人間としての豊かな時間。プロセスを楽しんでほしい
雑誌・書籍編集者を経て執筆活動を始められた中川越さんは、手紙に関する著作が多く、手紙のあり方を探求し、その魅力について紹介し続けています。著書に、『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』『文豪たちの手紙の奥義』『名文に学ぶ こころに響く手紙の書き方』『年賀状のちから』などがあり、『文豪たちの手紙の奥義』は大学入試問題にも採用されました。日本郵便株式会社から年賀状についての取材を受け、その時の談話が日本郵便株式会社発行の『年のはじめに触れ合うあう心―年賀状のいま、そしてこれから』の巻頭に掲載されました。
また自ら印刷・製本、電子出版の制作などを手掛け、手紙のなどの文書・文芸関係は「文月書房(ふみづきしょぼう)」から、スポーツや健康に関係するものは、「イー・スポーツ出版」から出版しています。書籍『150キロのボールを投げる!速い球を投げるための投球技術とトレーニング法』の制作に際してビデオ取材した動画を、80余本のビデオクリップに分けてYouTubeにアップしたところ、その閲覧数が総計200万回を突破するなど、新たな表現媒体の利用にも積極的です。
今回は、スポーツと文学について、「手紙」を探求し始めた動機、夏目漱石の手紙との出会い、そして、「手紙」の世界から見えてくる、今の日本に足りないことなどについて語っていただきました。
スポーツと文学、実は似ている?
――文学からスポーツまで、幅広いテーマで書かれたり、プロデュースをされたりしていますが、全く違う分野ですね。
中川越氏: スポーツにおいて、自分が持っているフィジカルな能力を、相手チームやそのときの自分のコンディションに応じて“どのように効果的にパフォーマンスとして発揮するか”ということと、人やものやことに接して感じたことを、“どのように文字として表現するか”ということは、その本質の部分では、あまり変わらないと私は思っています。どちらにおいても大切なのは、感受性です。スポーツでは、チームメイトの意図を瞬時に感じ取ること、相手プレーヤーの能力や戦略なども的確に感じていかなくてはいけません。そして、なによりもスポーツとは自分との対話なのです。日々刻々微妙に変化する自分の筋肉、コンディションを正確に読み取る感受性が欠かせません。そして文学もまた、人やものやことに接して感じ、その意味合いを探り解釈し、それを文章でアウトプットしていきます。これまでに、一流のアスリートや監督、コーチなどとお話してきましたが、そういった人たちは感受性において非常に鋭敏でしなやかで、試合や練習で感じたものをどうアウトプットしていくかということを、次々に発明していくのです。まるで詩人が新鮮な感受性を、新鮮な表現に託すかのようです。スポーツも文学も表現方法が違うだけで、私にとってその本質は、全く変わらないもののように感じられます。速球投手の球筋は、まさに一編の詩であり、すぐれた文芸表現は、160キロの剛速球のようにセクシーです。
――そういった「鋭敏でしなやかな感受性」は、どのようにして養われていくものなのでしょうか。
中川越氏: 自分との対話の中で、感受性は育まれていくものだと思います。アスリートなら、日々の練習において、ただ決められたメニューをこなすだけでなく、その都度、筋肉の動きや動作の質の微妙な変化を感じ取り、パフォーマンスを安定させたり、発展させたりするための試行錯誤を繰り返す中で、感受性はさらに研ぎ澄まされていくようです。そして、文芸においてもすぐれた表現者は、日々アスリートと同様に試行錯誤を繰り返し、自分の表現の質を感じ取り評価し、作品へとつなげていくもののようです。例えば夏目漱石などは、毎日のように手紙を書き、多いときには日に五通前後も書いて、新聞の連載小説を毎日書くための、ウォーミングアップにしていたようです。
――文学とスポーツで、共通して伝えるべきだと思うことは?
