本や小説、音楽を好きにさせたい
製薬会社に勤務しながら、文学、美術、音楽についての文章を多数発表し、流通経済大学・国立音楽院などでの非常勤講師を経て、2001年には早稲田大学文学部客員教授に。2002年からは助教授へ就任。現在は文学学術院教授を務められています。1998年には第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。旧来の音楽批評・学術的研究とは相容れない独自の感性を持ち、「音楽文化」の視点から、音楽、映画、文学、舞台、美術など幅広い著述活動を展開。聴取行為、聴取空間にも配慮した独特な語り口で、音、音楽、音楽家について論じる一方、音・音楽がおかれている位置や文脈、文学や映画、ダンスなどとの相互的なつながりにも関心を持ち、精力的に活動をされていらっしゃいます。今回は小沼さんに、音楽や執筆に対する思い、そして学生に対する思いをお聞きしました。
読書によって培われるスキル
――ゼミではどのようなことをされているのでしょうか?
小沼純一氏: ゼミは比較的学生に任せていました。自身が接した色々なものについての文章を書いてくるということをやってもらっています。私が大学の中で所属しているのは文芸・ジャーナリズム論系というところなので、作家になりたい人は作家の先生のところに行くし、批評をやりたいという人や、研究をやりたい人もいます。基本、私のところも批評なのですが、必ずしもみんなが批評のことを良く分かっているわけではありませんから、何をしたらいいのかよく分からないし、書いたこともなかったりする。それでも「何かに接したら、感じたり考えたりするだろう。それを文章にしたらどうなるかな」ということで始めたのです。そういったことは、就職して会社に入って、プレゼンテーションをするとか企画書を書くといったことにも、結びつくと思うのです。今は、ブログを書くなど色々な方法があると思いますが、そういった頭の訓練や頭の中で考えていることと、指先でインプットしたものではズレが生じますよね。そのズレを分かっていてほしいし、「そういう時にはどうしたらいいのかな」と考えてくれるといいなと思っています。
――どの仕事でも「書く」という作業は必ずありますよね。
小沼純一氏: そうなんです。でもそのためには、ある程度の読書経験がなければいけません。本を読むことは昔に比べて減っているかもしれませんが、スマホなどでTwitterやFacebookなどの文字を読んでいる量は、実は結構多い。誤解をされないような言い方をすることや、短文からできる限りその裏にある考えや感覚をくむとか、そういうことがきちんとできるスキルは、本を読んでいる上でこそ培われるのではないでしょうか。やっぱりそういうものにある程度接して、慣れることが必要です。量が質に転化するとでもいいますか。
母の影響でフランス文学に慣れ親しむ
――小中高と私立校へ通われていたそうですね。
小沼純一氏: そうです。学校は都心にあって、私の家は東京都内でも割と端っこの方だったので、通うのに時間が掛かっていました。通学の間は本を読んでいました。また、途中で池袋を通っていたのですが、70年代から80年代は池袋西武があったのでよく立ち寄っていました。西武はアート系の催しをよくやっていましたし、本屋やレコード屋も充実していて、寄っていました。私立だったので都内でも色々な方面から来る人がいるんですね。だから遊びに行くのもそれぞれの家の中間地点で、銀座や新宿などに親しんでいました。本当は禁止されていたのでしょうが(笑)。
今の大学生に関して面白いなと思うのは、家と大学、あとはアルバイト先ぐらいの範囲しか動かないことです。「和光の前で待っててね」と言っても、和光を知らなかったりする。ですから「もっと色々なところに行ってみたらどう?」と言いますが、なかなか億劫なようです。じゃあ家の周りには詳しいのかと言うと、そうでもない(笑)。かつて、私たちにとって、デートは基本的に歩くものでした。ですから、今の子が公園や庭園、美術館などにはあまり行かないことは不思議ですね。
――本を読み始めたのはいつ頃だったのでしょうか?
