いつもより少し遠くへ漕ぎ出そう
「少し進めば、新たな世界が広がっている」――自転車の面白さと可能性を伝えるペダルファー代表で作家の米津一成さん。『追い風ライダー』など、自転車を扱った作品で、その魅力を伝えられています。「興味の赴くままに、世界を広げてきた」という米津さんの、新たな挑戦への“ペダルの漕ぎ方”を伺ってきました。
先に進める魅力を届ける
――『追い風ライダー』(スターダイバー)が文庫になりました。
米津一成氏: 初版から約二年。おかげさまで好評を頂き、重版出来を経て徳間書店から文庫になりました。今までの『自転車で遠くへ行きたい。』『ロングライドに出かけよう』(ともに河出書房新社)はエッセイ形式でしたが、『追い風ライダー』は小説形式で執筆するという新たな試みでした。フィクションを織り込むことによって、より自転車の魅力が伝わるものになったと思います。文庫版として新たに表紙イラストを描いてくださったのは漫画家でイラストレーターのウラモトユウコさん。単行本の安倍吉俊さんとはまた趣の違った、可愛らしい新垣沙紀(第五話主人公)が生まれました。さらに、文庫化にあたって短編をひとつ、追加で書き下ろしています。単行本の時に書きたかったけれどうまく書けなかったストーリーに再挑戦したものです。
――様々な形で自転車の魅力を伝えられています。
米津一成氏: 代表を務めるペダルファーには、私の執筆活動のほか自転車関連の事業がいくつかあるのですが、オリジナルデザインのサイクリングジャージや、ジャージのデザインに合わせたビブパンツやウインドブレーカーなども制作し、オンラインストアで販売しています。定期的に新しいデザインのジャージを制作することはもちろん、新たに従来なかったサイクリングアイテム、自転車用品の開発も行っています。
執筆活動では、2014年に福島県いわき市にあるいわき明星大学が教養学部を新設することになり、その特設WEBサイトにスペシャルコンテンツとして、キャンパスを舞台にした小説『きんいろのカタツムリ』を書かせていただきました。
大学関係者の皆さん、そして在校生の皆さんへの取材を通して、どなたもいわきという街が好きで、その未来を真剣に考えていることに心を打たれました。自分たちの街のことを一番よく知っている人、そして自分たちの街が大好きな人。そういう人たちにこの街の未来を託そう。私はこの新設学部はそれを目指したものだと理解しました。『きんいろのカタツムリ』は、そんな皆さんの姿を多くの人に伝えられればと思いながら書いたものです。
――『きんいろのカタツムリ』の世界観、キャラクター設定が元になったCMも制作されています。
米津一成氏: 自分が作ったキャラクターたちがアニメーションになって動き出すというのは私の夢のひとつでしたが、思いがけないカタチでそれが実現しました。CMの企画は東北在住、東北出身のクリエイターの方々の手によるものです。そしてアニメーションの制作はプロダクション I.Gさん。プロダクション I.Gは「攻殻機動隊SACシリーズ」「図書館戦争」「黒子のバスケ」などでアニメファンにはお馴染みです。
私の大好きな作品を沢山手がけているプロダクション I.Gさんが私の創作した物語をアニメ化してくれる―。これには感激しました。自転車に乗ることで物理的に広がる景色はもちろんですが、今はこのように自転車が軸となって色々な仕事に繋がっています。
「面白い」を嗅ぎ分けて
――自転車が軸となって色々な仕事に繋がっています。
米津一成氏: 振り返ってみると、本の執筆など私の今の仕事は、今までの人生が意図せず繋がってきた結果だと思っています。
私が子どもの頃は自転車ブームの全盛期で、もちろん自分も欲しくて仕方がありませんでした。けれども、身近な知り合いに自転車事故で亡くなった方がいたこともあって、しばらくは自転車を買って貰うことはおろか、乗ることも出来ませんでした。ようやく買ってもらい、乗れるようになったのは中学生の頃。ずいぶん遅いデビューでした。
それまでは、自転車でどこかに出掛けることもできないので、家でずっと本を読んでいました。幼稚園から私立に通っていたので、近所の校区内に友達がいなかったのも理由でした。母親は、本に関しては太っ腹で「これが欲しい」と言ったものは制限なく必ず買ってくれていました。当時は、『十五少年漂流記』とか『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいましたね。海外の少年少女ファンタジーものも好きでした。今でも感謝しています。