中川越氏: 文学もスポーツも、共通するのは詩です。あるいは劇的要素です。スリリングでシャープで、しかもしなやかで、明るさに満ちて、明日を感じさせるものこそが、文学やスポーツの本質であり共通点のように思われます。だから、話はちょっとそれますが、オリンピックやスポーツゲームでの開会式や入場時の演出やパフォーマンスには首をかしげたくなります。アスリートが日々自分との対話の中で鍛え上げた肉体こそが、詩であり歌であり、筋肉の躍動こそが音楽であり、炸裂する花火だということができます。それなのに、どうして歌手を連れてくる必要があるのか、花火を上げる必要があるのか。花火を花火で、詩を詩で、音楽を音楽で演出する必要がどこにあるのか、私にはよくわかりません。スポーツのすばらしさを演出するためには、160キロの剛速球が、唸りを立てて空気を切り裂く音について知り、それを人に伝えること、あるいは、100メートルを10秒内外で走るアスリートのフォームが、いかに美しいかを感じ、それを人に伝えるだけでいいのだと思います。その部分を正確にていねいに生き生きと伝えられたら、花火や歌手や踊りなどの演出より、はるかに効果的なアピールになるはずです。
独学で編集を学ぶ
――PVも自作されたそうですね。
中川越氏: 書籍『150キロのボールを投げる!速い球を投げるための投球技術とトレーニング法』、書籍『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』、書籍・DVD・CD『手紙遺産』のPVなどを自作し、YouTubeで流しています。もう30年以上フリーとして活動しているので、なんでも自分で作ります。才能貧弱なる者は、なんでもできないと、フリーとしてやっていけないのです。私がプロデュースして作ったスポーツの本は50冊ぐらいになりましたが、最近では本にビデオをつけるというケースも多くなりました。そんなとき、最初はプロの方にビデオ制作をお願いしていたのですが、制作過程において、なかなかこちらの意図が伝わらないということが何度かあり、ビデオの編集を自分で行うようになりました。当初私は、ビデオ、映像というものは極めて客観的な素材として認識していましたが、実は非常に主観的なものだということがわかりました。0.1秒前の場面を入れるか、入れないかにより、伝え得る内容が大きく違ってしまうことがあると知りました。例えばテニスのスイングだったら、スイング前やスイング後の、ほんのわずかな「間」が重要となります。ところが、ここは動いていないわけで、動作を示すために利用するビデオには必要ないと判断され、カットされてしまうと、伝えたいスイング総体のニュアンスが、かなり違ったものになってしまうのです。そういうことがなかなか伝わらなかったので、やはりできるだけそうしたニュアンスも正確に伝え得るものが作りたいと思い、映像編集は全くの素人でしたが、自分でやってみることにしたのです。
――独学だったのですか?
中川越氏: そうです。訳が分からないまま、ビデオ編集ソフトを買い込んで、まずはビデオクリップの作り方から覚え、自分が切りたい所で切り、次にスローモーションのかけ方を覚え、スローの程度も調整し、途中でストップモーションを入れたり、矢印や文字のテロップを入れたり、やがては音声合成ソフトも駆使して、自分で考えたナレーション原稿を音声化し、映像に合わせて音声ラインを載せ、ほぼイメージ通りの完成形を作り、それをもとにプロの編集の方に、正式にスタジオ編集してもらうようにしました。
――お父様はデザイナーだったとお聞きしましたが、どのようなお仕事をされていたのでしょうか?
中川越氏: 読売広告社の初代のデザイナーでした。もともとは尋常高等小学校を卒業して、すぐにエッチングによる地図製作の工房に丁稚奉公として入り、次に村松時計という時計の製作会社に職人として勤めるなどしました。その後、絵が好きだったこともあって、インパール作戦の生き残りとして戦争から帰り読売広告社に入ってデザインの方へ進み、今の実業之日本社で、挿絵描きも兼業していました。昔のデザイナーは、レタリングや文字などなんでもオリジナルで作っていて、折しもテレビ草創期で、テレビ番組の手書きのタイトルなども描いていたようです。勘亭流などといった芝居文字はもとより、ルーペや烏口を使い、細かい文字も、明朝、ゴシックにかき分けたりしていました。非常に手先が器用な人で、片手で折り紙の鶴を折ることもできました。
本の世界に答えを求めるようになった
――本は昔からお好きだったのですか?
