上原善広

Profile

1973年生まれ。大阪府出身。大阪体育大学卒業後、東京都在住。中学校非常勤講師などさまざまな職を経た後、ノンフィクションの取材・執筆を始める。『日本の路地を旅する』(文藝春秋)で第41回(2010年) 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。その他の著書に『路地の教室―部落差別を考える』(プリマー新書)、『被差別の食卓』、『異形の日本人』(以上、新潮新書)など。近著に『差別と教育と私』(文藝春秋)がある。

Book Information

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書くために生きている


――上原さんにとって書くことの意義とはなんですか?


上原善広氏: ぼく自身の存在意義ですね。ぼくは書くために生きているというのがあって、書けなければ生きているとは言えません。ノンフィクションにおいては、取材も含めて体を張るという部分が本当に大きいとぼくは思っているんです。あとノンフィクションの地位を上げたいという思いもあります。ノンフィクションはもっと色々な可能性を秘めた分野なんだということを伝えたい。文章表現を突き詰めていくと結局は純文学になっていくので、そっちに近づくのはぼくにとっては当然のことだったんです。「上原は高級な方に来たがる」などと言われるのですが(笑)、そうではなくて、ただ文章表現を突き詰めたいと思っているだけなのです。文芸誌から依頼していただいて、1年位一切仕事をやめて小説に取り組んだこともあったのですが、それでも書けなかった。その時にようやく「自分はノンフィクションを突き詰めて、そこから文学に近づける人間なんだ」というのが分かったんです。ただ今はもう、文学とかノンフィクションなどのジャンルにこだわりはありません。ノンフィクションには制約が多いなあと思うくらいです。

――年内に少なくとも4冊の本を出されるということですが、編集者の役割についてはどのようにお考えでしょうか?


上原善広氏: 編集者の方は第一読者なので、編集者の善し悪しで、出来がかなり変わりますね。それほど影響力が強いと思います。仕事の面ではぼくは割と編集者の影響を受けない方だと思うのですが、それでもよく相談にのってもらいます。雑誌もそうですが、特に本は映画と同じで、著者1人だけではできないと思っています。映画には何十人、あるいは100位の人の手がかかっていますが、本はその規模が小さくなっただけ。突き詰めるために、時にはケンカもします。最終的に決めるのは1人なのですが、周りに3、4人いて一緒に作るという体制の方が良い本ができるのではないかと思ってます。人数が多過ぎてもだめですが、1人よりは2人、2人よりは3人でやった方が良い方向に向いていく。新潮社の校正の方にもすごく勉強させられます。色々な方が関わってくれているからこそ、良い本ができるのだと思います。

複数で製作することの可能性


――電子書籍も普及してきて、編集者不在のまま本ができるという話もありますが、それに関してはどのようにお考えでしょうか?


上原善広氏: 1人で書いて、良いものができることもあると思います。ただ、例えば漫画家ならば、『キン肉マン』のゆでたまごさんも2人だし、藤子不二雄さんも2人。これからは電子書籍でも、そういったように複数で、連名で1冊を作るということもあり得ると思います。特にノンフィクションの場合は、社会問題も扱うので、多角的な視点がある方が良い。1960年代くらいからアメリカでは2人の著者が1つのテーマを書いて、ピューリッツァー賞を獲った例もありますしね。日本ではあまりそういう例がないですが、もしかしたら本よりも電子書籍でその可能性があるかもしれません。ただノンフィクションは取材費もかかるので、その辺の解決策が見つかるかどうか、だと思います。

――電子書籍の魅力とはなんだと思われますか?


