大切なのは「面白い」こと
千葉県立千葉東高等学校在学中に自主制作アニメ『スタージャッジ』を制作。高校卒業後に松田一輝に師事した後、『月刊少年チャンピオン』1983年11月号掲載の『魔夏の戦士』でデビュー。85年に学習研究社の『SFアニメディア』創刊号で『マップス』を発表。ほか、主な作品として『轟世剣ダイ・ソード』『機動戦士クロスボーン・ガンダム』『超獣機神ダンクーガBURN』などの漫画作品などがあります。東映特撮作品のSF考証本『すごい科学で守ります!』、そして『クロノアイズ』では星雲賞を獲得。また、SF評論家として空想科学にも詳しく、「TVチャンピオン」の「悪役怪獣・怪人王選手権」でも優勝されました。長谷川裕一さんに、魅力的な漫画を数々生み出す秘訣や、電子書籍と漫画の関係性を伺いました。
漫画を書くことは、マラソンのようなもの
――今日はお仕事場にお邪魔していますが、どのような感じで描かれていますか。
長谷川裕一氏: 休んでいても、頭の中は次のストーリーや題材を探していたりはしますが、ある程度、意識的に切り替えるようにしています。本格的にダウンする前に休まないといけません。若い頃は、体力の限界が分からなくて、短距離走のつもりで走っていましたが、漫画はマラソンのような長距離走のような側面があるので、給水所で水をとりながらペースを作るように、自分のペースを調整しています。
――給水した後に、「さあ走るぞ」と集中力を高めるタイミング、あるいは秘訣は。
長谷川裕一氏: 連載が多い時と少ない時では少し違いますが、一番いいのは、毛色の違う連載を2本やることですね。固いのと柔らかいのを同時にやると、それぞれの連載が息抜きになるのです。柔らかいのばかりでも煮詰まってしまいますし、面白いことを考え続けるのも苦痛になったりもしますので、ある瞬間に、シリアスな方へ脳が切り替わるということもあります。
反対にシリアスな漫画ばかりでも煮詰まりますから、毛色が違うのが2本あるのが長距離走的には一番楽ですね。とはいえ、そこは仕事ですから、なかなかこちらの狙った通りに連載の仕事はきません。今はハードな連載1本なので、終わるとかなりグッタリします。でも、慣れてくるとパターンも出来てきます。
師匠には「描きだし始めるとすごい勢いで消費するから、色々なものを読んだり見たり聞いたりして、デビュー前に、なるべく溜め込んでおけ」と言われていました。そういう蓄積が、作品を吐き出すことの素になるのです。
――漫画を描くにも、やはりインプットが重要になってくるということですが、本や漫画を初めて読まれたのは、いつ頃だったのでしょうか。
長谷川裕一氏: 小さな頃は体が弱くて、空想好きで、本が好きで、赤毛のアンのような少年だったんじゃないかと思います(笑)。生後10か月で、少し顔に火傷を負ったんです。その関係で、1年近く病院にいたそうで、動けない分、聞いていたので、言葉を話すのと、字を読むのはすごく早かったそうです。自分ではよく覚えていないのですが、本は、幼稚園生ぐらいの頃から読んでいたと聞きました。漫画に関しては、親が買ってきてくれるものもありました。当時、流行っていた『ゲゲゲの鬼太郎』と『天才バカボン』は大好きでしたね。
――その頃から、漫画を描いたりしていたのですか?
