童話のような、大人の読み物『ビビ』
――ブルーベリー農園の本も書かれていますね。
田川一郎氏: 猫の絵本『ビビ』です。僕のブルーベリー農園の近くに大工さんの作業場がありました。その大工さんが猫を飼っていましたが、突然死んでしまうのです。エサをもらえなくなった猫は、大工さんのお部屋で寝泊まりしながら、農園に遊びに来始めました。僕が農園で乾燥フードなどをあげているうちに、だんだん仲良くなって、家にも遊びに来るようになりました。家に入って僕と生活するようになって、ものすごく仲良くなりました。僕が畑に行くとついて来て、年中一緒にいました。
ある時、僕は取材の仕事で、3ヶ月間田布施に行けないという状況になり、あまりにもかわいそうなので、僕は東京に連れてこようと思って、キャリーバッグに入れて駅までタクシーで連れて行きました。そこで、悲しい事件が起こるのです。悲しみを物語として残しておこうと思って書きました。フィクションは1行もありません。童話のような、大人の読み物という感じだと思います。
――確かに切ないお話ですね。
田川一郎氏: 友人の編集者が「絵本というのは子どもに夢を与えなければいけない。最後が悲しい話になっているので、ウチでは出版できない」と言われたので、最初に考えたように、自費出版することにしました。僕は最初は「3000冊刷る」と言ったのですが、「プロでも3000冊なのに、3000冊も刷って売れるわけがありません」と編集を担当してくれた人に言われて、結局、2000冊になりました。ところがあっという間に売れて、3000冊、増刷。すると、ポプラ社から「うちでやりませんか?」という話がきて、3500冊、刷ってくれました。
まだ楽天やAmazonでも売っています。3000冊増刷したのは、協力者がいたとことも大きかったと思います。ダスキンではモップや足ふきを、1か月に1回交換する時に、『喜びのタネまき新聞』という冊子を配布するそうなのですが、そこで『ビビ』が紹介されたのです。人にも読んでもらいたいと思って書くのだから、書いた本人が、「読んでください」「人に知らせてください」というのが、一番迫力が伝わるような気がします。本でも電子書籍のような新たな端末でも、そういうパワーがなければ、売れないのではないかと思いますよ。
――新たなメディアとして電子書籍についてはどのように感じますか。
田川一郎氏: ベルが電話を発明した時と同じ。「こんなものがあると、人が会わなくなる」と言って、みんな大反対したそうです。ところが今は、人が会うために電話を使っています。テレビの時もそうで先ほどお話ししたように、最初はそんなものでした。多くの人は既存の価値観という尺度でしかモノを見る事ができません。「紙で読みたいとか、縦書きに」というのは既存の価値観であり癖です。出版も電子のほうが便利だし、そういう風になっていくと思います。新聞の部数も、ものすごく減っていますよね。今は、ネットも混然としていて、いい情報も悪い情報も区別なく存在しているけれど、もう少し整理されて、ネットの情報がリーディングメディアになっていくのは当然のことだと僕は思います。
――読み手としてはいかがですか。
田川一郎氏: 中学生の頃、夏目漱石の『吾輩は猫である』という本を読んだことが、人生の1つの転機になったように思います。主人公の猫が人間の行動を見ていました。僕は「こういうものの見方があるのか」と愉快で面白かったです。「人生って楽しくやらなきゃ意味がないんだ」と思い始めたのです。「楽しく過ごそう」という生き方が、『吾輩は猫である』を読んでから形成されたような気がします。
苦しいことも楽しく語れば苦しくないと思うのです。途上国へ行くと、水やお湯が出ないのは日常茶飯事です。蚊やゴキブリはいる、食べ物は固くて食えないという状況を、黒柳さんは僕たちに面白く語ってくれます。昨日ゴキブリをどうやって取ったとか(笑)。大女優さんだと「お湯も出ないの?私、帰る」と言って怒るところを、面白がるのです。
それからTBS報道闘争で、激しく組合運動をやって経営陣ともめて退社した優秀なディレクターの、秋元晴彦氏、村木良彦氏、今野勉氏の3人が書いた『お前はただの現在にすぎない』というテレビにかかわる本があります。テレビで今から何ができるかというのを一生懸命模索していて、僕も影響を受けました。彼らは「テレビは今を切り取るものだ」「ドキュメンタリーは、時間と時間をつないで1個の作品を作るが、テレビの基本は今の連続性である」というようなことを言っている、衝撃的な本でした。これは、1969年に初版が出てすぐに読みました。
町をまるごと公園に。想いに惹かれ助けてくれる人々
――本が想いを支えていたのですね。
田川一郎氏: はい、本と故郷の存在ですね。仕事をしていて、「この会社じゃいかん」とか「でもこれをやりたい」とつっぱねたり、「クビになってもいい」などと思ったこともあります。そういった時も僕は「田布施に帰れば、飯ぐらい食える」と思っていました。故郷が僕のバックグラウンドとなり、前に進む勇気をくれました。だから、田布施に住んでいる人たちが、きれいな町に帰りたいと思えるような、働く勇気が出る町にしておきたいというのも、公園化を考えている理由の1つなのです。
去年の12月くらいから立ち上げて、始めました。町民の盛り上がりもだんだん出てきています。町中を公園にしようとしていますが、花や桜の美しさを、春になったら楽しもうという感性が育っていない人も結構います。「桜の木を植えてみろ、毛虫がすごいの知っているのか?」とか、「秋の葉っぱもどうするんだ?誰が掃くんだよ」と言って反対する人もいます。
邪魔になれば人間はよけて歩きますし、車は徐行します。「東京の子どもたちは毛虫を図鑑でしか知らないんだよ。落ち葉を掃こうと思っても、落ち葉はないんだよ」と言っても分かってもらえません。山口県に、まど・みちおさんという詩人がいらっしゃいました。「ケムシ、さんぱつは きらい」、さんぱつはきらい、それだけの詩ですが、この感性はすごいと思います。そういう感性は東京や、図鑑をみるだけでは育たないと思います。
――町をまるごと公園にしようと思ったのはなぜでしょう。
田川一郎氏: どこを歩いても楽しい町にしようと思ったのです。僕たちも寄付金を集めて、拠点となる公園のようなところを作りますが、丸ごと公園化計画なんて、僕1人ではできません。町民1人ひとりに、「あなたの家の周りやお庭に、自分の好きな風景を作ってください」という町民への呼びかけが主流なのです。
ブルーベリーを植えるぞと言った時も、農業の体験があまりないので、叫んで風呂敷を広げただけなのですが、それを実現してくれる人がいるのです。同様にやろうと言って集まってくれたメンバーが、今、20人ほどいます。公園を作るといえば、まず青図があって、そこに描かれた公園造りを進めていくのですが、僕の公園作りは違います。6000戸の町民1人ひとりが、美しいと思う好きな植物、花木を植えます。その総体が公園になるので、でき上がりは分かりません。それがまた面白いのです。