身体に風を感じて走る二輪車の衝撃を感じたのは、高校生の頃。オートバイ欲しさに学校で禁止されていたアルバイトを親に内緒でしていました。実際、オートバイを買うことができたのはだいぶ後でしたが、アルバイト先にいた同世代のコたちは、今風に言うと「やんちゃ系」なコたち。新鮮に映りましたね。大学時代も、ひたすらアルバイトをしていました。飲食や倉庫の作業などなんでもやりました。大学生活の後半は、広告代理店で企画書を手書きで清書する仕事をしていました。広告賞にも応募したりしました。後に広告業界に進むことになるのですが、コピーライターが職業として注目されていた時代でした。
私の最初のキャリアは、キャラクターの商品開発です。ミスタードーナツのイラストなどで有名な原田治さんの「オサムグッズ」が好きで、新卒でその会社に就職しました。最初の2年はキャラクター商品の商品開発をやりました。文房具全般やバッグ、それから女性もののパンツなども作りましたよ(笑)。業者さんと直接やりとりをした経験は、今のオリジナルのサイクリングジャージづくりに大変役に立っています。その後、大学時代の先輩のご縁から広告会社へ転職しました。その頃、設計会社を経営していた父親から「いつまでも人に使われていてもしょうがねぇだろ」と言われたんです。働くなら自分のしたいことをと思ってはいましたが、その言葉をきっかけに忘れていたものを思い出し、独立へ向けて準備し始めました。
ペダルファーの前身である青竜社を設立したのが、99年。インターネットに軸足を置いた広告代理業です。当時はまだ、ホームページを開設したことが経済欄の記事に載るくらい(笑)。インターネットの黎明期でした。
ウェブサイトを持っている企業も少なく、会社員時代に開拓したお客さんに「サイトを作りましょう。これからはきっとどこの会社も作るはずです」と提案していきました。ある企業の顧客向けのプライベートフォーラム(Nifty-Serve内)の運営に携わるうちにウェブ上にB to Cの時代が来るという直感を持ち、ネットを駆使してコミュニケーションをデザインするという仕事が、だんだん自分の中で明確になっていきました。ネットが無ければ、今とはだいぶ違う人生を歩んでいたと思います。
ペダルで漕ぎ出す新たな世界
米津一成氏: 自転車が人生の軸に入ってきたのは、その頃です。オフィスが表参道の骨董通りにあったのですが、終電を逃すことも多く、自宅から安いマウンテンバイクで通うことにしたのです。少し前にカミさんが疋田智さんの書かれた『自転車通勤で行こう』を読んで、当時勤めていた新宿の会社まで自転車で通いはじめていたのですが、その影響をモロに受けたんです。
夫婦そろって自転車に再び乗り出したので、二人で久しぶりに多摩川サイクリングロードに行ったりもしました。そんな自転車体験がひとつひとつ新鮮で、二人で参加できる自転車のイベントがないかと探していたところ、30キロ程度を走る「東京シティサイクリング」を見つけました。でも、せっかく申し込んだのにその年は台風で中止になってしまったんです。それがものすごくショックで。そこで、代わりに11月に開催される「ツール・ド・おきなわ」の本島一周サイクリングに出場することにしました。距離は約300キロ強。30キロの10倍ですから、いま思うと何を考えていたんだか?と思いますが、勢いだったんでしょうね。実際に走ってから、大変な思いをしました(笑)
――30キロから300キロに……(笑)。
米津一成氏: それまでせいぜい近所を走るぐらいでしたから、本格的なロードバイクも持っていなくて……、自転車屋さんに「来月ツール・ド・おきなわの本島一周を走るのですが、お勧めのものはありますか?」と聞いたら、店員さん、呆れていましたね(笑)。そうやって二十数年振りに、ドロップハンドルに戻りました。「そうそう、こうだったよな」という感覚を思い出しました。
「自転車で行ける場所は近所」という自転車乗りの格言があります。自転車に乗り始めて、まず変わったのは、自分の距離感覚でした。『自転車で遠くへ行きたい。』でも、距離のスケール感が変わるということを書きましたが、100キロだろうと200キロだろうと自転車で行けるところは近所になってしまったんです(笑)。東京から北に300キロだと、ちょうど日本海まで辿り着けます。電車の所用時間は決まっていますが、自転車は自分のスキルや経験、あるいはコントロール次第で、何キロを何分で行くか自分で決められるんです。