小沼純一氏: 父は完全なビジネスマンでしたから文学書などは読まなかったのですが、母親はおそらく文学少女だったのです。古い文庫本など家にはずいぶんありました。子ども用に書き直されている世界の文学などを読みましたし、母親が読んでいたフランス文学の文庫本も分からないなりに背表紙を眺めていました。フランス文学については、やはり母の影響を受けたと思います。中学ぐらいまでは、本については「欲しい」と言えばいくらでも買ってくれましたけれど、高校生になった頃には「自分で買いなさい」と言われるようになって(笑)。
――本をたくさん読んでいたんですね。
小沼純一氏: そうですね。当時は内容以上に、本棚が埋まるのが楽しいというところもあって古本屋に行くようになりました。そんなにお金があるわけではないですし、「レコードも買わなくては」という思いもあったので、興味のあるものを古本屋で、となります。今でこそ古書店にはそれほど行きませんが、かなり長く古書にはお世話になっていました。友人たちも同じでした。古本屋でずっと売れないで残っている本などが気になるんですよ(笑)。家のそばに何軒かよく行くところがあると、暇があればそういったお店を回っていましたが、「あ、あれが無くなっている」とか「今度はこれが増えている」ということを発見したり。新刊の流通とは違う動きを古本屋に見ていたのではないでしょうか。そういう変化が面白いから古本屋が好きだったのです。
ものづくりへの思いから、作曲家の夢が芽生える
――お母様の影響を大きく受けられていたんですね。
小沼純一氏: 母が洋裁をしたり木目こみ人形をつくったり、あるいはギターを弾いたりなどしていたこともあり、ものを作っている人が好きだったのだと思います。だから「私もそういう人になれるといいな」と漠然と思っていたのではないでしょうか。音でならば何かができるかなと、ピアニストに憧れていたこともありましたが、やっぱり「何か作りたい」んですね。小学校4年生の頃からは作曲家になろうと思っていました。ただ親が音楽大学に行くことを許してくれなかったので、こっそりとやっていたのです。それと並行して本を読んでいたので、勉強はしておらず、大学受験もうまくいきませんでした。20歳の誕生日を迎えた時点で「才能がないや」と、音楽をやめて受験勉強を始め、大学に入ることにしたのです。
――フランス文学科へと進まれましたが、どのような学生生活でしたか?
小沼純一氏: 私の通っていた小学校は、フランス語の授業をやっていました。受験もフランス語だったしというのが、フランス文学科へ進んだ理由の1つで、安易です(笑)。哲学などに進んだ同級生もいましたが、哲学よりは文学の方がいいなと思いました。私が大学に入った時代、70-80年代は、まだフランス文学というものが輝いていた時代です。で、大学時代は「本」と「デート」ばかり(笑)。音楽を諦めたからコンサートにも行かなくなり、積極的に音楽を聴くこともなくなっていきました。その代わりに本を読んでいました。デートはやたらと歩きました。あとは展覧会に行くかお酒を飲んでいるか(笑)。その時々になんとなく気の合う人がいたので、非現実的な生活を送っていたのでしょう。
――その後、製薬会社に就職されますね。
小沼純一氏: 実はすぐに辞めるつもりでした。でも辞めるのにもエネルギーがいるし、長くいればいるほど辞めるのが面倒くさくなる。私が入社してしばらくしてからフレックスタイム制が導入され、それからはできるだけ早く行って早く帰るという生活(笑)。ただ、どんなことでもある程度やっていれば、「ひとつの仕事が終わった」という達成感がありますし、それで給料はもらえるし、学べることもたくさんありました。初期のパソコンの時代で、最初はプログラミングをやっていました。いわゆる文章を書いたりするロジックとは全然違う、一段階ずつ進まないといけない、というようなことをそこで学びました。会社には色々な人がいますから、そういう自分とは違う人に接することも社会勉強としては良かったと思います。だから学生には「会社に入ったら、5年ぐらいは居たら?」と言います。無駄なことなどほとんどありません。もちろん私が働いていた頃と今では状況が違うので一緒にはできませんが、挨拶の仕方や人との接し方、言葉の使い方や口のきき方など、今も変わらず学べるところは沢山あるのです。
著書一覧『 小沼純一 』