日本人の精神の根源にあるものを伝えたい
日本普及機構を設立し、日本の歴史や文化、その素晴らしさを伝える金谷俊一郎さん。今までの予備校講師や、執筆、講演活動の根底にあるものも「日本人の美徳や精神を伝えたい」という想いでした。幼少期より親しんだ古典芸能の話から、日本の現状、重要な役割を果たす本の可能性について、金谷さんの想いを伺ってきました。
日本人の美徳や美意識
――代表理事を務められている日本普及機構での活動についてお伺いします。
金谷俊一郎氏: 日本の歴史と、日本の良さを人々に伝える活動をしています。私たち日本人はおもてなしの気持ちを持っていて、そういった部分ではすごく長けている民族だと思います。例えば、日本のホテルサービスは世界に冠たるものだし、飲食業界での接客も、訪れた外国の方に驚かれています。
――諸外国は日本の姿勢を積極的に学ぼうとされていますね。
金谷俊一郎氏: ええ。「おもてなし」という概念に代表される、日本人の根底に流れる美徳や美意識を伝えたいのです。そのような意識が端的に表れたエピソードがあります。東日本大震災の後、都内でタクシーに乗ったときのことでした。タクシーの運転手さんは69歳。元商社マンの彼は、脱サラして気仙沼で工場を経営していました。家族で一生懸命経営されていた矢先、震災が起こったのです。
当時盛岡にいた彼は無事でしたが、工場は津波に流され、従業員2人以外は奥さん娘さんも、亡くされました。自分が脱サラすると言わなければ……、昼間から酒を飲む生活を送るようになり、落ち込んで打ちひしがれていたそうです。
――大変な状況だったのですね。
金谷俊一郎氏: そんな時に、彼は11歳と9歳の震災孤児に出会うことになります。彼の手元には工場も何もありませんでしたが、この子どもたちの養育費を支援しようと東京に出てきてタクシーの運転手を始めたのです。そういう話が終わったところで、東京駅に着いてしまったので、彼のその後は分かりません。確か、大和タクシーだったかなと思います。
――自らが苦しい中で、手を差し伸べる……。印象的な出来事ですね。
金谷俊一郎氏: 大変な状況下で他人に手を差し伸べる人を目の当たりにしました。私であっても「日本人だから、同じ状況になっても同じようにできます」と言い切る自信はありません。ところが彼は単身、東京に出て来てタクシーの運転手を始めました。69歳で何故そういうことを考えられるのか、原動力はなんだろう、と思いましたね。外国にもボランティアをしている人はいらっしゃいますが、ある程度財をなして、財団を作ってやっている方も多いのです。
極限状態のような例をお話ししましたが、この前のワールドカップのコートジボワール戦の時にも、そういったことがありましたよね。試合に負けてバスが20台燃えた国もある中で、日本は負けたけどサポーターはゴミを拾って帰った。やはり日本人の根底にはそういう美徳、美意識があると思うのです。
古典芸能と伝記に親しんだ幼少期
――金谷さんのそういった美徳や美意識を感じる素地は、どのように培われたのでしょうか。
金谷俊一郎氏: もともと2、3歳の頃から長唄や三味線をやっていて、6歳から日本舞踊をやっていました。そういう形で歌舞伎の世界にはずっといたので、歌舞伎の脚本や能の謡曲を書きたいと思っていました。本は偉人の伝記を読み漁っていましたね。平凡社とポプラ社が2大巨頭でしたが、私はポプラ社のタッチが好きでしたよ。伝記を伝えたいというのが、もう1つの夢でした。
当時、家の本棚には松下幸之助や豊田佐吉とかロックフェラーやアンドリュー・カーネギーなどの伝記がありました。家の本を読み終えてしまうと、学校の図書館、それでも飽き足らず市の図書館、と読みあさっていきました。京都の府立図書館の書庫にある、戦前の木村長門守、武内宿禰神や神功皇后というところまで全部読みました。
高校時代はラジオが一番盛り上がっていた頃でした。MBSの「ヤングタウン」という番組が人気で、月曜日が鶴瓶師匠で、火曜日が飛鳥さん。水曜日がさんまさん、木曜日が紳助師匠、金曜日が谷村新司さん、そして土曜日が当時、大人気のあのねのねさんという布陣の豪華な番組でした。その裏番組で、ある日、今は脚本家をされている先輩から「コーナーのネタを考えてください」と言われました。それで何本か考えてみたら、「面白いから、ちょくちょく来なさい」と言われるようになって、放送作家みたいなことをしていました。ハガキ職人というわけでなく、ちゃんとお給料も頂いて……。だから受験勉強はきちんとやっていなかったように思います(笑)。