そうやって距離感が変わると生活自体が変わりますし、それに伴い考え方も変化していきます。
――「ツール・ド・おきなわ」に出たことが執筆につながります。
米津一成氏: 自転車に乗ってなければ、「ツール・ド・おきなわ」に出ることも無かったでしょうし、本も書いていなかっただろうと思います。自転車は私の人生を変えるきっかけとなりました。ツール・ド・おきなわには、都合5回参加しました。前半は本島一周サイクリング、後半は市民レースを走りました。あるときカミさんが、本島一周サイクリングのことを当時のmixiに書き込んだのです。それを見た河出書房新社の編集者の方が、「今までにないテーマだ。面白いので本にしましょう」と声をかけてくれました。
新たなジャンルを発掘する 著者をサポートする存在
米津一成氏: 実はカミさんは出版プロデューサー兼編集者です。だから最初に河出書房新社の方から話があったときは、私はどちらかというと「協力する」という立ち位置だったんです。カミさんがきっと書くなり、著者を探すなりするだろうなと。ところが、「あなたが書いてね」とカミさんに言われて、書くことになってしまいました。『自転車で遠くへ行きたい。』は、おかげさまで七刷になりました。文庫化の話も出て、すぐに続編といった話になりました。
――奥様の後押しもあったんですね。
米津一成氏: 最初は無茶ぶりをされた気がして驚きましたね(笑)。私はそれまで本の世界の人間ではないので、「文章表現においてこれは守った方がいい」ということなど、ベーシックなことが全然分からない。だから身近に編集者がいなかったら精度は如実に落ちていたと思います。「本」は、そうした編集・校閲をしてくれる編集者と、著者と世の中をつなぐマネジメントができる存在がいて、はじめて作られると思います。
書き手として自分がひとつの例だと思うのですが、「小説は何年も読んでないけど、自転車の小説だから読んだよ」というメールをよくいただきます。そういう特殊な分野を持った人が小説を書くといいなということを、自分が小説を書いたことによって、非常に強く感じました。元々の作家が小説を書くのではなく、自分の得意分野を活かして非作家が小説を書くというイメージです。
例えば「弓道」は、すでにSNSなどで1万人規模のコミュニティが存在するのに、月刊誌がないんです。弓道小説が出たら、パイは大きくないかもしれないけれど、確実に万を越す読者はいると思います。そういった特定のジャンルに強くて面白いものを書ける人が、マネジメントを介して、自分に合った編集者に出会えれば、あらたな本が生まれます。既存のジャンルやカテゴリーだけでは、発展しません。本という形にして、世の中にさまざまな彩りを与えてくれる。色んな種類の本が増えるというのは、業界だけでなく豊かな社会にとって、とても大事なことだと思います。
その中で電子書籍は、業界を活性化する新たなツールとなり得ると思います。
いつもより少し遠くへこぎ出そう
――米津さんのハンドルは今、どこに向いていますか。
米津一成氏: 今まで私の人生は、大きく舵を切るというよりは、少しずつ興味のある方へ進んできたと思います。そのときは意識していなかった経験が、点と点が結ばれたように繋がっていきました。これからも「ちょっと遠く」の方向に、新たな挑戦をし続けたいと思っています。
まだ著されていない世界を書きたいと思っています。そもそもハウツーの本はたくさんあるけれど、「自転車はとにかく楽しいよ。特にロングライドは最高だよ」と伝える本が殆どないことに気付いたのが、執筆のスタートでした。乗り方の話ではなくて、もう少し手前の話をしないと乗る人は増えない。自転車の楽しさ自体を伝えたいという思いが強いのです。
「あなたの本を読んで自転車に乗り始めた」とか「あなたの本を読んでロングライドに行きたくなった」と言われるのが一番うれしいです。「小説はイマイチだったけど、なんだか自転車に乗りたくなった」でも全然構いません(笑)。良い自転車でちょっと遠出をするようになると、生活も考え方も変わる。そうすると人生観も変わる。これからもそういうきっかけを作りたいと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 米津一成 』