中川越氏: 私は高校2年の夏までは、本は2冊しか読んだことがありませんでした。夏休みの読書感想文のために読んだ、児童版の『宮本武蔵』とH・Gウェルズの『タイムマシン』だけは面白かったという記憶があります。小さい頃は虫採りに夢中でした。金田正一や沢村栄治に憧れて、大リーガーになることを夢見ていたぐらいでしたので、読書の時間は大嫌いでした。しかし、中学に入ってすぐに腰を悪くしてから、バスケットボールに転向し、それからというものは、毎日誰よりも多く、シュート練習に励みました。兄の影響でした。兄は今の筑波大学の前身の東京教育大学で籠球部(バスケットボール部)の部長として活躍し、その後都立高校の教師になってからもずっとバスケットボールに関わっていたからです。
そんな私が、本を読むようになったきっかけは、父だったような気がします。父は、少年少女世界文学全集を買い込んで、毎朝会社に行く前の10分間ほど朗読してくれました。『ピノキオ』がとても印象的で、ピノキオがゼベット爺さんと再会する場面の感動は、今でもよく覚えていて、うれしくなって思わず父親に飛びついてしまったほどです。朗読の時間は、とても充実したものでした。
――スポーツから文学へと方向が変わったのは、いつ頃だったのでしょうか?
中川越氏: 青春の入り口にさしかかると、受験や日常的な生活の中で、内省的に「この問題はどう考えたらいいんだろう」と思い悩む場面も多くなりました。失恋すると、「どうして想いが伝わらないのか」とか、自分の存在や人生について誰でも考えるわけですが、そういった時期には死生観というか、生きるとか死ぬといった問題も、理解し得ない大きな問題として出てきました。しかし、そういう問題については、友達や親や近所の人にはなかなか聞けないし、たとえ話したとしても、「どうやったら恋愛や処世が上手くいくのか」という方法論に終始してしまい、本質的な意味合いについて深く理解するための助けには、なかなかなりませんでした。それで、次第に本の世界の中でその答えを求めるようになっていったのだと思います。18歳の夏のことでした。
自分自身が文学になること
――どのような本を読まれていたのでしょうか?
中川越氏: 国内外の作家の人生論、古典的な哲学書、国内外の現代文学、近代文学など、手あたりしだいに訳も分からず読み漁った時期もありました。トイレではこれを、風呂場ではこれ、寝るまではこれ、寝る前はこれ、出かけるときはこれを読むといった感じで、5冊、6冊ぐらい並行して読んでいることもありました。本が面白くてしょうがなかった時期で、文学だけではなく、ジャーナリスティックなものにも関心を持ちました。しかし本を読むうちに、知識も大事だけれど、その本を読んで得たもので、何をどう考えていくかということの方が大事だということに気がつき、読書のために生活があるのではなく、生活のために読書があるのだと考えるようになりました。私の場合は、読書と生活の間を行き来しながら、生活を楽しく豊かにするための世界観を得るための素材として読書を利用しているのだと思います。だから、方法序説もバスケットボール入門も、生活を楽しく豊かにするための素材として、同一平面上にあり、どちらが高尚かということなど、まったくありません。そうした読書経験を積むうちに、私も私の好きな作家のように、「気持ちが豊かになる文が書けるようになったらいいな」と心底思いましたが、文学を書くということはそれほど重要なことではなく、私が文学になることのほうが重要だと思いました。
――ご自身が文学になるというのは?