上原善広氏: デビューがしやすい点ですね。あと、タブーが非常に少ないというのも大きい。同和問題だけではなくて、精神や身体障害者問題についても、かなり自由に書けます。でも、それは電子書籍というよりは、掲示板みたいになってしまうんでしょうか。

――コンテンツなのか、本なのか、といったところは曖昧だと思うんです。もしかしたら定められるものではないのかもしれませんね。


上原善広氏: そうですね。これからは本と電子、ネットの住み分けもできてくると思います。テレビが出た時は、映画がなくなると言われました。ですから電子書籍やネットが出てくることで、紙媒体が無くなるとは思いません。ただものすごく紙媒体にとって刺激になっていることは確かです。しかし、ぼくらはゲームで言えばソフトを作る側だから、発表媒体はなんでも良いし、それは編集者や会社が考えることだと思っています。ぼくは表現者だから、その方法については全然問いません。読者が見てくれることが大事。個人的には紙に対する思い入れはありますが、それはあくまで個人的な思いであって、書き手としてではありません。紙媒体と電子やネットの関係というのは、映画館で映画を観るのとレンタルして見ることくらいの違いしかない。ゲーム機でも、要は素晴らしいソフトがありさえすれば良いわけだから、ノンフィクションの分野で面白いコンテンツをきちんと提供すれば、媒体がどうあれ、もっと人気が出るのではないでしょうか。ただぼく自身でいえば、紙媒体とネットでは、書くテーマを変えないと書けないという限界を最近感じました。この辺りも今後、住み分けができてくると思います。

他者を通して描かれていく自分


――現在、考えている執筆のテーマはありますか?


上原善広氏: これからも少しずつ変わってくるとは思いますが、全て2つの共通した手法があると考えています。1つは、ノンフィクションなのですが自分の内面をどんどん掘り下げて行くということ。もう1つは逆に社会的なものの掘り下げ。1つ目は非常に個人的な問題で、もう1つは非常に公的なことなので、マクロの方にいくのとミクロの方の両方をやっていくことになると思います。具体的に出すと、全然違うテーマだと思われるのかもしれませんが、例えば分子のところと宇宙の方まで行くのと、やってることは根源的には変わらないのと同じような感じ。それと同じように、ぼくの中では私的と公的、社会的な二つの要素は繋がっています。他者を通して、実は自分のことを描いているという作品もあります。そういう風なことを繰り返して、結局は自分のことを掘り下げていくというのが、自分のスタイルなのかなと思っています。

――周りのことを考えることは自分のことを考えることにもなりますよね。


上原善広氏: ただ、自分の言いたいことを自分の言葉として直接、表現することはないですね。1つのテーマなり事件を取材しながら自分の中身を掘り下げていく作業をすると、その時にぼくは一切表に出てきません。だけど、読んでみると自分自身を掘り下げていくことになっている。結局、何をやっても自分とつながっている。それが今のところ、ぼくのノンフィクションだと思います。『差別と教育と私』では、自分と社会が交互に出てくる構成になっています。そういう意味では複雑な本なのですが、これからはもう少し難しいものにも挑戦したいなと思っています。周囲からは高尚なことを言うのが得意だと言われてしまうのですが(笑)、実際に書くとなるとそうした抽象的な感覚とは別ものだし、売れるというのは読んでもらえているということだから、それがないとやった意味がないから、ようはそのバランスを取るのが今後のぼくの課題ですね。

――今後の展望をお聞かせください。


上原善広氏: 20代、30代の頃は、吸収することが多かったのですが、今は逆に情報をシャットアウトして自分に向き合う時期なのかなと思っています。雑誌での活動が長かったので、雑誌屋が何を考えているのかは分かっているつもりです。だから、ぼくに必要なのはその感覚と、自分のテーマが合っているかどうかということ。それを検証するための作業をして「大丈夫だ」と自信を持った時に、また色々な角度から見て完成させていく。映画の世界のように色々な角度から見て、「この方向は間違っていない」というのをはっきりさせることができれば、後は自分でどう表現するかだけ。自分としては、作品性については認めてもらったと思いますので、今後はより多くの人に読んでもらうことができるかどうか、というのがぼくの課題ですね。今、正にその総力戦の最中なので、気持ち的にもあまり余裕はないのですが、これからも試行錯誤しながら、いろんな答えを見つけていきたいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『海外』 『考え方』 『ノンフィクション』 『人生』 『取材』

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