悩んだ時に話を聞いてくれる、「本」は友達
中古レコード店「レコファン」、ブラジリアン・レストラン「バッカーナ&サバス東京」、ショット・バー「フェアグランド」などで経験を積んだ後、1997年にBAR BOSSAをオープン。2001年には、ネット上でBOSSA RECORDSを開始し、『カフェ&レストラン』(旭屋出版)では「扉のむこうがわ日記」連載中です。近著に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか 僕が渋谷でワインバーを続けられた理由』があります。今回は林伸次さんに、バーを始めたきっかけや本との関係、電子書籍に期待することなどをお聞きしました。
編集者とは「映画監督」
――ワインバーを経営されながら本を出版しようと思ったのは、なぜだったのでしょうか?
林伸次氏: 書籍の電子化に関係があるかもしれませんが、僕は、情報は共有した方がいいと思っているんです。僕の店には1か月に500人~600人のお客さんが来ますが、「ここにこんな安い食材屋があるよ」とか、「こんなお客さんが来たらこう対応した方がいいよ」などといった情報を、文章に残して共有したいなと思ったのが、本を出すきっかけとなりました。
実は、僕は昔から作家志望で、Twitterで小説を書いたりしていたのですが、どうも純文学が向いていないように感じはじめていました。それで、「エッセイのようなものをFacebookで書いてみるのはどうだろうか」と考え、店での出来事を書き始めると、それを見たDU BOOKSの編集の方から声がかかり、出版することになりました。
――執筆はすんなりといきましたか?
林伸次氏: 編集の方が優秀で、言われるがまま書いたという感じですね。この店には、編集者やライターのお客さまも多くいらっしゃいます。僕が「今度本を出すことになった」と話したら、「本は編集者が作るから、著者は役者のように、編集者の言われる通りのことを書いた方がいいよ」と言われたので、「そんなもんなのかな」と思って(笑)、ひたすらテキストを書いて、赤字で戻ってきた部分も全部受け入れて書き進めました。そうしたら、最終的にはすごく上手くまとまって、ひとつの物語になっていったんです。
――編集者の役割とはどのようなところにあると思われますか?
林伸次氏: 映画監督のように思えます。このお店もそうですが、僕1人で作っているのではなく、いらっしゃるお客さまと一緒に作っているのです。お客さまがすごくオシャレをして来てくれれば雰囲気ができあがるし、美味しそうにシャンパンを飲んでいれば、周りも同じようにワインを楽しむようになります。場所や雰囲気は、誰かの意志で作るというより、みんなで作る方が上手くいく場合があるんです。今回の本も同じような感じがしました。
数えきれないほど豊富なバイト経験
――小説家志望だったということですが、本は昔からお好きだったのでしょうか?
林伸次氏: はい。僕は四国の徳島県生まれで、共働きだった両親の親友が、徳島県の県立図書館の一番大きな図書館の館長をやっていて、小さな頃からよくそこに預けられていたんです。保育所が終わった後などに図書館にいることもありましたし、図書館で一日中過ごすこともよくありました。母親が絵本の会社で働いていたこともあって、小さな頃からよく本を読んでいましたね。小学校の時にアガサ・クリスティーを読んで、あとSFものも好きでした。なので、小学生までは大人しかったような気がしますが、中学校の時、母に「運動部に入りなさい」と言われて、バスケットボール部に入ったんです。部活がすごく厳しくて、本を読む時間はなくなり、部活漬けの毎日。高校時代からはバンドを始めて、ミュージシャンになりたいと思っていたこともありました。
――なぜバンドを始めようと思われたのでしょうか?
林伸次氏: 僕は69年生まれで、高校の時はバンドの全盛期でした。漠然と「中心地に行かないと」という思いがあり、18歳で東京の大学に入学しました。大学でもバンドサークルに入りましたが、周りの人もすごく上手かったんです。ちょうどその時に、フリッパーズ・ギターが出てきて、「東京にはこんなカッコいい人たちがいるのか」と衝撃を受けて、「あきらめよう」と思ってやめてしまいました(笑)。
――どのような大学生活を送られたのですか?
林伸次氏: 僕は早稲田大学の第二文学部で、学校は夜でしたから、昼はバイトばかりしていました。全部で何種類のバイトをやったか、よく分からないぐらい色々なバイトをしましたね(笑)。電報局のオペレータから皿洗い、それから工場でも働きましたが、どのバイトも面白かったです。大学を中退したこともあって、ホワイトカラーのところには勤められないかなと考え、まずはレコファンというレコード屋で働くことにしました。その後、飲食店をやろうと考えた末、妻と一緒にバーをやるということになりました。当時の僕はフリーターのような感じでしたが、彼女はレコファンの上層部として働いていて、僕とは釣り合わないようなお嬢様だったこともあり、「なんとかして自力でお金持ちにならないといけない、店を成功させるしかない」という思いがありました。
――お店を開く前に、修行はされましたか?
林伸次氏: 2人でボサノバのバーをやるために、ブラジル料理の勉強をしようと、都内のブラジルレストランで2年働きました。初めは、ブラジル人、スペイン語圏のアルゼンチン、チリ、メキシコの人たちが集まるような店を考えていたんです。でもブラジル料理店で働いていた時に、ブラジル人同士の喧嘩があり、ビール瓶をパアンと叩いて割り、切っ先を突きつけて喧嘩するのを目の当たりにしたんです。その人はカッとなってそのまま相手を刺してしまって、辺りは血の海に。「これは怖いな」と思ってしまい、その事件がきっかけで日本人相手のバーへと方向転換をすることにしました。次に下北沢の店に勤めましたが、そのお店は業界人が多く集まる店で、「こういう世界があるんだな」とたくさん学びました。お客さまの様子も分かってくるようになりましたし、すごく勉強になったと思います。
著書一覧『 林伸次 』