中川越氏: 口幅ったい言い方で恐縮ですが、私の考える優れた文学とは、のっぴきならない状況の中で、他者への説得性を十分に持つ、精一杯の生き方をひたむきに貫いた主人公、もしくは登場人物によって成立するものです。他者への説得性は、いうまでもなく読者の共感を呼び、精一杯なひたむきさは、すがすがしい透明感と豊かな希望を醸し出します。だから私が好きな文学は、登場人物の奇妙さや筋書きのサプライズによって人を脅かすものではありません。その作品の登場人物が持っている世界観に浸るというか、彼らと時間を共にすることに、大きな喜びや満足が得られるものです。結末は知りたいけれど、終わらないでほしいと感じさせることができるのが、一番いい文学ではないかと思います。そうすると、自分の本当の願いというものは、本を読むことにあるのではなく、むしろ本の中で表現された、見事な生き方をした人物、あるいは、見事ではなくみすぼらしいかもしれないけれど美しく生きた人たち、そうした人たちに近づくことだと思ったのです。つまり、それが私が言うところの、文学になるという意味です。
専門家として手紙の本を書く
――昔から文章を書くのは得意だったのでしょうか?
中川越氏: 子供のころは読書が嫌いで勉強も好きではありませんでしたが、作文を褒められることはありました。五歳年上の怖い兄の革の野球のグラブを黙って借りて使った時、突然雨が降ってきたので、土砂降りの中、自転車の荷台にゴムバンドでグラブをしっかりくくりつけ、一目散に家路を急ぎ、家にたどり着いて荷台を見ると、兄の大事なグラブがありません。日も暮れて暗い中、もう一度自転車で戻り、雨の中を探し回ってようやく見つかったグラブは、ずぶ濡れで水を吸って重たくなっていました。きっと殴られると思いながら重い足取りでペダルをこぎ、家の近くまでたどり着いたとき、待ち構える傘をさした一つの影が。兄でした。……そんな作文を書いて、学校代表に選ばれたことがありましたが、自分が書くことが好きだとか、得意だとか思ったことは、ありませんでした。そんなことよりも、投げるボールが速いといわれることのほうが、子供の頃の私には、はるかに嬉しいことだったのです。
――手紙の文例集などの執筆のきっかけとは?
中川越氏: スポーツやレジャーの入門書や一般実用書を多く手掛けていた編集プロダクションに関わって仕事をするようになったとき、スポーツの本だけでなく、スピーチや手紙の例文集の編集を手伝いました。そして、スピーチのプロはいても、スピーチ原稿のプロというものはおらず、手紙の名手はいても、手紙のプロというものは、いないことを知りました。特に手紙についていうと、私が手紙の指導書に関わり始めた、今から三十年近く前、手紙の指導書は、新聞記者や雑誌・書籍の編集者、ビジネス界の社員教育の専門家、国語関係の教育者、あるいは作家などによって書かれていました。今でもそういうケースは多いはずです。しかし、手紙だけを専門にしているプロというものは、なかなかおられません。したがって、何もライセンスがなく、報道、文学、教育にも、仕事としてキャリアを積んで来たわけでもない私ですが、手紙というものをより深く勉強すれば、これまでのものより、よりよい指導書を構成することは、可能ではないかと思うようになりました。
――当時手紙の指導書は、形式について書かれた本が多かったのでしょうか?