長谷川裕一氏: 小学校1、2年生の頃に、『ゲゲゲの鬼太郎』をダイジェストで作り直すという遊びをしていました。自分の中で、一番重要と思う部分だけを直感で分けて、短く編集しながらストーリーを写していきました。エディターみたいなノリですよね(笑)。
幼稚園の卒業文集にも「漫画家になる」と書いていたので、その頃から漫画家になる気はあったと思います。子供的には絵がうまいのが自分の特技だと思っていたので、それが生かせる方へ進んでいったんだと思います。親からは、違う世界を見て違う道を選んだならそれも良し、という感じで、「1回やめたらどう?」とは言われましたが、基本的には反対はされませんでしたね。自分でも少し漫画から距離をおいてみたこともありますが、根が漫画や本が好きだから、全く摂取しないでは生きていられないといった部分もありました。小学校の図書室に、『少年少女世界SF文学全集』があって、全巻読破する頃には、すっかりSFファンになっていました。
――高校時代には自主制作のアニメを制作されていますね。
長谷川裕一氏: 当時はアニメブームで、色々な学校の文化祭で漫研がアニメを作ったりしていました。家に8ミリ映写機があってコマ撮りができたので、それならアニメを作れるなと思いました。何も知らないというのは怖いことですね。1本のアニメを作る、3500枚の絵を描くのがどれだけ大変か知らない状態で始めましたが、なんとか最後までやることができました。実際の完成は高校卒業後になってしまい、僕はすでに漫画家のアシスタントに行き始めていたので、文化祭の発表会には出られなかったんです。後輩から、評判が良かったと聞いてホッとしました。
スランプから抜け出すカギは、続けること
――デビューのきっかけは。
長谷川裕一氏: 僕の師匠は松田一輝先生です。硬派な漫画を描く人ですが、人柄はおおらかで、違うジャンルだからといって排除せず、僕がSF好きなら、作品の中で生かせる方法を考えるような人でした。硬派漫画の中に超能力者の敵を出して、「お前こういう背景は得意だろう」という具合に、僕に手伝わせてくれたのです。そうやってアシスタントをしながら思いつく限りのネーム作って、師匠に見てもらっていました。アニメがブームだったので演出家もいいかなと思ったこともありましたが、師匠から「自分でストーリーを作るんだったら、漫画の方がいいぞ」と言われたこともあって、最終的に漫画の道を選ぶことにしました。ある時、師匠の目から見て一定のレベルには達していたのか、「編集部を紹介するから」と言って、『月刊少年チャンピオン』を紹介して頂いて、そこでデビューさせてもらいました。
――デビュー作『魔夏の戦士』ですね。
長谷川裕一氏: 掲載はうれしかったですが、新人賞などと違って載るのは知っていましたし、それこそ、「まだ1回載っただけだから」という気持ちもありました。だって、デビューした作家の半分ぐらいは、1年ぐらいでいなくなっちゃうんですから。さらに連載が続く人は一握り。最終的に生き延びて10年、20年と漫画家をやる気なら、デビューというのは、ひよこが卵の殻を破ってようやく出てきたようなもの。その後、ちゃんと餌を食べて生きていかなければならないわけで、うかうかはしていられないのです。ひよこも卵を割るのは、生死がかかっているから大変だし、デビューはデビューで大変。まずは、そこで出てこられるかどうかが人生の分岐点なのです。でも、その分岐点から、気が付けば僕も30年です。やっぱりマラソンですから、どこにゴールがあるのかも分かりませんが、ずっと走り続けています。
――スランプに陥ったりすることはあるのでしょうか。
長谷川裕一氏: ポッと連載がなくなってしまった時には、途方には暮れたりもします。『マップス』という漫画の長期連載が終わった後は、さすがに全部出し尽くした感じがあって、「この先、もう1回、同じぐらい長い連載ができるのかな」と思いました。次の連載をもらっても、なんとなく前に描いた作品に似てしまったりもしました。でも、ある程度続けていると、違うものが出てくる。人間はずっと同じではいられないらしく、続けていると少しずつ違う考えが出てくるのです。無理に走り続けようと思って走っていたわけではありませんが、描き続けていると、自然に変わっていくものなのです。
――続けることがスランプから抜け出すカギになる。
長谷川裕一氏: そうですね。最近読んだ『花もて語れ』という漫画で、朗読家の少女がスランプに陥った時に、ブルブル震えながら舞台に立って朗読を続けるシーンがあったんです。「これしかない」と知っている人だなと思いましたね。その漫画を読んで、「同じような苦労をしたことがあるのかな」と思いました。考えるのではなく、続けるしかない。そうすると突然スランプから抜け出すことができるのです。
――ご自身の作品で大切にされていることとは。
長谷川裕一氏: 僕の作品の中で最優先していることは、「常に面白くありたい」ということです。テーマ性はあった方がいいだろうし、キャラクターも可愛くなければいけないだろうし、社会批判もあった方がいいんだろうけど、自分が軸足を置いているのは、まず「面白い」こと。子どもの頃って、立場も力も弱いじゃないですか。そういう時に面白い作品から力をもらっていたという漠然とした記憶があるので、そっちの方に中心を置いて、構築しようかなという思いもあるのです。子どもの時に自分が感動を受けたから、それを今度は読者に還そうと思っているのです。