全日空からもの書きの世界へ
――大学は京都女子大の短期に進まれましたね。
井上理津子氏: 遊びまくって、旅行に行きまくった2年間でした(笑)。4年制に内部編入するつもりで、そのための単位を全部取っていたのに、なぜか全日空の試験に受かって、調子にのって短大卒で就職しました。夏休み留学の走りのような時代、ダブルスクールしていたYMCAからアメリカのケンタッキー州に行っていて、当時、英語が少しできたんです。たまたま、学校指定のような形で、全日空の求人が学内に貼り出されていたので、力試しのように受けてみたら、トントン拍子に受かってしまいました。それで、大阪空港支店のグランドホステスを2年しました。
――どのような2年間でしたか?
井上理津子氏: 今振り返ると、申しわけないほど最低の社員だったと思います。「やっぱり、いつか書く仕事に就きたい」という思いがあったのです。当時の全日空の地上職は、かなり恵まれていて、時間の自由がききました。朝6時から午後2時までの早番が2日、午後1時から午後9時までの遅番が2日、そしてオフ2日という、6日サイクルの仕事だったので、オフ時間にコピーライタースクールに行ったり、大阪編集教室に行ったりしました。書く仕事とレタリングの差が分からなくて、デザイナー学院にレタリングを習いに行ったこともありました(笑)。
――全日空をそのまま続けるという選択肢はなかったのでしょうか?
井上理津子氏: 肌に合わなかったのだと思います。モデルとしての会社員が家に誰もいなかったということもあったのか、5年後、10年後をまったくイメージできない。社会の歯車の1個として重要な部署にいるとは思いつつも、私はダメでした。今さらながら、安易に就職して本当にごめんなさいとしか言いようがありません。生理でもないのに生理休暇をとったりした社員でした。お詫びしたいです。
それで2年で辞めて、なんとか書く仕事に就きたいと。しばらく大阪文学学校に行きながら、編集プロダクションでアルバイトした後、求人広告で、先にお話しした「女性とくらし」を発行している女性と暮し社を見つけたんです。なんとか24歳で入社でき、うれしくてたまらなくて、それはもう水を得た魚のような気分でした。やがて、その時の編集長の発案で、「関西ピープル」というインタビュー欄ができて、担当させてもらいました。それが刺激の連続で楽しくて、のめりこんでいきました。
――それだけのめり込まれた会社を辞めて独立したきっかけは?
井上理津子氏: ある時、人材派遣会社の課長の女性を取材したんです。大学教授だった夫さんが急死され、子どもと義母を抱えて職を求めなければならなくなったのが、その会社に勤めたきっかけだったそうです。「教授夫人とちやほやされていたが、実は自分自身は何もできないということを、夫を亡くして思い知った」と話してくれたのです。義母さんに介護が必要になったとき、ご兄弟たちから「援助するから家にいて」と申し出されたそうなのですが、「他人に頼ったら、また同じ繰り返しになるだけと思い、お手伝いの人を雇って働き続けることを選びました」とおっしゃいました。私は、その人の言葉にいたく感銘を受けました。ちょうど、男女雇用機会均等法ができる直前。女性総合職誕生うんぬんと騒がれる中、自分たちの一世代上の女性に、その方のように自分で決断して黙々と働いてきた人や、市井で地に足をつけて仕事をしてきた人が、実はいっぱいいらっしゃる。取材して本にまとめたいと思い立ったのが、会社を辞める引き金でした。それで、共著してくれる友達を募って、92人の女性のインタビュー集を作りました。ありがたいことに、こんな名も無きライターの発想を、長征社という小出版社の社長が「面白い。うちから出そう」と言ってくれました。それで1年ほどかけて最初の共著本『女・仕事』を出したんです。
失敗しながら育ててもらった
――数多くインタビューをする中で、苦労した点などはありますか?
井上理津子氏: 失敗はありますよ。インタビュー中に相手の顔色が急に曇ってきたなと思ったら、「なに聞いてるの」って怒られたこともあります。すぐ思い出せる分だけで3件はありますね。「あんた理解していないね」と言われたり、一度取材したことのある人に別の媒体で再び取材を申し込んだら、「あなたのインタビューはもう受けたくない」と言われたこともありました。でも、振り返ればすごく勉強になったなと思います。どうでもよければ何も言わないですよね。そういう意味では雨降って地固まるという関係になった方もいらっしゃいましたし、被取材者の皆さんに育ててもらったと思います。
――仕事をしていく中で尊敬する先輩などはいましたか?
井上理津子氏: 『月刊SEMBA』という情報誌があったのですが、フリーになった後、私がホームグランドにさせてもらっていた雑誌です。そこの社長であり編集長だった廣瀬豊氏が私の恩師です。取材先への距離の取り方をはじめさまざまなことを教えてもらい、育ててもらいました。「人間情報誌」がコンセプトの雑誌で、私たち外部スタッフを含めて、毎月酒を飲みながら編集会議で侃々諤々意見を闘わせるんです。編集長は2008年に亡くなりましたが、それまでずっとお付き合いをさせてもらいました。何か失敗したり、煮詰まったりすると「編集長、聞いてください」と廣瀬さんの家に伺った。宝物の思い出です。
著書一覧『 井上理津子 』