中川越氏: 平安の昔から、往来物と呼ばれる手紙の書き方の指導書や文例集が数多く出版され、現在に至ります。私は手元に明治期から大正、昭和前期、中期、後期の手紙の指導書と文例集を数十冊取りそろえていますが、それらによって各時代の人々が何を学んだかというと、簡単にいってしまうと、各テーマ別の形式です。お祝いのあいさつは、何から始め、どんな内容を書き、どう締めくくるか。お見舞いの場合は、お悔やみのときはなど、生活の中で必要とされるあらゆる手紙の形式と内容構成について、例文を紹介しながら、そのオーソドックスな規範を示します。大昔は拝啓ではなく恐惶謹言で始め、敬具ではなくやはり恐惶謹言で締めくくったり、時候の挨拶はなかったりなど、時代によって形式も用語も様々変化してきましたが、明治以降の資料を見ると、候文から口語文への移行という大きな変化はあったものの、その形式においては、ほとんど今と変わっていないようです。そもそも、慣用語というものは、何が正しいということはなく、その時代の多数決によって正用、誤用が決まるものですから、なぜ拝啓がいいのか、謹啓ではいけないのか、などという議論は不毛であり、敬意の程度によって、拝啓と謹啓を使い分けるという現代の習慣だけを知っていればそれでいいわけですが、私は手紙の慣用句や形式の時代的な変遷やルーツを知ることにより、単なる記号としての手紙用語ではなく、より気持ちのこもった、相手の心を動かす手紙を書くための用語の利用や形式の選択ができるようになればと考えました。つまり手紙の指導書で学ぶ読者の気持ちを考えたとき、用語や形式を知るために読むわけですが、それはあくまでもメーンテーマの補助でしかなく、メーンテーマは、「心が心を押す」手紙の書き方を、知りたいと思っているのだということに気がつきました。その需要を満たすことができたとき、初めて「真の実用書」ということができるのだと思いました。
漱石の知性、品格、ユーモアそのものが洒落ている
――それが近代文学の文豪たちの書簡を研究されるきっかけとなったのですね。文豪たちの書簡にはどのようなことが書かれているのでしょうか?
中川越氏: 近代文学の文豪たちの生活書簡は、手紙の書き方の学びの宝庫といえます。日常生活での各種テーマの手紙のおける用語、形式、内容構成などの生き生きとした実例を、確認することができます。そして何よりも、「心が心を動かす」手紙についての多くの示唆が含まれています。夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、島崎藤村、志賀直哉、武者小路実篤、石川啄木、有島武郎、谷崎潤一郎、立原道造、佐藤春夫、山頭火、中原中也などなど、彼らの作品がユニークであるのと同様に、彼らの生活手紙文も斬新でユニークでバリエーション豊かですが、共通した一点があります。それは、「まごころ」という言葉に集約することができます。彼らがそのまごころを手紙に盛るために、どのような手法を取ったかということを、それぞれの手紙の背後にある人間関係やそのときの状況を紹介しながら解説したのが、『文豪たちの手紙の奥義』(新潮文庫)でした。そして、とりわけそのまごころが、残された書簡の多くに強く鮮明に感じられたのが夏目漱石の手紙だったので、私はいつか夏目漱石の書簡だけで、生活手紙文の指導書ができないものかと考え、20年間企画を温め、3年ほど時間をかけて、現存する漱石書簡2500通余りに目を通し、エクセルを使って、年代別、宛先別、テーマ別、内容別、面白さ別などに分類整理、評価し、また、キーワードをピックアップして、キーワード検索もできるようにして、あらゆる角度から検索可能なデータベースを作り、それを資料として書き上げたのが、『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』(マガジンハウス)でした。
この人の書簡はこれまでいろいろな人が紹介していますが、生活手紙文という視点から紹介したものはありませんでした。
――今年の3月に出版された『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』は、どういった経緯で本になったのでしょうか?
中川越氏: 実はすでに2年ほど前に、原稿はすべて書き上げていて、それをどんな出版社から出そうかと考えていた時に、ある手紙のことを思い出しました。以前マガジンハウスで「ちゃんとした手紙とはがきが書ける本」というムックのお手伝いをしたことがあり、その担当だった方から送られてきた手紙でした。新装版の同書ができたのでお送りしますという実務的な内容でしたが、非常に優しい人柄とまごころが感じられる趣のある手紙でした。「この人だったら分かってもらえるかもしれない。若い人に伝えるためにはマガジンハウスがいい」と思いました。マガジンハウスには、「おしゃれ」というのが1つの大きなテーマとしてありますよね。私にとっては、漱石の知性、品格、ユーモアそのものが最高におしゃれで、100年前のものでありながら、決して古びないものだということを、今の世の中に伝えたかったのです。
会うことによって、お互いが階段を駆け上がる
――編集者と書き手の両方の経験をお持ちの中川さんは、編集者の役割とはどのようなものだとお考えでしょうか?
