスーツに白いタートルといった恰好で臨んだんです。西武セゾングループでは好評で最終面接まで残ったんですが、最終面接で「1年目は研修を受けないといけない」と言われたんです。1年経ったら希望職種を申請できるとのことだったのですが、僕は「広告のアートディレクターなど、もっとクリエイティブなことをしたい。1年たりとも無駄にしたくない」と思っていて、強く主張しすぎたのか、結局落ちてしまい、就職浪人することになったんです。
転機となった、ロンドンのジャズ雑誌のイベント
――それからDJへの道はどのようにして拓けたのでしょうか?
沖野修也氏: グラフィックデザイナーの友達が声を掛けてくれて、画廊を借りてグループ展をやりました。僕は小さな頃から絵が好きだったんです。海外の雑誌などを読むようになり、編集やビジュアル、それからYMOの影響で音楽とファッションと同様にグラフィックデザインなどに興味を持っていたんですよね。そして、その個展の時にイラストやコラージュなど、自分のグラフィック作品を出したんです。ある日、画廊に遊びにきた京都のフリーペーパーの編集者に「イラストを描いてみないか?」と声をかけて頂きました。そのフリーペーパーには広告が載っていたのですが「仕事がないんだったら営業したら?うちのお客さんはサブカルチャーに理解があるから、何か仕事が貰えるかもよ」と言って下さったんです。1軒目は美容室、2軒目はレストランに断られ、3軒目はたまたま行ったバーで、オーナーに作品集を見せたら「いいね。今度、京都でオープンするクラブの広告をやってみない?」と仕事を貰える事になったんです。1988年、89年くらいに京都に、containerというクラブがオープンしたんですが、そのオープニングのポスターとフライヤーとチケット一式をデザインしました。それが僕のクラブデビューでした。
――最初のクラブでのお仕事は、デザインだったのですね。
沖野修也氏: グラフィックデザイナーとして契約した訳ではなかったのですが、なんとなくクラブに入り浸るようになり、僕が22歳位の時に、「沖野君、店長やってみいひん?」と突然オーナーに言われました。オーナーが店長を兼務し、レコード店も経営していたので、店を誰かに任せたいということでした。もう願ったり叶ったり。それで店長兼デザイナーということで働き始めたんです。それでオーナーに「実はDJをやりたいんです」と直訴したら、これも即OKをもらうことができました。オーナーがすごく理解があったこともあって、いつも空いていた木曜にレギュラーでDJやるようになったんですよ。
――DJを始められた当初は、どのような感じだったのでしょうか?
沖野修也氏: 初めてやったパーティが無残な結果に終わって、3人だったかな?「やっぱりニーズないな。ジャズかけてもやっぱ誰も踊らへんねんな」と落胆しました。それでもDJになった感動の方が大きくて、辞める選択肢は僕の中にはありませんでした。今思うとすごくラッキーだったなと思うのですが、店ができて3ヶ月後位に、ロンドンからジャズ雑誌の編集長が京都に来てイベントをやったんです。ダンサーとラッパーとサックス。そのイベントがたまたま木曜日で、その出演者に「今日ジャズのイベントをやるけど来ない?」と声を掛けたんです。すると全員が僕のイベントに遊びにきてくれて、そのイベントからもお客さんが流れてきて、大盛況。そのジャズの雑誌『Straight No Chaser』は今もウェブで続いているのですが、その編集長のPaul Bradshawに「東京でジャズのDJは想像がつくけど、京都でジャズのDJってちょっとびっくりした。僕の雑誌にチャートを書いてくれないか」と言われたんです。それから、DJブースの横にある僕の壁画が編集長の目にとまり、雑誌に絵も描くようになりました。それで自分の地位を確立したというか、DJとして認識されたという感じでしょうか。
――DJの醍醐味とはなんでしょうか?
沖野修也氏: DJの一番の醍醐味は、自分が好きなものを相手に提案した時に共感してもらえるということ。基本的に人間は、他人に認められたいとか受け入れられたいという願望があると思うのですが、DJの場合は、それが10人だったり100人だったり、時には1000人などになることもあります。「僕はこの曲が好きなんだけど、皆どう思う?」と言った時に全員ではなくても多数の人が「いいね」と言ってくれるというカタルシスはやっぱり強力。単に押しつけているのとは違う、音楽を通して聴衆とコミュニケートする感じがすごく面白いんです。でも反応が悪い時もあるので、「じゃあこれはどう?」という風に、相手のリアクションによって次の自分の曲のチョイスも変わってきます。その感性のコミュニケーションのようなものがすごく面白い。その2つが、DJの醍醐味です。
フィルターを通すことによってグレードが上がる
――ビジネス書を出すようなきっかけは、どのようなことだったのでしょうか?
