個々の立場に立って考える。
色々なケースに生かすことのできる経済学を
経済学者の柳川さんは、慶應義塾大学経済学部通信教育課程卒業後、東京大学大学院経済学研究科修士課程、博士課程を修了し、現在は東京大学大学院経済学研究科の教授をされています。柳川さんの「40歳定年制」という考えは大いに話題となり、『法と企業行動の経済分析』では、日経・経済図書文化賞を受賞されました。専門書のほかにも、ご自身のユニークな経験をもとに、若者に向けての多様な価値観を伝える本も著していらっしゃいます。柳川さんに、海外での生活、執筆に対する思いや電子書籍、本などについてお聞きしました。
執筆や講演を通して、経済学の基本的な部分を知ってほしい
――大学教授として教鞭をとられているほか、最近ではどのようなお仕事をされているのでしょうか?
柳川範之氏: 啓蒙活動で「40歳定年制」という話をしてから、雇用や働き方ということに関するリクエストが多くなってきました。働くということは40歳になっても勉強し直さなければいけないし、新たな知識をインプットしないといけないのではないかというのを、雇用の話とセットで話していることもあり、教育のあり方というのをお話しすることも多いです。
――一般の方へ経済学を教えられるというのは、どのような思いからなのでしょうか?
柳川範之氏: 経済学は難しい学問に思われがちですし、あるいは新聞に出てくる景気やインフレ・デフレなどを研究する学問だという風に思われがちです。そのこと自体は間違いではないのですが、それだけではなくて、それぞれの人がどうやって上手く生きていくかとか、どのような工夫をすれば、もう少し色々と考えながら生活ができるかというような、働き方だけではなく、生活していく上でもヒントになるようなメッセージがたくさんあると思っています。そういうところも知ってもらいたいという思いから活動しています。経済学とまではいかないぐらいの入門の部分、基本的な考え方をできるだけ多くの人に知ってもらいたいということで、解説の本を書いたり、機会があれば公演やセミナーなどといった場でお話ししたりしています。
――その経済学の研究は、どんな内容なのでしょうか?
柳川範之氏: 私の最近の研究の1つは、主にコーポレートガバナンスといわれているものの、法的な側面。法律を変えるとどのように経済の実態がよくなるか、ということでコーポレートガバナンスに関係する法律と経済を繋ぐ部分の研究をしています。あとは、バブルが経済にどのような影響を与えるかとか、どのような時にバブルが発生するか、という少しマクロ金融に絡むようなものも研究しています。これは純粋に理論的な研究です。
――専門にしている契約理論とは、どういったものなのでしょうか?
柳川範之氏: 普通、経済とは市場を通してモノの売買がなされて動くと思われているのですが、実際は、単純にモノを売ったり買ったりしているケースというのは少なく、色々な取り決めや契約書を作成したりして仕事を依頼したり、会社の場合は色々な提携をしたりというように様々なことをやっているのです。市場取引といって、総需給で価格が決まるというような話をしてしまうと、契約書に書いて、色々な取り決めをするという側面が抜け落ちてしまいます。契約理論というのは、そういう抜け落ちてしまった経済の重要な部分を研究するものなのです。
当時は貴重だった日本語の本と共に成長
――幼少時代をシンガポールで過ごされていたそうですね。
柳川範之氏: 父の仕事の関係で、小学校4年から中学校1年の夏休みまでシンガポールにいました。今ではシンガポールの日本人学校はとてもたくさん生徒がいるのですが、当時はまだ少なく、1学年が30人ほどでした。中学3年生は1学年に3人くらいしかいませんでしたが、全体的に仲の良い村の小学校というような雰囲気でした。
――どのように過ごされていましたか?
柳川範之氏: 先生は日本人で、教科書も日本のものをそのまま使っていて、学校では全て日本語が使われていたので、あまり外国にいる感じはしませんでした。みんな遠くからスクールバスで通って来ていたので、朝7時半ぐらいにバスが来て、夕方4時半ぐらいに帰るというような感じでした。帰りのバスが来るまでは、みんなでグラウンドでソフトボールをしたり、コブラが出るから行ってはいけないと言われていた裏山で探検したりして、子供らしく、楽しく過ごしていました。
――学校以外では、どのように過ごされていましたか?
柳川範之氏: 当時はインターネットもなければ、テレビの日本語放送もなかったので、学校の図書館で本を借りて、喜んで読んでいた記憶があります。日本のマンガなどが一番貴重だったので、新しく日本から転校生が来ると、どんな本を持っているのか聞いて、それを借りて読んでいました。少しずつ日本語の本を取り扱う本屋さんができてきてはいたのですが、航空便で届く雑誌などは、通常の3、4倍高くて、「週刊少年ジャンプ」などは、今で言えば1000円ぐらいでした。だから、大抵は船便で来た3ヶ月遅れのジャンプを読んでいましたね(笑)。あとは、小学生だったので、立ち読みに行っていました。今思えば申し訳ないですが、本屋の店員さんも、ある程度黙認してくれていたように思います。日本語の本はかなり貴重でしたからね。
独学で過ごしたブラジルでの生活
――ブラジルで過ごされていたこともあるそうですね。
柳川範之氏: シンガポールから日本の中学校に転校して、中学は日本の学校を卒業しました。その後は高校に行かず、ブラジルに行きまして、サンパウロとリオデジャネイロ辺りでブラブラしていました(笑)。当時のブラジルには日本人学校はありませんでしたし、現地の学校に行くにはポルトガル語ができないといけないので、「行くなら小学校から入ったら」と言われました。
――ブラジルでは学校に通われていたのでしょうか?
柳川範之氏: 最初から学校には行かないつもりで、自分で勉強すればいいと思っていました。今はシンガポールも随分変わったので、学習塾が進出しているようですが、僕がシンガポールにいた頃は、全くそんな状況ではありませんでした。塾などに行った記憶もないし、だからこそ自分で参考書などを探して勉強するという癖が、シンガポール時代についたのだと思います。そうやってシンガポール時代は自分で勉強していたので、その延長線上で、ブラジルでも独学でいけるかなという思いがあったのだと思います。
――ブラジルを選ばれた理由は?
柳川範之氏: 父親がブラジル勤務になったからですが、寒いのが嫌だったんです(笑)。シンガポールには3年間いたのですが、その間1度も日本に帰らなかったので、シンガポールの気候にすっかり慣れてしまっていました。ですから、日本の冬は寒くて仕方がありませんでした。冬の間はずっと風邪をひいていたりしていたので、寒くない場所がいいなという思いがありました。
ブラジルにいる間はビーチに行ったり、サッカーの真似事をしたり、テニスをしたりと、それなりに楽しんでいましたね(笑)。