中川越氏: 書き手の立場としては、たくさんの時間をとって会ってくれる人がいいなと思います。今はメール1本で仕事を依頼したり、ウェブ上で打ち合わせをして、構成を練ったりすることもあります。そうした方法でも仕事はある程度成立するので、お互いに移動時間をとらなくていいから合理的ですよね。しかし、よりよい仕事を両者で作り上げていくためには、直接会って、顔と顔を突き合わせ、ときには一升瓶を空にしながら、仕事のことも、仕事とは関係ないことも話し合い、互いをよく知り、それを前提に相手の意向を斟酌したり、魅力をさらに引き出したりしながら、共同作業で漠としたイメージを少しずつ形にしてくプロセスが、非常に重要だと思います。だから、そういう時間を贅沢に使ってくれる人、私が編集者のときは、そういう著者、著者のときは、そういう編集者と仕事をするのが楽しみです。本は著者が名前を出しますが、実は本は編集者のもの、という言い方もできると思います。舞台に登場する役者や歌手はもちろんある種の才能を持っていますが、舞台や会場の雰囲気を作ったり、照明や音響を整えたり、興業全体をプロデュースするのは舞台小屋の小家主の役割です。小屋主とは、本でいえば編集者。役者や歌手やタレントや著者は、欠かすことのできない要素であっても、あくまでも素材の一つという言い方も可能です。その素材のよさをどう引き出し、どう観客や読者に見せていくかという工夫があってこそ、初めてその素材が輝きを発揮するのだと思います。
――電子書籍における編集者の役割とは? また、今の出版業界は、中川さんの目にはどのように映っているのでしょうか?
中川越氏: もちろん電子出版においても、編集者の役割は重要で、紙の出版の場合と、本質的にはまったく変わらないと思います。やはり著者と深くコミットして、互いをよく知り、互いの魅力を尊敬し合えるようにならなくはいいけないと思います。そのためには、時間も必要でしょう。しかし、今はある種の予定調和の中で、紙の出版も電子出版も、生産サイクル、あるいはヒット商品づくりのシステムが、この二、三十年間に、かなり確立されてきたような気がします。その生産サイクル、ヒット商品づくりのシステムの中に、ある程度の素材をポンと置くと、ある程度の販売が見込める。経営の安定化のためには、当然の流れとは思いますが、そうした予定調和を追及していくと、サイクルやシステムに適合させることだけが編集者の役割となり、中身の質を高めることは、二の次になってしまうということが起こりやしまいかと心配になります。私は編集者の立場である本を発注されてから、三年かがりで作ったことが何度かあります。さぼっていたわけではなく、いろいろ準備を進めていくうちに、月日はあっという間に過ぎていき、著者先生のおられた大学に何度も打ち合わせのために通っているうちに、大学の隣りの大きな敷地で大工事が始まり、その本の完成を見る前に建設工事がすべて終わり、巨大なイオンモールが完成してしまいました。そうした本は、七、八年前に作りましたが、今も着実に版を重ねています。とはいえ、今そうした悠長な本づくりが可能かといえば、すでに不可能となっています。これはかなり極端な例ですが、紙媒体の出版でも、ゆったりとした本づくりはできなくなっているので、制作においても生産効率のいい電子書籍においては、ますます安定的な生産性が重視され、編集者の最も重要な役割が、生産ラインを滞らせないようにすることになってしまうのかもしれません。そこが懸念されるところです。
朗読付きの電子書籍
――ご自身でも本を作ったり、販売されたりしているそうですね。電子書籍なども作られているのでしょうか?