沖野修也氏: 『フィルター思考で解を導く』という本が出るきっかけになったのが、『DJ選曲術』なんです。DJって、適当にやっているように思われているし、プロの人も感覚でやっている部分もあると思います。でも芸術や美術、あるいは音楽に評論家がいるように、選曲の善し悪しをジャッジする選曲評論があっても良いんじゃないか、というかジャッジしなきゃいけないと思うんです。色々な機材も手に入れやすい価格になってきていて、DJによる選曲の善し悪しを決める物差しのようなものがないと、大変なことになる。芸能人がDJをやったら盛り上がる、有名なやつがやったら客が入る、といったような流れにはちょっと釘を刺さないといけないなという風に僕は思ったんです。そのためには誰かが「選曲とは何か」というものを言語化しないといけなかったのです。
――それを発見した編集者の役割というのもすごく大きかったんじゃないかなという気がします。
沖野修也氏: そうですね。『DJ選曲術』も、リットーミュージックの編集者の提案だったんです。電子書籍の時代になって、出版社も編集者も介さずに本を書きたい人がアップロードできるのはメリットだと思います。 でも、編集者が発掘する新しい才能とか、編集者が著者のクオリティを上げるといった部分がなくなるとしたら、ちょっとそれは残念だなと思います。今までの「本を出した」ということのステータスがなんだったかと言うと、出版社や編集者が本として出す価値があると判断して世に出たということ。誰でもアップロードできるとなると、プロと素人のボーダーがなくなるんです。僕のようにアーティストであり、プロデューサーであり、ジャッジを1人でできる人もいると思いますので、全てを否定する訳ではありませんが、やっぱり編集者、出版社というもののフィルターを通すことによって、グレードが上がることもあると思います。そこのメリットは、電子書籍においても失ってはいけない。今実際に電子書籍の話があるのですが、ちゃんと編集者もいます。僕は客観的な視点を持つ編集者の意見をもらうことで、自分の作品の質を上げたいと思っています。
――編集者に必要なものとは、どのようなことだと思われますか?
沖野修也氏: 出版社としては「これは売れないだろう」と思っても、実は売れるものというものもあると思います。レコード会社が「沖野さんのアルバムはニーズがない」と判断した作品でも、iTunesにアップロードしたら1位レディーガガ、2位槇原敬之、3位沖野修也といった順位になったこともあったんです。 だからそれをジャッジできる能力が、ディレクターや書籍の編集者にあるかというのが問われると思う。それからさらに、企画を立てられることが重要ですね。あと、電子書籍化しても成立する作家を見つけて、その後も育てられるという能力。もちろん宣伝もしなきゃいけないし、そのマーケットを作ることも必要です。例えば僕は今、窓格子にはまっていてインスタグラムで美しい窓格子の写真をアップしているのですが、建築業界の人からもご評価いただいていて、ファンもいたりするんです。だから窓格子の写真集を作ろうかなと思っているんですよ。Windowとタイトルについている曲はいっぱいあるので、CDもつけるとか。もし「タモリ倶楽部」などに出てブレイクしたら、皆が窓格子に関心を持つようになると思うんです(笑)。でもまずは窓格子の美しさに編集者が気づけるかどうか。そして窓格子の写真集を売るためにすべきことを考えられるかということ。そういったマーケッターでありプロデューサーといった感覚が、これからの編集者、出版社側に求められると僕は思っています。
ノーベル平和賞を目指す?
――沖野さんのミッションとは?
沖野修也氏: 僕はものの価値を変えるというか、人間が持っている偏見や先入観を取り除くのがDJの仕事だと思うんです。ジャズで踊るということは今でこそ普通ですが、25年前には「無理だ」と言われていました。でも、実際にジャズで躍る姿を目にすれば、意識が変わるんです。偏見とか先入観から解放される。だから、そういう意味でも、僕は色々な国の様々なジャンルの音楽をかけています。テクノしか聴かなかった人がボサノバを聴いたり、ヒップホップしか聴かなかった人がロックを聴いたり、ハウスしか聴かなかった人がアフリカン音楽を聴いたり。僕の壮大な野望としては、人種差別とか国家間の対立も音楽で取り除けたらなということを考えています。音楽家が目指すのはグラミー賞などと言われますが、僕はどちらかと言うとノーベル平和賞を目指したいですね(笑)。
――最後に今後の活動の展望、意気込みをお聞かせください。
沖野修也氏: 2月22日The Roomにて、僕のバースデー・イベントも兼ねて『DESTINY replayed by ROOTSOUL』のリリースパーティを開催します。当日は、ROOT SOULがアルバム収録曲を生演奏して、僕がDJをやります。場内禁煙で早い時間から始めるので、普段クラブから足が遠のきがちな方でも、純粋に楽しめるイベントになっていると思います。あと、ちょっと変わったところでは、料理本の監修の話があるんです。僕はレコードと同じサイズの黒いお皿を自宅で使っているので、ワンプレートのレシピ本ということと『ブラック・プレート』というタイトルは決まっています。メニューごとにジャズとかソウルの名曲のタイトル、例えば「A Night In Tunisia」だったらチュニジア料理といったように、音楽と食を結び付けるような本なんです。その他にも、これからの音楽志望者がどうやって好きなことで生きて行くかという本を出すなど、書籍の企画も結構あります。音楽では自分の感性を世の中に普及させていきたいと思っていますが、やっぱり書籍は言葉が重要。雰囲気とか上手く言葉で言い表せないことをきちんと切り取って、1つの概念を提示したいです。感覚と言語の両方を使って自分の世界というものを拡張していきたいなと思っています。
実は僕は花瓶コレクターなので、花瓶のプロデュースという話もあったりします。かつては吉田カバンとコラボでバッグを作ったこともあります。
僕の視界に入る人たちをハッピーにしたいし、僕の個人的な視界に入る世界を自分の色に染めたいなと思っています。
あと、今年は人が先入観や偏見から解放されるように、DJブースに幕を張って、誰がやっているのか分からないというイベントの開催も考えているんですよ(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 沖野修也 』