中川越氏: 文化は出版文化も含めて、質が高まっていくことは重要だと思いますが、ある一部の勢力に独占されるのはよくないと思います。ものの見方や感受性の多様化が、制限されてしまうことになるからです。私は多くの人々が電子書籍によって、様々な価値を発信することに大賛成です。ですから自分で電子書籍を作りました。以前出した本をリニューアルして電子化したのですが、朗読付きのものにしました。ナレーションは音声合成ソフトを使いました。書籍も自分で印刷し、製本器まで自作して製本し、販売しています。生産手段を取得することによって、10000部売らなくてはペイしなかった本が、1000部でペイするようになることがあるのです。100万部売れる本も大切かもしれません。けれど、1000部しか売れない本も大切です。1000部も売れるということは、本当は大したことなのに、今のシステムの中では、重要視されないのはよくないことです。
――朗読を付けたのは、どういった理由からだったのでしょうか?
中川越氏: Kindleなど最近のツールは見やすくはなってきていますが、年をとると発光体をずっと見ているのはつらいのです。私は父から本の朗読をしてもらったという体験もありますし、朗読の世界も確かに魅力的だと思います。今、読み聞かせの図書館運動もありますが、これからは、中高年層が朗読ものを求め、音だけでなく文字も見ることのできる電子媒体が、有用性を高めていくに違いありません。先日も図書館のカウンターで、八十歳ぐらいの方が司書に、「この本の朗読はないでしょうか」と、分厚い小説を掲げて尋ねていました。必ずしも本ではなくてもいいという場合は、音声だけのCDを聴いて、車で文学を楽しむ方法もいいかもしれません。スピードラーニングではありませんが、実用書的な分野でも有効性は高いと思います。私の本に関しても何冊か、図書館で点字にしたり、音声化するための許諾を求められたことがありました。
――なぜ音声合成ソフトを使われたのでしょうか?
中川越氏: 声の質に個性があり過ぎるとイメージが変わってしまう場合もあるので、あまり声の個性が際立たない音声合成ソフトを使ってみました。原稿用紙10枚位のものを、ソフトの変換のボックスに入れると、あっという間に音声(データ)に変えてくれます。ナレーションをプロにお願いして本1冊を作るとなれば、すごく時間も費用もかかってしまいます。用途に応じて技術をフル活用すればいいのだと私は思います。私にとっては、紙の本と電子書籍の両方が必要です。そして、紙の本は、昔の本のように、製本技術者の確かな技術によって生まれた工芸品のような本が、すばらしいと思います。日本近代文学館が三十年ほど前に、近代文学の名著の復刻版を盛んに出版し、私の手元にも何十冊かありますが、当時の初版のまま再現され、製本の重厚感は、まさに圧倒的です。本を愛した人たちによって作られた本だということが、直に伝わってきます。電子媒体とともに、紙媒体の出版も、棲み分けとして重要で、紙媒体は合理性を追求するのではなく、クオリティーの追求を第一義として考える部分も、ぜひ残していってほしいと思います。
――電子書籍でチャレンジしてみたいことはありますか?
中川越氏: 電子書籍は基本的に文字中心ですが、私はページをめくると、そこに書かれている文章が、自然に音声として流れるといったような朗読機能を持った媒体の開発をしました。朗読されていく部分が、次々に色が変わったりして、どこを読んでいるかもわかるようにするのです。既成のソフトを組み合わせて、実験段階で成功しました。けれど、商品として安定化させることは私にはできません。電子絵本では、この機能を備えたものもあるようですが、これが一般化すれば、図書館で分厚い本を読むのが辛い、朗読してくれるものはないかと尋ねていた方も、きっと喜んで買い求めるはずです。
ゼネラリストであれ
――表現者として、どのようなことを伝えたいと思っていますか?
中川越氏: 自戒を込めていえば、心のゆとりが必要だと思います。ゆったりとした時間を楽しむ余裕、急行電車に乗らない勇気、といってもいいかもしれません。漱石の手紙に、こんな一節があります。「君は今、雲を見て暮らしているだろう」。これは「君はそういうゆとりの中で、豊かに時を過ごしているに違いない、そうあってほしい」というメッセージだと思います。今から千、二、三百年前に成立した万葉集は、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めた歌集、詩の本です。さまざまな階層の人々が、同列に並んでいます。その芸術的価値や美しさにおいて同等であり、その価値こそが、身分を超えて重要だとする世界観が貫かれています。また、日本の異称は、「言霊のさきわう国」ともいいます。言葉が人を幸せにする国、という意味です。日本は千年も昔から、そういう感受性を重要視した国だったのです。権力、お金、経済が優先されることによって、日本は発展してきたのではないと考えます。心のゆとりを持ち、ゆったりとした時間を大切にし、花鳥風月に胸ときめかせ、毎日がみずみずしく豊かで、あたたかな心もちになれる瞬間に満ち溢れていたら、人はもっと生き生きとすることができるのではないでしょうか。そうすれば、未来を信じて、さらに一生懸命働くこともできるようになるのではないでしょうか。経済の根本的な振興策とは、本来そうしたことではないかと考えます。そんな思いを様々な文章の根底に据えて、表現していければよいと思います。
――今の日本に足りないものは?
中川越氏: 若い方々には、「ディズニーランドを楽しむだけの人間で止まらないで、一人一人がウォルト・ディズニーになってほしい」と思います。つまり、自分の楽しみは、自分で発明してほしいのです。そのためには、子供たちや若者には、何もない広場が必要です。遊びを発明したり、けんかをしたり、ルールを決めたりといったプロセスの中で、子供や若者たちは、豊かに成長していくのだと思います。私は何もない広場で遊ぶことがどれだけ面白いのかということを、色々な分野で伝えられればと思います。未来の子どもたちにとって何がプラスになるかという部分は見極めにくいかもしれませんが、投資などといった経済的なものに関しても、そこが視点でないといけないと思います。株価が上がりさえすればいいといったたわいもない児戯に振り回される世界は、もうそろそろなんとかしなければならないのではないでしょうか。経済合理性の中では専門性と稼ぎの大きさがパラレルな関係にあるので、スペシャリストになることが若者の目標になっているけれど、それではつまらないし、人々が専門的なパーツになっていけばいくほど、社会の発展、経済の拡大のためには、実はマイナスになるのだと思います。もちろんどんな職種も高度な専門性が必要とされるわけですが、人間としてはゼネラリストであるべきなのです。
国際ビジネスマンとして長く活躍し、今は私立高校の校長をしている知人が、あるときしみじみといいました。「日本人は海外で尊敬されている。英語力じゃない。自分も下手だ。尊敬される一つの理由は、礼儀正しさだ。日本人に限らず有能な国際ビジネスマンの共通点が、一つだけある。それは、礼儀正しさだ。情緒や感受性や知識、それから礼節を持ち合わせていない限り、英語が話せてもなんの役にも立たない」と。例えば「サッカー選手は政治状況について分からなくてもいいし、世界の貧困について分からなくていいんだ」というゆがんだ部分、欠落した部分が多い、専門性だけが際立った人間は、社会の部分品として、誰かにうまく利用されていくだけになってしまいます。人はあるときは大工さんで、あるときはロックンローラーで、あるときは俳人で、あるときは哲学者で、あるときは豆腐屋さん、といったように、常に多面的であるべきだと思います。もちろんあらゆる方面において、質の高い技術を持つことは不可能ですが、だからといって、いろんな自分でありたいという、自然な欲望を抑える必要はまったくありません。多趣味の重要性を言っているのでなく、専門性だけに特化してくいことの危険を強調したいのです。このような意識がさらに一般化して、人はお金や権力よりも、さまざまな感受性を豊かに持ち、多面的にものを見ることができ、しかも知識を生活を豊かに楽しくするために利用することのできる、そうした人こそが尊敬され、信頼される環境がさらに大きく広がり、心の安定感が増したとき、その環境圧を受けて日本人の優秀な遺伝子は発現し、日本はさらに心も経済も、安定的に豊かになっていくように思われるのですが、いかがなものでしょうか。
その意味において、今こそ漱石のユーモアと生活感、批判精神、あたたかさ、広さ、多面性、そして彼の手紙の美しさが、再顕彰されるべきときだと思い、『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』という本を、世の中に提出させていただきました。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 中川越 』